随分と間が開いてしまったが、『捨てられる迄』と絡めて『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』、それから遺言のような未完の小説のお話を書きたい。
『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』を読むと、昭和36年は千萬子さんにとってさんざんな年だったようだ。
この年は、正月早々第2子妊娠中らしき話が出てくるのだが、その後さっぱり出て来ず(出産したがすぐに亡くなったらしい)、この年に出てくる話はたをりさんのポリオのワクチンに関わる大騒動が中心だ。
この件については、祖母である松子夫人と母親である千萬子さんの意見が合わず、ほとんど千萬子さん1人対他の皆さんという状況になっていった。出産の頃はご主人は九州。ご主人との間も冷え込んだ。9月には例の松子夫人がお金を返さない事件があり、12月4日の手紙ではついに
「今まで一番つらかった時期を独りでしかもこの家に放っておかれたのですからこれから先きもやってやれないこともありますまい。
このまゝ年をとったらどうなるのだらうとそんなことばかり考へて居りますが。
生きてゐたらもう一度 恋 などをする時がありますかしら?」という手紙を谷崎宛に出すに至っている。
昭和37年3月4日の谷崎の手紙には、千萬子さんへプレゼントした歌額について
額がお気に召して結構です。あれを書くには家内にも見せないやうに隠れて書きました、
「千萬子に書くならエミ子にも書いてやつてくれ」と云はれるのがイヤだつたからです
という文面が見える。松子夫人、そんなことを言うようになっていたのか…。
それから、その348で書いた昭和37年10月の手紙の件は、もしかしたら千萬子さんの意見ではなく、松子夫人が言わせたのかもしれないなどと思うようになった。というのは、『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』で伊吹氏も書いているが、松子夫人、自分が直接言いにくいことを、この人から言ってもらえば谷崎が聞いてくれるかもしれないという人にそれとなく話してくれるよう頼むことがあるからだ。
実はそれより前に、谷崎の学生時代からの友人に紹介された秘書について松子夫人が、「あの人にそんな高い給料を払ふ価値はない阿呆らしいと千萬ちゃんが言っていた」(もちろんそんな風には言っていない)と2度も谷崎に言って言外にやめさせようとした事件があるのだが、方法を変えたようだ。
昭和37年10月の件についてもそうだったかどうかは想像でしかないが、「家の新築と名義のこと」と「谷崎の創作の源泉に関わること」という、大層言いにくいことをこのタイミングでなぜ千萬子さんが谷崎に勇気を奮って言わなくてはいけなかったかと思うと、そんな気がするのだ。
その前の昭和37年6月には、千萬子さんのところへ忙しくて大変そうだから女中さんを貸すと松子夫人が言い、千萬子さんがそれを断るという事件が起きている。とてもきな臭い。
結局、10月の件のときに谷崎から千萬子さんに電話がかかったり、「何とかしてお目にかかりたい」という手紙が届き、このあたりから2人の間が急速に近づいている。
ここで、遺言のような小説がどういうものになる予定だったか、『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』から一部引用する。
ところが、つい近頃、老人は「御菩薩(または深泥)魑魅子」という若い女性に夢中になって、もう余生は何年か多寡が知れているのだから、好きなことをして死にたい、「魑魅子」と「閼伽子」とを天秤にかけて過すのは嫌だから、ついては、この際、「閼伽子」と離別し、この家を出て、「魑魅子」と暮そうと思う、と言い出した。ただ、今さら「閼伽子」に実家に帰って旧姓を名乗らせたり、経済的な不自由をさせたりはしたくないから、思い切って財産を家族全員に分け与えようと思うと、老人は言うのだが、家族はもちろん大反対である。第一、「魑魅子」というのは、あまり上流の家庭の育ちであるとは言い難く、才ばしったところのある油断のならない女なので、どうせ老人の懐ろを狙ってのことに決っている、と、周囲からは誰にも理解されないまま、「夢白」は自分の望みを押し通し、「魑魅子」と同棲して、色欲に溺れた結果、心臓発作を起して死ぬ、そして彼の死後、初めて家族の前に、「夢白」の秘していた本心が明かされる
この老人は兜町の株式仲買人になって成功した人物とされている。谷崎の祖父を思わせる設定だ。『夢の浮橋』のときもそうだが、こういう作品を書くときには祖父の影がチラリと入る。
谷崎は実妹が離婚する際にその息子を谷崎の戸籍に入れて跡取りにされては困ると弟の精二氏に手紙で書いていたことがあったが、千萬子さんの嘆きに遇ったことと自分の死期が迫ってきていることで、それならばと千萬子さんと過ごす甘美な世界を思い浮かべることで死の恐怖から逃れようとしたかもしれない。そう考えたら、この際複雑になってしまった戸籍を整理したいという気持ちが出てきたとしても不思議ではない。鮎子さんのこともあるし。
昭和37年11月9日の千萬子さんの手紙には、谷崎が着々と千萬子さんの改造に取り掛かっている様子が見えるが、もちろん最終的なところまで実行できるはずもなく、死の2ヵ月前、千萬子さんに別れを告げるように京都の渡辺家に滞在、帰宅後千萬子さんとの交流を絶った。そして、昭和40年の誕生日、いよいよこの小説に取り掛かろうとしていた矢先に自分の誕生会で食べ過ぎ体調が悪化、そのまま帰らぬ人となった。
昭和38年3月7日の谷崎の手紙にある短歌
香港の花の刺繍の紅き沓
沓に踏まるゝ草と
ならばや
を昭和38年8月に叶え、その後千萬子さんはお母様と大喧嘩。それ以後の書簡は見つかっていないものがかなりあるようだ。
『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』によると、谷崎の真の「死者の書」ともいうべき日記が姿を消しているそうだ。これが私たちの前に現れるまでにはまだ何十年か必要なのかもしれない。
『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』の「文庫版のためのあとがき」には、千萬子さんが小田原で暮らしていることが書かれている。谷崎と小田原との関係について、千萬子さんは全然知らずにこの地を選んだそうだ。
『熱風に吹かれて』を読んだ後、その次に『捨てられる迄』という作品が入っていたので読んでみた。作品の最後に物語が何年何月に作られたかが書かれているのだが、『熱風に吹かれて』が大正2年8月、この『捨てられる迄』が同年11月である。『熱風に吹かれて』を仕上げた後、すぐにこの作品にとりかかったとみられる。
この作品は、そこそこ希望に合う女性を見つけて、その女性を自分好みに改造していき、そして作られた芸術的な恋愛の結末によって、二人で心中するか、自分独りで死ぬか、いずれにしても自分が幸せに死ぬことを考えている男性のお話だ。結局女性の方が上手で、女性をそのようにしてしまったのは自分という事実を受け入れて、その女性の歴史の装飾品の一つになろうと決心するところで終わるのだが、この終わり方で東野圭吾の作品を思い浮かべた。
でも、正直言ってちょっと話の運び方に無理がある。また、「女性をそのようにしてしまったのは自分」と、自分の運命を受け入れるような書き方をしつつ、実はこの女性、その男性によってそのようになったのではなく、もともとある性質がその男性によって助長されただけではないか、いや、その男性のやってきたことは全然関係ない性質と思われることなどから、いまいちすっきりしない。『刺青』や『痴人の愛』のような読後感がないのだ。
でも、それではやはり谷崎の作品として何か変なので、あらためて注意深くみていくと、その男性の書いた「翻訳物」によって感化されたことにより、その男性より強力にその男性の理想を体現できた男性が、その翻訳物を書いた男性に勝利したということのようだ。
でも、この作品を書いたときの谷崎の心境としては、女性と共に生きていくことよりも死ぬことの方を幸せと考えていたのか、野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』によると、当時友人に「一人で死ぬか、二人で死ぬか、その時になって見なければ何とも言えないが、兎に角死ぬ事は死ぬのだ」と谷崎が言い出した話や、早川の古老の話として、「谷崎潤一郎が早川で、自殺未遂だか、心中未遂だかをやらかしたように聞いたことがある」と語っていたという話がある。
当時の心境について、後に千代夫人と結婚して鮎子さんが生まれたときに書いた『父となりて』というエッセイには、
「私に取って、第一が芸術、第二が生活であった。初めは出来るだけ生活を芸術と一致させ、若しくは芸術に隷属させようと努めて見た。私が『刺青』を書き、『捨てられるまで』を書き、『饒太郎』を書いた時分には、其れが可能の事であるように思われて居た。又或る程度まで、私は私の病的な官能生活を、極めて秘密に実行して居た。」
と書かれているそうだ。で、その極点が『金色の死』という作品だと野村氏は書いている。
『金色の死』は以前に読んだことがあり、かなり強烈な読後感を持ったことを覚えている。当時は皮膚呼吸という知識がなかった(それくらい若かった時分(^^;)ので、なぜそんな結末になるのかわからなかったが、その後調べて理解した(でも、どうやらそれは都市伝説らしく、皮膚呼吸が止まっただけでは死なないらしい)。この作品については三島由紀夫が死の半年前にこれだけとりあげて解説を書いているそうだが、わかるような気がする。結局、その方向で行くと自らの芸術を全うする先には「死」が待っているわけで、そこで方向転換を余儀なくされたのだろうと、あの三島由紀夫がその時点で書いていたそうだ。
谷崎も『父となりて』の中でさらに、
「やがて私は、自分の生活と芸術との間に見逃し難いギャップがあると感じた時、せめて生活を芸術の為に有益に費消しようと企てた。」
と書いているらしい。
『父となりて』の引用の中で、『饒太郎』という作品があったが、これについては佐藤春夫が「彼の『ドリアン・グレーの画像』とも云うべき」作品であり、「力作であって堂々たる風格を持っている。彼の代表作の一つとして逸し難いもの」と高く評価しているそうだ。
『饒太郎』とオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレーの画像』については、いずれ読んでみたい。
『ドリアン・グレーの画像』については、和辻哲郎が谷崎との会話から、小説家になることを諦めたきっかけになった作品という興味もある。
なお、和辻哲郎と谷崎は、その後も友情が続いている(こちらもちょっと興味あり)。
次回は、この作品と、遺言のような未完の作品と千萬子さんのかかわりについて書いてみたい。
というのは、この作品を読んだときに、「ああ、これをやりたかったのか」と思ったからだ。千萬子さんはこの点でも理想的な女性だったのだろう。
2007-08-16
この作品、主人公のライバルに注目すると別の面が見えてくるみたい。主人公をあの舞台に引き入れさせたのは、たぶんその男性だと思うから。彼女をより芸術的存在にするために。そして主人公を自らの芸術に殉じさせるために。怖~っ
それから、『痴人の愛』の後、『蓼喰ふ虫』とほぼ並行するような形で『卍』という作品が書かれているんだけど、これが今までどうにもわからなかったのよねぇ。『卍』は、もしかしたらこの作品の系統を引いているのかもしれないわね。『捨てられる迄』のライバルの側にスタンスを移した谷崎によって作られた、『痴人の愛』に続くせい子物なのかも。ライバルに注目したら、急に色々な事件がつながって見えてきたわ。
その351で読みたいと書いた『熱風に吹かれて』を読み終わった。
この作品は、早川の「かめや旅館」で書かれたもので、その旅館がそのまま舞台として借用されているようだ。
早川といえば、ユーミンが出演したSuicaのCMで、女性とペンギンが大宮でケーキを買い、湘南新宿ラインに乗って行った先の、あのなんとも風情のある駅のある街だ。ここには以前から行きたいと思いつつ、まだ実現していないが、電車で一本で行けるのだから、いずれ近いうちに行きたいと思っている。
物語は、主人公が仕事で初めて京都に行き、京都の風物・女性に物足りない思いをして帰ってくるところから始まる(後の谷崎からしたら意外なことだが)。
谷崎は初めて京都に行ったとき、同行者と一緒になってさんざん遊び、以前に患った神経衰弱を再発させて帰って来たというエピソードがある。
物語の主人公にも投影されているが、実は谷崎、母親譲りのかなりの潔癖症なのだが、若い頃は悪ぶることを旨としていたため、かなり派手に遊んだようだ。学生時代の友人の手記によると、その頃は次々と病気を遷されてきたらしい。潔癖なのにそんなことをしているわけで、それがかなり神経を蝕んだことは十分想像できる。そしてこの主人公は、この潔癖からくる問題を解消してくれるような女性に出会うことを期待している。
そもそも谷崎がその後関西の風物に染まっていったのには、関東大震災という決定的な事件もさることながら、小出楢重という画家との出会いが大きいと私は思っている。あの有名な『陰翳礼讃』は、このエッセイが発表される2年前に亡くなった小出楢重へのオマージュではないだろうか。
話はそれたが、物語はその主人公が東京へ戻り、友人夫婦の投宿している旅館に寝泊りするところから話が展開していく。
で、その友人夫婦に、谷崎の母の姉の夫に谷崎の祖父から譲られた旅館を経営している従兄弟夫婦の性格やエピソードがかなりそのまま投影されているらしいのだ。
谷崎は早川に来る前、その旅館(京橋区蒟蒻島(現新川1丁目)の真鶴館)で小説を書いており、そのときにその奥さんと恋仲になってしまうのだが、その女性の性格、谷崎とその女性の間柄を示す手紙がある。
以下、かなり長いが、野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』から引用する。
「上述の如く、小生は毎日勉強しているに不拘、お須賀さんは小生を目して、のらくら者の道楽者の標本のように申居られ候。真鶴館へ来てから一と月半程の間に、お須賀さんも小生も追々化けの皮を脱ぎ、お転婆と腕白者と、目下のところ本音の吐きくらべを致居る始末、あらまし御想望下され度候、尤も御転婆と腕白者とはgenderが異なるのみにて、一味の相通ずる所無きにしもあらず、御案じなされる程仲の悪い訳には無之候間、御懸念下さるまじく候。
ゆうべはお須賀さんが小生の悪口を書いて浜松へ送ると申し、長い手紙を認められたる結果、手紙の奪い合いと云う一場の活劇を演じて、大格闘を惹き起し候。驚いた事にはお須(ママ)さんのお転婆は、殆ど巴御前板額の塁を摩して、腕力にかけてもなかなか小生如きぶくぶく太りの男子の企及する所に無之、旅館の女将などをさせて置くのは惜しいものにて、玉川砂礫の運搬の工夫でもさせたら人物経済の点より結構至極と存候。お蔭で小生は向う脛を擦りむき、拇指の関節を挫き、危いところで生れもつかぬ不具になるような仕儀、当夜の猛烈さ加減、御諒察され度く候。尤も其の奮闘の揚句、手紙は首尾よく奪い取り申候。乍憚御安心下され度候。」
「話は変り候えど、小生お蔭を以って去る八日徴兵検査に首尾よく不合格、此れに就いてはお須賀さんの尽力一方ならず、わざわざ炎天に麻布の知人の軍医を訪問して、いろいろ検査のがれの秘術を伝授致され候。のがれたお祝に先日ウント風月の洋食を御馳走致し候処、あまり喰い過ぎて二三日下痢を起され、お気の毒に存候。此れにつけても慎む可きは女子の健啖に候。(此の文句は、今小生の傍にありて、手紙を書くのを覗き込んでいるお須賀さんに読ませる為めに、したためた次第に御座候。)」
(中略)
「真鶴館には甚だ不都合なる習慣これ有り、毎朝寝坊をしている客の顔へ、墨やらお白粉やら塗りつけて、手を叩いて興がるのは、随分乱暴な話に候。このいたずらは総大将の今板額──お須賀さんが、女中を指揮して執行する物にて、さながら古えの『うばなりうち』の如く、恐ろしき勢に候。こう云う連中を日本に置かずに、倫敦へでも輸出したら『女子参政権運動』も大いに壮士が殖えて、心強かる可きかと、独りで残念に思い居候。」
この手紙は何回読んでも笑ってしまうが、その仲良しぶりがうかがえて微笑ましい。
小説の中でも大体こんなように、主人公が海に浮かんで寛いでいるのを見て「豚の土左衛門」呼ばわりするような女性として描かれている。
一方、その夫の方の描き方が、これがひどい(^^; それも実際あったエピソードが含まれているらしく、モデルにされた従兄弟はその後奮起して、旅館をたたみ、歯医者になっている。
これだけひどく書いたら、二度とこの従兄弟には顔を合わせられないだろう。後に上の手紙を送った相手が佐藤春夫にその歯医者を紹介したときに、谷崎は猛烈に怒ったそうだ。『君はどうして佐藤をあんな所へ連れて行ったんだ。歯医者はほかにいくらもあるじゃないか』『あれは困るよ。佐藤のような頭の鋭い男を連れてそんな家に行くと、すぐ想像をしてしまう』と。
なので、その後谷崎はこの小説のことを
「口にするだに冷汗を覚ゆるほどの劣等なる作品」と、単行本『麒麟』の序文に書いているそうだ。
その気持ちはわかるような気がする。
大体、相手をメチャクチャに貶したりした後で秘かに後悔することの多い人なのだから、書いている途中で気づきそうなものだけどねぇ(^^;
でも、作品としては、谷崎自身がそこまで言うほどの劣悪な作品ではもちろんない。
この本の末尾の解説には、夏目漱石の『それから』を意識している小説なのではないかと書かれている。
私の感想としては、そのお須賀さんの件と併せて、亡くなった初恋の相手(箱根の旅館の娘)の件を消化した作品なのではないかなと感じた。
Yuming FC WEBにユーミンが掲載されているメディアの情報が載っている。その中で、今売っている「Dankaiパンチ」8月号の記事を読んだ。
タイトルの川添象郎十番勝負は、今回で3回目だそうだ。毎回、この人の父親が開いた飯倉の「キャンティ」で対談を行っているようだ(バックナンバーは雑誌のオンライン書店 Fujisan.co.jpからも購入できます)。今回のゲストはユーミンと加賀まり子という超豪華版だ。
前の2回は男友達がゲストだったそうなのだが、今回は女性ということでホストである川添氏、最初から随分と緊張していたようだ。対談が行われた日が13日の金曜日だったこともあり、それを強調していたら加賀まり子に「関係ないでしょう。アーメンは。」と言われ、「そうでなくて、怖いと言ってるの!」と言っている。なんだかわかるような気がする(^^;
話の内容は、2人が川添氏と知り合ったきっかけからデビュー秘話、さらには川添氏の女性遍歴の話などだが、ミュージカル『ヘアー』の話も出てきた。
この中で、ユーミンが14歳のときに『ヘアー』のオーディションに来ている人の伴奏を弾いていたという秘話が話された。編集部の注にはこの話を初公開と書いてあったが、「あれ?、そうだったっけ」とふるだぬきさんからいただいた資料を見てみたところ、確かに加橋かつみが『ヘアー』で共演したシー・ユー・チェインの紹介で加橋かつみと知り合ったということまでは書いてあった(この情報は、ユーミンが川添氏と知り合うきっかけとしてこの対談でも出てきた)が、伴奏のことまでは書いてなかった(でも、どこかで聞いたことがあるような気がするんだけどなぁ)。
例の1曲目から泣きっぱなしだったデビューコンサートの話も出てきた。そう。川添氏はそのときに「この子はすごい」と言った、その人なのだ。
それにしてもこの川添氏、『アッコちゃんの時代』を読んだときにも伝わってきたけど、なんだか面白い人みたいねぇ。編集部の人にも、「我らが象ちゃん」と表現されているし、加賀まり子が川添氏のことを「アメリカ人だから」と言ったときの注にも、「川添象郎氏のショートカットな思考回路と行動様式を指しているものと思われる」と書かれていたりする。
11ページに亘るこの対談は、この興味深いキャラクターの持ち主を中心にしてさまざまな秘話がちりばめられた大変中身の濃いものだった。
そうそう。この雑誌と一緒に、シャングリラIIIを大特集した「GOETHE(ゲーテ)」9月号も購入したが、こちらは現在マサノリのところに行っている。マサノリに渡す前にざっと読んだが、こちらもかなり濃い中身だ。横浜初日を終えた時点の正隆さんのコメントも載っている。
その2を書いてから1ヵ月が過ぎてしまった。
その2では、2人の姑と千萬子さんの話を書いたが、この問題とからめて『夢の浮橋』と書かれず終いになった遺言のような小説の話について書いてみたい。『夢の浮橋』についてはその319の『われよりほかに』(その2)で中断したまま止まっていたので、それについても合わせて書いてみようと思う。
『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』の著者である伊吹氏は、『夢の浮橋』について、谷崎が自分の作品の源泉を松子夫人と重子夫人の2人から、千萬子さんへと移そうとして失敗した作品だと書いている。
確かに、『夢の浮橋』の最初の母と2番目の母が姉妹であることは、この作品を注意深く読んでいけばわかる。さらに伊吹氏が書くところによると、糺の嫁澤子のモデルは千萬子さんで、2人の母から澤子へイマジネーションの源泉を渡し切ることを「夢の浮橋」に例えている。
だが、これは相当に無理がある。谷崎は頭の中にある世界を描くために松子夫人を媒介としていたということは伊吹氏も認めているのになぜかこの作品についてはそのまま受け取ってしまっているのだ。
伊吹氏によると、澤子の経歴には千萬子さんの経歴がかなり投影されているそうだ。
後の潺湲亭はもともと千萬子さんの祖父である橋本関雪ゆかりの屋敷だったので、確かにそのあたりは五位の庵と澤子の関係にダブるものがある。だが、私はこの澤子には谷崎の最初の妻である千代夫人の影を強く感じるのだ。
なので、この書簡集の中で、千萬子様と書くべきところを千代子様と誤って書いている書簡を1通見つけたときには「やはり」と思った(もっとも、この手紙は昭和37年、『夢の浮橋』の発表は34年だが)。
伊吹氏は自分が実際に出会った人たちとの話を書くことが自分に求められていることという学者らしい生真面目さをもってこの本を書いたと思われるので、自分が実際に会ったことのない人たちのことはキッパリと除外しているのだろう。
そして伊吹氏は『夢の浮橋』発表時の多くの評論家と同じく、なぜ澤子が第二の母の胸にムカデを置いたのかで躓いてしまう。
でも、なぜ皆が皆糺の書いていることをそのまま信じるのだろう。仮にムカデを置いたのは澤子としても、どうしてそれが澤子の意思だと思うのだろう。
この事件の前に現れる第二の母の変質に気づかないのだろうか。似たようなシチュエーションに『春琴抄』があるが、春琴の顔にやけどを負わせた人物は果たして誰だろうか。
糺が澤子と別れるときにいろいろ注文を付けられたとワザワザ記されていることと、この『春琴抄』の件とを結びつけて考えた人は誰もいなかったのだろうか。さらに、『母を恋ふる記』に出てくる「母」に繋げた人はいないのだろうか。
『夢の浮橋』発表時にここが理解されず散々な評判になってしまったために、谷崎はそれを口述筆記のせいにしてしまうが、後になって、この作品は失敗作だなんて思っていないと伊吹氏に言っている。それだけ谷崎はこの作品に期待を持っていたのだと思うのだ。
千萬子さんが母親と喧嘩をしたことに関して谷崎が書いている手紙の追伸に、「親というものは時々憎くなるものですが憎みきることができないので困ります」と書いてある。実務的なことと芝居がかった文句ばかりが並ぶハニカミ屋な谷崎の手紙の中、珍しい一文で目を引いた。
谷崎についてはとかく母親のことが多くとりあげられるが、父親や祖父の影響もそれに劣らず強いように思う。『夢の浮橋』もそうだが、遺言のような小説にも、娘ばかりを手元に置いて男の子は皆養子に出してしまった谷崎の祖父と、亡くなるときに「お関」と先に逝ってしまった妻の名前をつぶやいた父の影響を強く感じるのだ。
ここまで書いてきて、この書簡集で谷崎が千萬子さんを「貴重品のように思う」と書いた意味が見えてきたような気がした。それは彼女の知性ももちろんだが、それよりも、松子夫人よりさらに強い媒体としての素質だ。
『夢の浮橋』についてはあれほど千萬子さんの影響を説いた伊吹氏が、なぜか『瘋癲老人日記』のモデルについては松子夫人の方を強く挙げている。それは少し頑なではないかと思うくらいだ。でも、『瘋癲老人日記』の颯子のキャラクターは、松子夫人の思う千萬子さんのキャラクターであり、実はそのまま松子夫人のキャラクターでもある。
つまり、千萬子さんは、自分というものを持っている人でありながら、谷崎の理想とするさまざまな女性像の媒介になり得る、それこそオールマイティーな存在だったのかもしれない。(『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』終わり)
谷崎は『痴人の愛』の成功以来、あきらかに女性に対するスタンスが変わったように思う。このあたりで谷崎の純粋な恋愛の話に興味を移したくなった。
谷崎は千代夫人と結婚するよりも前、従兄弟の奥さんと恋仲になってしまうという事件を起しているのだが、谷崎はこの人とそうなる前(たぶん)にえらくじゃれ合っている様子を友人宛ての手紙に書いている。とても微笑ましいものだが、受け取った友人は「これは…」と思っただろう。
で、その事件を題材にした小説がある。『熱風に吹かれて』だ。『潤一郎ラビリンス』の13に収録されている。
この作品は以前から読みたいと思っていたのだが、今日ようやく注文した。届くのが楽しみだ。
2007-08-27
「千代子様」と誤って書かれた件ですが、その後、谷崎の無二の親友で、パトロンでもあった笹沼源之助さんの、長男のお嫁さんが千代子さんだということがわかりました。千萬子さんとは似たような立場の人なわけで、こちらとの混同の可能性もありますね。
まあ、ただ単純に間違っただけという可能性が一番高いのですがが(^^;