ラブレターズ

その435(2010.01.19)『夢の浮橋』の乳母

その433で予告させていただいた、乳母と加藤医師の件だが、まず、乳母の問題を整理したい。

『夢の浮橋』に、次のようなシーンがある。まず生母とのシーン。

夜九時になると、
「糺さん、もうおやすみ」
と云われて、私は乳母に連れられて行く。父と母とは何時頃まで起きているのか分からなかったが、夫婦は奥座敷の勾欄の間に寝、私は廊下を一つ隔てた、奥座敷の北側にあたる六畳の茶の間で乳母と寝た。私が駄々をこねて、
「お母ちゃんと寝さしてえな」
と甘ったれて、なかなか寝つかないでいることがあると、母が茶の間を覗きに来て、
「まあ、ややさんやこと」
と云いながら私を抱き上げて、自分の閨に連れて行く。十二畳の間には夫婦の寝床がすでに延べられているけれども、父は合歓亭へでも行っているらしく、まだ床に就いていない。

母を恋しがって父や乳母を困らせた時。

「よしよし、そなお父ちゃんと寝よ」と、十二畳の間へ連れて行って、抱いて寝てくれることもあったが、父の男臭い匂いを嗅ぐと、母の匂いとはあまりにも違う気味の悪さに私は少しも慰まなかった。父と寝るよりはまだ乳母と寝る方が優しであった。
「お父ちゃん気味が悪い、やっぱりばあと寝るわ」
と云うと、
「そな、そこの次の間アでばあとねんねしい」
父がそう云うので、それからは奥座敷の次の間の八畳で乳母と寝た。
「お父ちゃんが気味悪いたら、何でそんなことお云いやすのでござります」
乳母は、私の顔は父にそつくりで、母には似ていないと云うのであったが、そう云われると私はまた悲しかった。

父が再婚して

二三年この方、父と襖一重を隔てて寝る癖がついていた私は、新しい母が来た夜から再び乳母と六畳の茶の間で寝た。父は新しい妻を得て全く幸福を感じているらしく、亡き母の時と同じような夫婦生活を送り始めた。

父はなぜ合歓亭に行っていたのだろうか。亡き母の時と同じような夫婦生活って?

千葉俊二著『谷崎潤一郎『夢の浮橋』草稿の研究 : その四「ねぬなは物語」』という論文がWeb上で公開されている。この論文で『夢の浮橋』の第一稿の一部が読めるのだが、次のような文言がある。

これから先、[お前を大っきいして行く為にも、]あゝ云ふ人[に]〈が〉ゐて[もらはんと、何かにつけて、工合悪い、]〈くれたら〉お前を大きいして行く為にもどない助かるや知れんと思ふ、

[ ]の部分が削除された部分、〈 〉の部分が加筆された部分ということだが、どうだろう。もらはんと、何かにつけて、工合悪い、の文言は。

さらに乳母は、父がちょうど夫婦生活を禁じられた時期に暇を取っているのである。

乳母が暇を取る理由には、糺と母との関係を作るには乳母がいると具合が悪いということもあると思うのだが、この削除の意味は結構大きいように思う。

今、これらの謎を解決するために『アンナ・カレーニナ』を読み始めているのだが、こ、これは…… 松子夫人と出会い、妹尾夫妻と出会った時の谷崎の興奮がいかばかりだったかが想像できる。『細雪』にしても『春琴抄』にしても、『夢の浮橋』の中に見落としそうなほどさらっと出してきているこの小説の世界こそが自らの人生のフィクション化の台本だったのかもしれない。


その434(2010.01.18)MASTER TAPE~荒井由実“ひこうき雲”の秘密を探る~

16日夜9時~9時55分、BS2でMASTER TAPE~荒井由実“ひこうき雲”の秘密を探る~という番組が放送された。出演は松任谷由実、松任谷正隆、細野晴臣、林立夫、駒沢裕城、有賀恒夫、吉沢典夫、村井邦彦、雪村いづみ、シー・ユー・チェンというメンバーで、スタジオではユーミン、正隆さん、細野さん、林さん、駒沢さん、それから有賀さん、吉沢さんがアルバム『ひこうき雲』のマスターテープを聴きながらそのエピソードを語るというものだ。
多重録音されたそのテープを、全体で聴いたり、楽器のパート、歌のパートを取り出して聴いたりしながら自由に会話が進められていた。

ユーミンと正隆さんは並んで座っていた。私はその二人の表情を特に注視しながら1時間テレビの前にいた。

正隆さんが、当時のレコーディングディレクターである有賀さんにする質問はとてもシャープだった。聞かれた方が「オッと」と引っ込みそうな勢いだったが、現場ではどうだったのだろう。
印象に残っているのは、なぜノンビブラート唱法にようと思ったのかということと、「ひこうき雲」の最後のところの「かけーてゆくううう」というところを本当に歌っているのかという質問。ノンビブラートについては、有賀さんがユーミンのちりめんビブラートが嫌いだからという答えで、「ひこうき雲」の最後は、もちろん実際に歌っていたそうだ。

ユーミンの歌のパートについては、トラックを3つくらいあけて、何回も歌って良いところをつなげていくものだったそうで、そのやり方をユーミンが嫌がって泣いたという話もあった。

「雨の街を」のエピソードには思わずニッコリした。
レコーディングが1年もかかったため、最後の「雨の街を」を歌う頃には、もう歌うのも嫌になっていたそうだが、そんなある日、ピアノの上にダリアが挿してある牛乳瓶があり、スポットライトがあたっているように見えたというものだ。
前日に正隆さんと井の頭公園でデートして、その時に何の花が好きかという話になって、ダリアが好きと言ったことを思い出してレコーディングを乗り切れたという。

職場恋愛といえば、初めて会った時は「なんでこんなアメリカっぽい人たちとなんだろう」と思ったそうだが、1年の間に職場恋愛モードになって、「何とかの好きな赤烏帽子」状態になったというユーミンの表情も良かったわね。やっぱり恋の力は偉大よ。
その意味で「曇り空」の男声コーラスが正隆さんだったというのも嬉しかった。

さらに、正隆さんの演奏が雨のモヤモヤ感を見事に再現しているところも印象に残った。他の楽器のパートを取り出して聞いていても、細野さんが盛んにイギリスっぽいなぁと言っていたが、それは楽曲の特徴を感じながらそれぞれのミュージシャンがその場で得意な奏法を使って楽曲を見極めながら作り上げていくという方法により自然に紡ぎ出されたのだろう。

そうそう。ユーミンが、アルバム『ひこうき雲』では、雨や霧や雲ばかり歌っていると言っていたが、それには思わずいやいやいや、毎月壁紙を作っていて思っていることですが、ユーミンの曲はこのアルバム以外も雨や霧や雲がヒジョーに多いですから! と突っ込みを入れてしまった。

正隆さんの方は、MASTER TAPEを聞いていろいろなアイデアが浮かんだようで、それが今後どのように出てくるか楽しみだ。

なお、この番組の内容をおさらいするのに良いサイトを、事前にtcさんが教えてくださっていた。何でも掲示板の方にも書かせていただいたが、シティレコードのサイトの中の「An Episode in The Recordings of"Yuming's Classics」というコーナーだ。今回このレポートを書くにあたっても記憶の確認に使わせていただいた。

また、その前にもふるだぬきさんから、「ヤング・ギター」1973年9月号に載っていたアルバム『ひこうき雲』の予告記事を教えていただいた。当時の期待の高さをうかがわせるものとして、ここに改めて引用させていただく。

●荒井由実のレコーディングニュース
荒井由実さんと言えば、加橋かつみ君の「愛は突然に」を作曲したりしているから。知っている人も多いと思うのだけど、昨年の秋、シングル「返事はいらない」も出ていますネ! その彼女が今度はキャラメル・ママをバックにレコードを今制作中。彼女の音楽的才能に加えてキャラメル・ママの演奏となれば、確かに注目に値するだろう。

その433(2010.01.17)『夢の浮橋』と水上勉著『越前竹人形』

『夢の浮橋』は、第1稿の完成までは終始和やかに進み、そのまま決定稿の筆記に入ったところで雲行きが変わったことが、伊吹和子著『われよりほかに─谷崎潤一郎 最後の十二年』に書かれている。その経緯をかいつまんで引用してみる。

先生は、総じて自分の作品について、目の前で話をされるのを、非常に嫌われたし、執筆中の雑談も稀であったのに、この初稿の時だけは、毎日何かと楽しそうに話をされた。松子夫人は、夕方私が退勤する時、毎日のように石段の下まで見送って、「主人が、伊吹さんがよく話の相手になってくれて嬉しい、って言ってますのよ、ほんとに、よろしくね」とおっしゃった。
八月一日、嶋中鵬二氏が熱海に来られ、『夢の浮橋』が九月発売の「中央公論」十月号に掲載されることに決った。ついでに私には、中央公論社からの正式の辞令が、間もなく届くだろうと伝えられた。(中略)私は、先生が手の痛みも忘れて口述を続け、京言葉をはじめ、小さな思いつきなどを、すべて参考になると言って取り上げて下さるのが嬉しくてならず、何とかもっと、先生の意に添った文字をスムーズに並べられるようにと、送り仮名などのいわゆる「谷崎文法」の疑問点を書き出し、当時出版部に所属してその前年から刊行されていた『谷崎潤一郎全集』(新書版)の編集に携わっておられた、本社の綱淵謙錠氏に送って、ご教示を仰ぐことにした。
『夢の浮橋』の第一稿が完了したのは、八月十三日のことであった。直ちに、今度は原稿用紙を拡げて、決定稿の筆記にかかった。その日の夕方は、第一稿完成のお祝いの宴が張られたが、その頃から降り出した雨が、だんだんと強まり、風も激しくなって、深夜にはひどい嵐になった。
どういうわけか、その日から、先生のご機嫌が俄かに悪くなった。(中略)私が知人に協力を求めて集めた資料も、「用がすんだものは、さっさと焼き捨ててしまってください!」と、いらいらして叫ぶように言われた。(中略)そして、そんな状態のまま、日曜日も返上して原稿用紙に向い、二十三日に第二稿を完了、二十五日には中央公論社に渡さなければならないとあって、引き続いて休みなく、推敲が重ねられた。
決定稿で、糺の母の名が変更された。実は初稿ではまず「有為子」という名がつけられたが、それは、先生が普段から、小説に使いたい名前を書きためておられたリストから、選ばれたものであったと記憶する。一時は「虢(かく)」という名も候補になった。「虢」とは、中国の春秋時代の国名で、楊貴妃に三人の姉があり、その中の次姉が「虢国夫人」の称を賜ったということであったが、(中略)しかし、何分にもむずかし過ぎるという理由から「虢」は中止になった。
「茅渟」の名は私に、当時から四年前の昭和三十年に詠まれた、
  茅渟の海の鯛を思はず伊豆の海にとれたる鰹めしませ吾妹
という先生の歌を思い出させた。
「糺」の生母の名が、「有為子」や「虢」から「茅渟」になったのと同様に、継母の名も初稿は「経子」ではなくて、「静子」または「静」であった。(中略)実は旧作『蘆刈』(昭和七年)の登場人物「おしづ」と共通するものである。推敲の途中で、先生は、イライラしながら、
 「静子じゃなくて、つねこ。ケイザイのケイの字にルビ。お経って字!」
とおっしゃった。
二十五日の夕刻、小滝穆氏が見えた。(中略)先生は、とてもこのまま全部を渡すわけには行かない、と言って、とりあえず前半、「糺」の父の遺言のあたりまでを同氏に預け、残りは、出来次第私が編集部に届ける、ということにされた。今も私の手許にある初稿ノートもちょうどこの辺で一杯になっているから、後のノートはこの時に、どこかへ紛れてしまったのかも知れない。
小滝氏は書斎の入口で私とすれ違い様に、あとでちょっと僕の宿へ寄るように、と囁かれた
(中略)
「先生の御機嫌が悪いんでしょう? 大分やられてますな」
とおっしゃった。私が、でも、お手が痛むので無理もないのでしょう。奥様が大変心配して、よろしく頼むと、いつもおっしゃいます、私の筆記が至らなくて先生をいらいらさせてしまっても、奥様が何かととりなして、庇ってくださるので……と言いかけると、小滝氏は、
「やっぱり判らないんだなあ。それはあなた、あまり先生の役に立ち過ぎて、松子さんを怒らせてるってことなんだよ。でも、まあ、あなたに、あんまり人の心の裏を読むことを教えちまっちゃ、まずかいな」
と言って、喉の奥で、く、と笑い声を立てられた。

松子夫人だけでなく、きっと小滝氏をも怒らせていたのだろう。

小滝穆氏については、『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』も併せて読むと、そのキャラクターが見えてくる。

伊吹氏は、遥か後になって小滝氏の言いたかったことを推し量ってみたこともあったが、ここでは触れないと書いているが、これで大体想像はつくと思う。谷崎もお見通しだったのだろう。この騒動が、初稿では故人になっていたはずの乳母が糺に言う次のせりふに活きているように思う。

近頃めったに寄りついたこともない彼等が、誰からどういう噂を聞いて左様な憶測をするようになったのか、私には不思議であったが(中略)
「ぼんさん、気イおつけやすや、世間の口に戸オは立てられんて云いますけど、人は他人のこととなると、えらいこと云うもんでござりまっせなあ」
乳母は語り終わると、ちらりと妙な横眼を使って私を見た。

ということで、いろいろな障りから短い時間で原稿を修正せざるを得なくなったわけだが、乳母が生き返ったということは、初稿では沢子が母を殺すことになっていたのが、そうできなかったからではないかと想像する。

沢子については、これまでも書いてきたとおり、千萬子さんではなく千代夫人を投影しているように思う。沢子の容姿について、細面の、色白の、瓜実顔の浮世絵式容貌とか、その頃はときどき高島田に結って来たが、浮世絵式の彼女の顔がその髪型によく映ったと書かれているからだ。谷崎と千代夫人との結婚式の写真を見るとよくわかるのではないかと思う(谷崎潤一郎 新潮日本文学アルバムなどに掲載されている)。

もし千代夫人を悪女にすることができれば、乳母の復活は必要なかったということだろう。

そこで本題だが、伊吹和子著『われよりほかに─谷崎潤一郎 最後の十二年』には、発表時の酷評でこの作品に対する自信を失いかけていた谷崎が、水上勉著『越前竹人形』(あらすじはディアクオーレ成城のサイトをご覧下さい)を読んで、その感想を書いたことからこの作品に対する谷崎の評価が好転したのではないかということが書かれている。ちなみに『越前竹人形』の京都弁を担当したのは、伊吹氏である。

『「越前竹人形」を読む』で、谷崎は次のように書いている。

そういえば京都弁ばかりでなく、いろ〳〵の点で水上君のこの作品は私の「夢の浮橋」を思い出させるものがある。(中略)「夢の浮橋」では息子の糺が父の生前にその命を受けて継母の経子を事実上の妻とするのであるが、竹人形では喜助が最後まで玉枝を実の母のように慕い、彼女と同棲しながらも妻にすることを拒む。そこが「夢の浮橋」と違っているけれども、玉枝の方は父に愛されたように子にも愛されたいと願い、いつかは喜助が自分を抱いてくれる日のあることを期待する。心持の上では「夢の浮橋」と似通っている。

そして次のような文章で締めくくっている。

しかし今度の作品は推理小説めいたところのないのがいい。推理小説だから悪いと決った訳ではないが、推理と言うことに囚われ過ぎると、どうしても調子の低い、不自然なものになりがちである。忠平とのいきさつや流産のところなど、扱いように依ってはもっとあくどくエロに書けるのに、わざとそれを避けているのもいい。作者がそれを意識していたかどうかは分からないが、何か古典を読んだような後味が残る。筋に少しの無理がなく自然に運ばれているのもいい。玉枝を竹の精に喩えてあるせいか、何の関係もない『竹取物語』の世界までが連想に浮んで来るのである。

これについては、水上勉も喜助を行方不明にさせようとしたり、玉枝に子を宿させた京都の人形屋の番頭が死体で発見される場面を考えたり、玉枝をどこで殺したらいいだろうかとか言っていたそうだが、伊吹氏が帰り際に

この美しい物語に血なまぐさい事件はそぐわないのではないでしょうか

と言ったことにより、翌日には書き直してあったことが『われよりほかに─谷崎潤一郎 最後の十二年』に書かれている。

『夢の浮橋』も、物語の裏ではかなりサスペンスなことが起きているように思うが、『越前竹人形』を読むことで、そういうものを美しい世界の後ろ側に隠した『夢の浮橋』の良さを再発見できたのではないだろうか。そしてまた、千代夫人を悪女にしないで良かったと思ったのではないかと私は思う。

1回休んで、次は乳母や加藤医師について考察してみたいと思う。


2010-01-18 コメントで、私自身重大な方向転換になるかもしれない説を書きました。まだ解決しなくてはならないところがありますが、とりあえず頭の隅に置いておきたいと思います。


その432(2010.01.16)谷崎にとっての「母」

その431では、糺が6歳、9歳、13、4歳の頃について『幼少時代』から抜き出したが、これには、谷崎が11、2歳の頃の重大な記述が抜けている。谷崎が明徳稲荷の神楽堂で毎月夜の闇に不思議な悪夢を見始めた時期にもあたる(寿々女連がおこの事件を扱ったのを見たとき、谷崎はその首に誰を見ていたのだろうか。松平紀義で検索すると、いろいろと興味深いことが出てくる)。

『夢の浮橋』では、13、14歳頃から乳母とではなく一人で寝るようになったが、その後もときどき母に「お母ちゃん、一緒に寝さして」と言い、母もそう言われると喜んで言われるままにし、父もそれを許していたと記述されている。だから年表には、13、4歳の頃を独立させて、「一人で寝るようになったが、その後も時々母と寝ることがあった」と書くべきだったのかもしれない(谷崎の乳母の死とシンクロすることになる)。

谷崎が11歳の時、妹の園さんが生まれた。この人は、長女であるが故に何処へも遣られず、家で養われることになったのだが、当時母は33歳の厄年で母乳が出なくなっていたので、谷崎が始終コンデンスミルクを買いに行かされたことが、『幼少時代』に書かれている。
谷崎は、母の眼を盗んでこのコンデンスミルクをこっそりと匙に掬って飲んだ。精二さんの時に母乳を飲んだことから、谷崎はコンデンスミルクを少しずつ盗み飲むことで不安を落ち着かせたのではないかと推測する。

谷崎が自分で唯一の自伝的小説と言っている『異端者の悲しみ』は、この園さんを囲む両親と、父母と喧嘩する乱暴者の自分を対照的に描き、園さんの死によって母が一気に老け込んだことをもって終わる。また、『母を恋ふる記』では明らかに実母と思われるおばさんを母と認めず、新内流しのお姉さんを母と認める。つまり、谷崎にとって「母」とは、この園さんが亡くなる前までの母ということになる。

そこで、この時期の『幼少時代』記述で興味深いものを挙げてみる。

餅菓子(近頃東京では餅菓子といわずに生菓子というようであるが、以前には餅菓子とのみいった)は母が三橋堂に限るといって、いつも小網町へ買いに行かされた。あの店は現在も大体もとの場所にあるらしいけれども、以前は入り口が鎧橋通りの方でなく、南側についていたように思う。買いに這入ると、主人であったか番頭であったか、襷がけで前掛を締めた男が出てきて、菓子を詰めてくれたことを、それが三十前後の、やや面長な、色白な人であったことを、私は今も忘れずにいる。

何だか和田青年を思わせる。
もう1つ。谷崎はこの南茅場町2番目の家の周囲を、夜は暗くて怖かったことを盛んに強調しているのだが、一方でこのような記述もある。

おりおり、夜おそくまで父や母が帰って来ないで、精二と、ばあやと、三人で留守をすることがあった。多分両親が蛎殻町で話し込んでいたか、そうでなければ、父は蔵座敷で先に寝床に這入ってしまって、母が銭湯へ漬かりに行っていたのであろう。
(中略)
母が出かけるのはいつでも夜の十時頃であった。それというのは、夫婦さし向いでご飯を済ます間が、相当長かったからである。父は一本つけてもらうと、他愛もなく好い気持になり、眼をつぶって上半身を乗り出しながら、ちょっと意気な咽喉を聞かせた。
父は存分唄ったあとでは、そのままごろりと横になってしまう。かと思うと、すぐに物凄い鼾を掻き出す。
(中略)
そして、度々のつまりは手を引っ張り脚を引っ張りして抱き起こし、さんざん手数をかけて蔵座敷に運び込む。母はそうして置いてから、ようよう代官屋敷の銭湯へ行く。時にはばあやも一緒に連れて行ってしまう。
(中略)
ばあやはなるべく早く済まして、先に帰って来るけれども、母は非常な長湯なので一時間たっても帰らない。(中略)ああおッ母さんはまだなのかなあ、何処をそんなに洗う所があるんだろうなあと思いながら、私は路次を曲がって来る下駄の音に耳を澄ます。もう人通りは殆ど絶えて、たまに一人二人、裏茅場町の方からと、代官屋敷の方からと、通り抜けする人があるのが、カラリ、コロリと、はっきりと冴えた下駄の音をさせて通り過ぎる。それを熱心に一つ一つ数えながら気をつけていると、やがて遠くの方から、最初はかすかに、実に少しずつ、待ちに待った母の下駄の音が聞こえて来る。どんなに遠くの方からでも、子供はそれが母の足音に違いないと聴き取ってしまう。
 「潤一、お前はまだ寝ないのかい」
と、母は帰って来て、布団の中で眼を開いている私を覗き込む。ランプの下に立った母の顔は、糠袋で一時間も磨きをかけただけあって、頬っぺたが赤くピカピカと反射している。

小田原事件の後、横浜時代は千代夫人との仲がかつてないほどむつまじかったことが『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』に書かれているが、関西移住後再びうまく行かなくなってきたときにこのことを思い出し、和田青年を千代夫人に近づけたのではないだろうか。ところがそこで止まらず、その結果に谷崎自身が衝撃を受けたことによって、千代夫人と別れざるを得なくなったのではないだろうか。その気持ちの揺れが『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』に、和田青年の事件を省いたまま滲み出している。

『夢の浮橋』は第1稿が終始なごやかなうちに完成し、その後すぐに決定稿の記述に入るのだが、そこでとんだドタバタになったことが伊吹和子著『われよりほかに─谷崎潤一郎 最後の十二年』に書かれている。次回はこのドタバタにより変更になった部分について考察してみたい。


その431(2010.01.14)『夢の浮橋』と『幼少時代』

その430で予告させていただいたが、『幼少時代』の気になるところを再び確認していたところ、『夢の浮橋』と『幼少時代』に書かれている年齢がシンクロしていることが確認できた。2005年にその280を書く時に作った年表(糺の生まれたときからになっているが、これを最初の母16歳の時から作っていたら、2人の母の関係や乳母の位置が浮かび上がってきたのではないかと思う)を見ながらそれらを検証してみたい。
なお、この過程で、『春琴抄』の春琴と佐助の別のモデル(谷崎の伯父と伯母、いずれも谷崎の両親の実の兄であり姉である)や、春琴の失明に菱田春草の名前や市川新造のエピソードを引いているらしいこと、それから佐助が眼を潰すのも幼時に見た歌舞伎から来ているらしいのを見つけたが、これはまた別の話なので、またの機会に書くことにする。

さて本題だが、糺の年齢を基準に、谷崎が同じ年齢だった頃の『幼少時代』の記述を引用してみることにする。

○糺6歳 生母が子癇で亡くなる

東京ではどの程度の地震だったのであろうか。私のおぼろげな印象に依ると、それは二十七年のよりはずっと小さかったような気がするので、弱震というくらいのものではなかったろうか。私は地震そのものよりも、母の慌てかたを見て自分も慌てた。母は夢中で、家の前の往来を亀嶋川の方向へ向かって走って行ったが、私も後から追って行った。母は寝間着のまま素足で地面を歩いていた。その時分亀嶋川の岸から二、三軒手前の左側に、私たちのかかりつけの松山セイジという医師の家があったが、母はそこまで駈けて行って、そこの玄関の式台に上った。そうこうするうちに地震が止み、ばあやが漸く追い着いて来たが、母の白い小さい素足が、足の蹠だけ泥にまみれて、まだぶるぶると顫えが止まらないでいた。
ばあやに聞くと私は六歳ぐらいまで母の乳を吸ったというのであるが、自分にもその記憶がある。それもやはり南茅場町の最初の家においてのことで、もうその時は精二がいた。私は、精二が乳を吸ったあとで、母の膝に腰かけて乳房をいじくりながら吸った。
 「まあ、可笑しいこと、大きななりをして」
 などと、傍からばあやに笑われながら吸っていると、母もちょっと羞渋むような顔をしながら吸わせていた。

○糺9歳 父が第2の母と結婚し、第2の母の乳を吸う(母乳は出ない)

私は両側から家が崩れ落ちて来るのを恐れつつ、無我夢中で一丁目と二丁目の境界の大通りへ出、活版所の方へ曲がる広い四つ角の中央に立った。と、前から私と一緒だったのか、その時私に追い着いたのか、私は始めて、母が私をぎゅっと抱きしめているのに心づいた。最初の急激な上下動は既に止んでいたけれども、地面は大きくゆるやかに揺れつつあった。私たちが抱き合って立っている地点から、一丁ほど先の突き当たりにある人形町の大通りが、高く上ったり低く沈んだりするように見えた。私の顔は母の肩よりなお下にあったので、襟をはだけた、白く露わな彼女の胸が私の眼の前を塞いでいた。見ると私は、さっきは確かに氷あずきを食べていて、地震と同時にそれを投げ捨てて戸外へ走り出したはずだのに、いつの間に何処でどうしたのか、右手にしっかりと習字用の毛筆を握っていた。そして四つ角の真ん中で相抱きつつよろめき合っている間に、私は母の胸の上へ数条の墨痕を黒々と塗りつけていた。
その四つ角からは、の店と活版所とが同じくらいな距離にあったが、地震が収まると、母は家へは帰らずに、私の手を曳いて真っ直ぐ活版所の祖母の許へ行った。三年前の十月二十八日の朝、裏茅場町の往来を裸足で逃げて、松山医師の玄関へ辿って行った時の記憶が、鮮やかに私に蘇生った。今度も母は活版所の上り框へ腰かけて、泥だらけの足をバケツで洗った。
母はその時分まだの店がどうやら営業しつつあった間に、精二の弟に当る三番目の男子を挙げたが、生れ落ちると怱々、その子を千葉県東葛飾郡の、法華経寺で有名な中山村へ里子にやってしまった。母が我が子を里子に出したのはこれが最初で、その後女の子を二人までも手放すようなことになり、結局はこれらの三人を皆里流れにしたのであるが、三男の子を出した時は初めての経験だったので、どんなにか辛かったことと想像される。中山から里親が迎いに来て、その子を人力車に乗せて行くのを、泣き〳〵何丁も追いかけて行って別れを惜しんだという話を、後に私は母の口から聞いたことがあった。だが、そんなにまで悲しい思いをしてその子を他家へ預ける必要があったのであろうか。里扶持を払うにしてからが、贅沢に慣れた町の家庭で育てるよりは経済であるというような意味があったのであろうか。それにしても、その考は父から出たことなのか母から出たことなのか。谷崎家は先祖代々子供を里に出す習慣があるのだ、お祖父さんだって男の子を三人までも手放しているではないかと、父にそんな風に説かれて、母も漸くその気になったのでもあろうか。

このあたりは、その389も併せて読んでいただければと思う。

○糺13~14歳頃 母と一緒に寝ることがあった

ばあやのおみよが死んだのは私の十二、三歳ぐらい、でなければせいぜい十四歳ぐらいの時であったが、はっきりした記憶はない。彼女は乳母を止めてからは女中代りに台所で働いていたが、或る晩流し場の前の板の間に屈んで、食事の後の洗いものをしていると、急に体が左の方へ傾き、鼻から夥しく血が流れ出してバケツに一杯以上も溜った。松山医師が直ぐに来てくれて、脳溢血と分かったので、それから暫く女中部屋に寝かして置いたが、幾日かを経て、麻布の十番に住んでいる娘の夫婦に引き取られて行き、間もなく亡くなったという知らせが来た。私が生れた時からの奉公人で、並一と通りの関係とは違うのだけれども、生憎な時に死んだので、恐らく遺族に対しても十分なことをしてやる訳には行かなかったであろう。
(中略)
新たに雇い入れた女中が、無断で暇を取って桂庵へ逃げて帰ってしまうことも珍しくなかった。用足しにやると、何時間たっても戻って来ないので、変だと思って女中部屋を調べると、当座の身の回りの物がなくなっている。
 「おや、また逃げて行っちまった」
と、両親が顔を見合わせてガッカリする。それはよいとして、次の女中が来るまでの数日間、もしくは十数日間は、私にとって最悪の日がつづくのであった。
(中略)
で、女中のいない日は父が母より先に起きて、火をおこしたり、竈を炊きつけたりしたが、私もときどき父の代わりを仰せ付けられた。冬の朝など、まだ蔵座敷に行灯がともっていて、両親が寝床にいる時分に、私一人だけ早起きをして、台所の用をするのであったが、夕方のランプ掃除や折々の使い走りにも増して、このことが何よりも味気なかった。

こうして並べてみると、『夢の浮橋』で糺の身の上に何かが起こった年齢は、谷崎にとっても自分の境遇に重大な変化が訪れる可能性があったり、実際にあった時なのがわかる。

谷崎が母と歌舞伎を見てきた帰りのシーンでは

わけても私は、私の母と同じ年恰好の女が、忠義や貞節を全うするために自害をしたり、夫に刺されたり、最愛の子に別れたりする場面を見た暁には、自分の母が万一そんな羽目になったらどうするであろうか、自分の母も忠義のためや貞節のためには私を捨てたり殺させたりすることがあるだろうか、などと考えながら俥に揺られつつ家路を辿った。

と書かれている通り、特に10歳頃から15、6歳に達するまでの谷崎は、自分の境遇について色々と空想を巡らしていたらしい。『幼少時代』の記述自体にもそれらの網がそのまま被されているようで、行間からそれらの幻影が浮き出してくる。そしてそれらの幻影がそのまま『夢の浮橋』の中にも漂っているように感じられるのだ。