『夢の浮橋』については、これまでもこだわって書いてきたが、ここでいったんまとめてみたいと思う。
『幼少時代』を読んで、今まで気づかなかったことが多く見つかり、これがこの作品を解釈する上で、どうしても引っかかっていた部分を解き明かしてくれたからだ。
私が読んだ、岩波文庫版『幼少時代』には、『私の「幼少時代」について』という随筆も掲載されているのだが、そこに、このようなことが書いてある。
それにつけて思うことは、自分が小説家として今日までに成し遂げた仕事は、従来考えていたよりも一層多く、自分の幼少時代の環境に負うところがあるのではあるまいか、ということである。
(中略)
そういう訳で、「幼少時代」は私の懐旧談であるには違いないが、そこには単なる懐旧談以上のものが含まれていることも事実である。それは、明治十年代に東京の下町に生れ、その時代の東京が持っていた種々なる文化や風俗習慣の下に育(はぐく)まれ、やがてそれを土台として後に小説家になったひとりの町人の子の生い立ちの記である、と、いい直した方がより適切であるといえよう。
誠にその通りだった。
『夢の浮橋』は、昭和34年に書かれた、京都にある「後の潺湲亭(現・石村亭)」を舞台に書かれた小説だが、この作品は、想像以上に谷崎の幼い頃を反映していた。というより、そのまま書いていたとさえ思える。
谷崎が比較的行き当たりばったりの形で小説を書くということは、谷崎の晩年に秘書をしていた伊吹和子氏がその著書『われよりほかに』で書かれているが、その伊吹氏の口述筆記によって、初めて書かれた小説が、この作品である。
伊吹氏は、『われよりほかに』でこの作品を、谷崎が自分の作品の源泉を松子夫人と重子夫人の2人から、千萬子さんへと移そうとして失敗した作品だと書いている。それに対して私は、その351でかなり反発している。以下、その351から少し引用してみよう。
『夢の浮橋』の最初の母と2番目の母が姉妹であることは、この作品を注意深く読んでいけばわかる。さらに伊吹氏が書くところによると、糺の嫁澤子のモデルは千萬子さんで、2人の母から澤子へイマジネーションの源泉を渡し切ることを「夢の浮橋」に例えている。
その前にその290では次のように書いている。
この作品は、『母を恋ふる記』、『吉野葛』、『少将滋幹の母』に代表される母恋い小説で度々試みられた母と子の一体化を、妹尾夫人と自身の母とをだぶらせ、それを松子夫人でイメージ化することにより成功させ、それにより自身の父とも一体化することができた作品なのだと思う。
第2の母に妹尾夫人(千代夫人の時代に大変親しく交際した妹尾夫妻の妻の方で、谷崎が大変気に入っていた)の経歴が投影されていたからだが、この元をたどると、どうやら谷崎の叔父が大変のめりこんだ、柳橋の芸者「お寿美さん」をイメージしているのではないかということに思い至った。
叔父は、それまで父親から受け継いだ活版所をしっかりと切り盛りしていたが、この人に出会ってから、妻妾同居という暴挙を行い、一時は正妻とお寿美さんと叔父の三人で枕を並べていたことが書かれている。この事態に、正妻は実家に引き取られ、それに伴いお寿美さんを家に入れたが、それもしばらくのことで、お寿美さんは再び柳橋に出た。その後も叔父とお寿美さんの間は続き、叔父はすっかり商売に身が入らなくなり、結局活版所はつぶれた。
そして、このお寿美さんが大変華奢なこと、お寿美さんの叔父に対する気持ちが、谷崎には今一つわからなかったということが書かれているところから、これが重子夫人のイメージと重なるのではないかと思うに至った。つまり、谷崎にとって、お寿美さん、妹尾夫人、重子夫人は、イメージの中で一つのくくりに入るようなのである。
性格や体格はそれぞれ異なるが、他の人の意思で動いているように見え、しかしその実、自分の意思をしっかり通しているというところが似ているのかもしれない。
そこで、伊吹氏の意見と合わせて私が新たに思い至ったこの作品の定義は、
「谷崎の幼少の頃に起こったことを、松子夫人、重子夫人、千萬子さんとだぶらせ、母を自ら断ち切ることにより、これら松子夫人につながる人たち諸共解放されようとした作品」
ということになる。
また例によって長くなりそうなので、詳しいことはまた次回に譲るが、その前に、先に書いたこと以外に今回発見したことを列記しておきたいと思う。
次回は、これらの仮説を中心に、詳しく説明していきたいと思う。
『谷崎潤一郎東京地図』を一旦休んで、このあたりで谷崎の「母」について整理しておきたいと思う。
前回、谷崎が母の愛情をあまり受けずに育ったらしいということを書いた。それが「捨てられ不安」につながっていると。
そのあたりを確認するために、『谷崎潤一郎東京地図』にもたびたび登場する『幼少時代』を入手した。
読んでみたところ、前回は、谷崎の「捨てられ不安」について転居のことを書いたが、それよりも、その年、谷崎の「母」は「女」だったのではないかという仮説が私の中に生まれてきた。つまり、「女」である母によって、自分が捨てられてしまうのではないかという意識が、この年に生まれたのではないかと思うのである。
この年にあったことを列挙してみると、
1. 浜町に転居、住居と店を分ける
2. 谷崎、幼稚園に通う
3. 濃尾大地震
4. 南茅場町の最初の家に転居
がある。
さらにこの時期、母とばあやと一緒に毎日のように夕方になると本家に遊びに行っており、さらに、母や本家(活版所)を継いだ叔父と一緒に盛んに歌舞伎見物に行っている。
そのような背景を踏まえたうえで、この時期の母について、気になる部分を順次引用していこうと思う。
まずは、その明治24年。歌舞伎で「出世景清」「蘆屋道満大内鑑」を見たときのことである。
私はこれを誰々と一緒に見たのであったか。母に連れられて行ったことは疑いないが、ほかには父がいたか、活版所の叔父がいたか覚えがない。
二番目の「蘆屋道満大内鑑」は、これも前から葛の葉の葉狐の物語を母から聞かされていたのであった。尤も母は、団十郎の葛の葉が「恋ひしくば尋ね来てみよ」の歌を障子に記すのに、赤子を抱えて、筆を口に銜えて書くといっていたので、それを楽しみにしていたのであったが、私の見た時は手で書いたので、それには少し失望した。私は後に四十歳を越えてから、大阪の文楽座で図らずも文五郎の使う葛の葉を見、遠い昔の団十郎の面影を思い出すとともに、そっと私の耳もとへ口を寄せて、「ほら、あれはこれ〳〵の訳なんだよ」と囁いてくれた母の姿までが浮かんで来て、懐旧の情に堪えなかったことがあったが、私の昭和六年の作に「吉野葛」というのがあるのは、母と共に見た団十郎の葛の葉から糸を引いていることは、争うべくもない。
次に明治27年の記憶から(この時期は、生涯の親友の笹沼源之助と知り合い、ませた彼にいろいろ教わったらしいことが、「源ちゃん」という章で書かれている)。
察するところ、私の家はその前々年あたりから左前になりつつあったので、昔のようにしげしげ芝居見物などに出かける余裕がなくなっていたのだろう。尤も母だけは時々活版所の叔父に誘われて行ったらしいが、私も一緒に誘われることは次第に稀になったのであろう。
芝居が跳ねて再び俥で帰る時に、しばしば雨が降っていたことが記憶にあるのは、そういう晩の方がひとしお観劇の印象が後に残ったせいであろうか。俥には雨を避けるために支那料理のテーブルの覆いに用いるオイルクロースのような幌がかかっていたので、その油の匂と、母の髪の油の匂と、甘ったるい衣装の匂とが、真っ暗な中に一杯に籠っていた。私はそれを嗅ぎながら幌の上をパラパラとたたく雨の音を聞いていると、その日の舞台で見たさまざまな俳優たちの幻影や、声音や、チョボや下座の音楽やが、またもう一度闇の世界に再現してく来るのであった。わけても私は、私の母と同じ年恰好の女が、忠義や貞節を全うするために自害をしたり、夫に刺されたり、最愛の子に別れたりする場面を見た晩には、自分の母が万一そんな羽目になったらどうするであろうか、自分の母も忠義のためや貞節のためには私を捨てたり殺させたりすることがあるだろうか、などと考えながら俥に揺られつつ家路を辿った。
明治27年の頃については、さらに次のような記述が「南茅場町の二度目の家」という章に書かれている。
おりおり、夜遅くまで父や母が帰って来ないで、精二と、ばあやと、三人で留守をすることがあったが、多分両親が蛎殻町で話し込んでいたか、そうでなければ、父は蔵座敷で先に寝床に這入ってしまって、母が銭湯へ漬かりに行っていたのであろう。
この銭湯は、代官屋敷の方にあったそうだが、時にはばあやも連れて行って、子供たちだけで留守番した。そんな時、ばあやは先に帰ってきたが、母は長風呂なので、1時間たっても帰ってこなかったということが書かれている。
さらにこの家に住んでいた頃、母は叔父(つまり弟)の恋愛に便宜を図っている。そんなときは、母は二人を黙って蔵座敷へ案内し、谷崎らは六畳の間でひっそりしていたり、母に眼顔で知らされて、外へ遊びに出たりしている。
これについては教育上甚だよろしくないと思うが、谷崎は当時の心境を次のように書いている。
弟の恋愛に同情を寄せ、意気な計らいをしてやる気持には何も後暗いところはないのだし、ちょっと任侠な、芝居じみたところもあるのが、私にはかえって嬉しかった。
もう1つこの時期、母と、あろうことかいつもは母がお灸をすえようとしても必死でかばってくれるばあやと2人がかりでお灸をすえられ、そのようなことが2~3回あったが、あるときちょうど父が帰ってきて、気味の悪いくらいほど優しい言葉で慰めてくれたことがあったと、「悲しかったこと嬉しかったこと」という章に出てくる。
「幼年より少年へ」という章では、
父が米屋町で◯久商店を営んでいた時代に、精二の弟の三男に当る男子が生れて、それが千葉県の中山へ里子に遣られたことは述べたが、その後南茅場町の二度目の家に住み着いてから一、二年を経て、明治二十九年に始めて長女の園が生れた。そしてこの子は、長女であるが故に何処へも遣られず、家で養われることになった。(園のあとに二人つづいて女子が生れ、そのあとに終平という末子が生れたが、次の二人の女子は他家へ遣られた)
三男を里子に出したときのことについては、次のように書いてある。
母がわが子を里子に出したのはこれが最初で、その後女の子を二人までも手放すようなことになり、結局はこれらの三人を皆里流れにしたのであるが、三男の子を出した時は始めての経験だったので、どんなにか辛かったことと想像される。中山から里親が迎いに来て、その子を人力車に乗せて行くのを、泣き〳〵何丁も追いかけて行って別れを惜しんだという話を、後に私は母の口から聞いたことがあった。だがそんなにまで悲しい思いをしてその子を他家へ預ける必要があったのであろうか。里扶持を払うにしてからが、贅沢に馴れた町の家庭で育てるよりは経済であるというような意味があったのであろうか。それにしても、その考えは父から出たことなのか、母から出たことなのか。谷崎家は先祖代々子供を里に出す習慣があるのだ、お祖父さんだって男の子を三人までも手放しているではないかと、父にそんな風に説かれて、母も漸くその気になったのでもあろうか。
非常に気になる記述である。
また、この記述に続いて、谷崎が父と二人だけで食べに行った記憶を存外に多く持っていることが書かれている。谷崎の美食は、この父の影響によるところが大きいようである。
園さんが生れた頃(ちなみに母は33の厄年)、谷崎はあちこちの店へ盛んにお遣いに行かされている。それらを並べた中で、次のような記述がある。
餅菓子(近頃東京では餅菓子といわずに生菓子というようであるが、以前は餅菓子とのみいった)は母が三橋堂に限るといって、いつも小網町へ買いに行かされた。(中略)買いに這入ると、主人であったか番頭であったか、襷がけで前掛を締めた男が出て来て、菓子を詰めてくれたことを、それが三十前後の、やや面長な、色白な人であったことを、私は今も忘れずにいる。
谷崎の母は、この園さんをことのほか可愛がり、彼女が亡くなった後、心労のあまり急速に老けたそうである。
それにしても、この作品の、特に「団十郎、五代目菊五郎、七世団蔵、その他の思い出」という章を読むと、特に松子物と言われている『盲目物語』 『春琴抄』 『武州公秘話』等が、ことごとく母との歌舞伎見物を元に作られているのがわかる。当時の松子夫人が、想像以上にその当時の母と似通っていたのではないだろうか。だから、松子夫人を知ることで、谷崎は改めてこの時期の母を思い出したのではないかと思う。
なお、『夢の浮橋』については谷崎の幼少時代そのものがテーマになってくるが、それについては次の記事でまとめようと思う。
谷崎は、小学校の最初の1年のとき、落第した。事情は、この本に引用されている『幼少時代』に次のように書かれている事情からである。
尋常一年生時代の私は、稲葉先生に認められるどころの段ではなく、入学の第一日から毎日々々先生を手古摺らしてばかりゐた。私は小学校の生徒になつても、幼稚園時代と同じやうにばあやが傍にゐてくれなければ「嫌だ〳〵」をきめ込んでゐた。教室の中へ乳母を入れることは先生が許可しなかつたので、ばあやは仕方なく外の廊下にゐて、絶えず私から見えるやうに窓の向うに顔を出してゐた。或る日、授業中に雨が降り出したので、ばあやは私に無断のまゝひと走りして家まで傘を取りに帰ったが、私はふと窓の外にばあやがゐないのに心づくと、俄然割れるやうに泣き出した。私は稲葉先生が手を引つ張つて留めるのも聴かず、無理に振りもぎつて教室を飛び出し、廊下中に鳴り響くやうな喚き声を立てながら一目散に校門を出て、雨の中を頭から羽織を被って逃げて帰つた。勿論私以外には一年生でもそんな弱虫の子は一人もゐなかつたので、私の存在は学校中で有名になった。
この本では、この後に、精二による兄ほどではなかったが「気の弱いことは同じで、いつも教室で小さくなっていた」という引用が続く。
まあ、普通に読めば、はにかみやの度が強すぎたようにも見えるのだが、谷崎のこの行動の理由はもっと別にあったようだということが、別の本でわかった。つまり、谷崎のこの行動と、精二のはにかみとは別の心理かららしいのだ。
細江 光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』という、大層分厚い本がある。谷崎の作品について、心理学の面から、「作家論」と「作品論」に分けて書かれている。この本に、後の谷崎の作品、言動の謎を解く、キーワードが出てきた。「捨てられ不安」である。そこには、谷崎が、母にあまりかわいがられていなかった。それも、精二が生まれてからではなく、当初かららしいということが、前提として示されている。そのまま、彼のいろいろな作品からそれを示すものを次々と拾い出して、説明が加えられている。これは衝撃だった。この、第一部を読み始めてすぐ、『夢の浮橋』(夢の浮橋について、ラブレターズ内の他の記述はこちらからご覧ください)は、やはり自伝で、自分の中にある「母」の問題に決着をつけるための作品なのだという確信を持った。そして、やはり千代夫人は谷崎にとって大切な存在で、本来の理想の母のような、実際には乳母に近い存在だったのではないかと思った。だからこそインセストタブーが働いて(谷崎はいろいろ理屈をつけていたが、本当の原因はこれだったらしいことが、細江 光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』に書かれている)、うまくいかない。だから、「千代夫人が夜毎に泣く」→「自分の問題で千代夫人を不幸にしている」→「他の人によって幸せになって欲しい」→「でも、まったくの他人にはなりたくない」という心理が働いたのではないかと思うのだ。
また、細江 光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』に、次のような記述がある。
『幼少時代』「父と母と」によれば、潤一郎が五歳(精二誕生の年)前後の頃、父母は夏にはしばしば大磯に出掛けた(『幼年の記憶』では、《随分長いこと行ついゐ》たとする)。その際、潤一郎はいつも乳母と置いてきぼりにされていたが、それでも潤一郎は《駄々を捏ねて後を慕つたりはしなかつた》(もし精二誕生がショックなら、置いてきぼりもショックの筈ではないか?)。ところが、潤一郎は《臆病で》(「阪本小学校」)、道で《ほんのちよつとの間でもばあやを見失うことがあると、忽ち大声を挙げて喚》くような子供であり、そのために小学校入学を九月まで遅らせ、それでも落第してしまった程だった。
つまり、潤一郎が母が居ないことに平気でいられたのは、それだけ母との結びつきが弱くなっていたからであり、乳母が一寸の間でも傍を離れることに耐えられなかったのは、潤一郎が極めて幼くして母を失ったために、不安感が強く、失われた母の代わりである乳母に、病的なまでに強くしがみつかずには居られなかったからなのである。
もちろん父母が長いこと自分を置いて遊びに行ってしまうのは、後にそのエピソードを書くくらい、ショックだったことに違いないと私は思う。引越しが多かったのも母の占い好きによるものだったらしいし、乳母がちょっとの隙にいなくなるということは、一家をあげてどこかに行ってしまい、自分は捨てられてしまうのではないか、そう思ったからこそ、冒頭のような強烈な反応になったのではないかと、私は思うのだ。実際、谷崎が小学校に入学する前年、「父母が大磯に長いこと行っていた」頃の翌年に、2回も転居しているのである。
ふるだぬきさんのご紹介で、近藤信行著『谷崎潤一郎東京地図』を読んだ。
この本は、谷崎の幼少時代から文壇デビュー、そして関東大震災後、関西に移住してから書いた『痴人の愛』までの作品の舞台になる地域を、谷崎が書いたものからの引用を主体に描き、谷崎の原点を映し出している。タイトルは地図となっているが、地図は最初に1つあるくらいで、ほとんどは文章と引用、写真である。
まず最初は、水天宮の交差点から谷崎の生誕の地や幼少時代の場所などが書かれている。このあたりは、私も何十年も前、一人で谷崎巡礼に行き、「ああ、ここが生誕の地なのね」と、この本にも出てくる松子夫人の筆による「谷崎潤一郎生誕の地」という黒御影の石碑をしげしげと眺め、谷崎が通った阪本小学校を外から覗き、周辺をそぞろ歩いた。
といっても、ビルばかりで谷崎が住んでいた頃の面影はなく、「ふーん」という感じでただひたすら歩いていただけだが、それでも銀杏稲荷(残念ながらこの本での引用部分には登場しない)の前に来たときだけは、何となくほっとしたことを覚えている。
この本では、谷崎が『幼少時代』を書き上げた後の「中央公論」のグラビア企画でその辺りを歩いたときの写真にについて、印象深く綴られている。
谷崎潤一郎は人形町にかろうじて残る昔の面影を探し出そうとしている。といってもこの一連の写真からは、ふるさとの風景の変化に茫然としている彼の表情をよみとらないわけにはいかない。そのなかでは、水天宮の社殿に手を合わせ、薬師堂の中を背のびして覗きこむ彼の姿が印象的である。
この本の中に引用されている『幼少時代』に、次のような一節がある。
私は又、幼少時代に見た新富座や歌舞伎座の舞台の幻影、団十郎や五代目菊五郎等の演技の数々が、後年の私を形成する上に計り知れない影響を与へてゐることを、見逃す訳に行かない。いや、時とすれば人形町の水天宮の七十五座のお神楽や、南茅場町の明徳稲荷のお神楽の茶番の類までも、団菊の芝居に劣らないほど、非常に深い印象をとどめてゐるのに、今更のやうに気づくのである。
そういえば、関東大震災後、関西に移住したときに、東京の芝居と何かと引き比べながらも文楽を取っ掛かりに関西文化に親しんでいったのよね。
そのあたりについては、『いわゆる痴呆の芸術について』に、興味深い箇所があったので、長文になるが引用する。ラブレターズにも何度か登場した原智恵子さん(ウィキペディア) (関連する本) (ラブレターズ内で登場する記事)も登場するので、さらに興味深い。
この間京都大学の「ロマンロラン友の会」で、この文人が愛していたピアノの古典曲数番を原智恵子さんが演奏した時、私は始めて智恵子さんに紹介され、智恵子さんの泊っていた柊屋の二階の一室で暫く彼女と談話を交える機会を得たが、その時私が日本音楽をお聴きになりますかと尋ねると、義太夫の三味線が好きで、道八が生きていた頃はしばしば聴きに行ったとこのことであった。長唄は? というと、余り好きではないらしい口ぶりであったが、けだし西洋音楽で鍛えられた人には、長唄のような繊弱なものよりは義太夫のような逞しいものの方が気に入るのであろう。道八の三味線の如何なる点が好きであるのか、その音色であるか、その力強さであるか、等のことを私は遂に尋ねずにしまったが、智恵子さんのように娘時代の十年間を巴里で過し、仏人の家庭で教育された近代人でも、やはりあの太棹の音に惹き付けられることを思うと、あの音色の中には日本人の血に訴える宿命的な魅力が籠っているのかも知れない。まして私のように明治中期の東京に生れ、少年時代と青年時代の殆ど全部を日本橋や京橋界隈の下町で暮した者にとっては、あれくらい郷愁を催さしめる音楽はなく、道八の如き名手のでなくともふとしたときに旅芸人が門を流して過ぎるのを聴いても、つい恍惚としてしまうことがあるのは、何か理性を超越した、反抗しがたい郷土的感情の作用とでもいうのであろうか。
原智恵子さんが、長唄を好まず義太夫を好むのは、彼女が神戸出身ということが大きいのではないかと思うが、谷崎が震災後関西に移住して、まず文楽に惹かれていった、その心理的なものが見える興味深い文章だと思う。
その2を書いてから、1週間が経ってしまった。
今回は、こころの王国最終回ということで、いよいよ菊池寛について書こうと思う。この回で最終回にするため、かなり長くなると思うが、しばしお付き合いいただきたい。
菊池寛アーカイブというサイトがある。このサイトには、彼の子孫からのメッセージと、菊池寛の残したメッセージ、『こころの王国』の中で大きな位置を占める『半自叙伝』、『話の屑籠』、それから菊池寛人物年表、菊池寛作品関係リンクというコンテンツがあるのだが、その菊池寛人物年表に、1920年に新聞小説『真珠夫人』で成功と書かれている。数年前、テレビドラマで再び脚光を浴びた、あの作品である。
といっても、原作は、ドラマの内容とは随分異なる。原作については、青空文庫でも読めるので、興味のある方は読んでいただきたいが、そこに書かれている言葉には、『こころの王国』を読んだ後で読み返してみると、結構興味深いものが含まれている。
『真珠夫人』は、華族の家柄の直也と瑠璃子が、荘田勝平の主催する園遊会で、その主催者がそばにいるとも気づかずにその成金趣味を批判したことから荘田勝平を傷つけ、そのために荘田は瑠璃子の父を罠にかけ、瑠璃子と結婚。瑠璃子はそれに対して純潔を守って対抗し、荘田の死後は、彼の娘を大切に育てながら荘田家を切り盛りし、一方で男性というものに対してすさまじい復讐を始め、最後には彼女を慕う男性に殺されてしまうという話なのだが、瑠璃子に不幸をもたらした悪口の一部に次のようなセリフがある。(青空文庫から引用)
「成金だとか、何とかよく新聞などに、彼等の豪奢な生活を、謳歌してゐるやうですが、金で贏(かち)うる彼等の生活は、何(ど)んなに単純で平凡でせう。金が出来ると、女色を漁る、自動車を買ふ、邸を買ふ、家を新築する、分りもしない骨董を買ふ、それ切りですね。中に、よつぽど心掛のいゝ男が、寄附をする。物質上の生活などは、いくら金をかけても、直ぐ尽きるのだ。金で、自由になる芸妓などを、弄んでゐて、よく飽きないものですね。」
この作品を書いたときは、菊池寛はまだ文芸春秋社を興していなかったのだが、まるで後の自分を書いているようだ。実際、文芸春秋社で成功してからの彼は、世間からそういうふうに見られていることを十分意識して、成金の行動を自分に当てはめて書くことがあったということが、『こころの王国』にも書かれている。
それにしても彼は、家庭デーというのを設けるくらい妻子を愛しているのになぜ次から次へと愛人を持ったのだろう。このあたりは、『人間・菊池寛』でも率直に疑問が呈されているが、『こころの王国』で主人公がモダンガールのサンプルと表現されていることを考えると、菊池寛は自らを成金のサンプルとして捉えていたのかもしれない。生活に困っている人をすぐに助けたいためにとる行動が、世間からどう受け取られるかを知った上で、相手にとってもそう受け取った方が、ラクならそれでも良いと思っていたところもあるのだろうか。
『こころの王国』によると、『真珠夫人』は『従妹』という作品と関係があるらしい。この女性が、境遇の変化によって人間が変わってしまったことに対して、境遇が変化しても変わらない大切なものを持っている女性を描きたかったのかもしれない。
なお、『半自叙伝』には、「その頃、私はバルザックの小説を愛読していたので、そこから多少のヒントを得た。」と書かれている。さらに調べていたら、柳原白蓮をモデルにしているという情報も。確かに重なる部分もあるわね。いずれにしても、それだけ当時の人々に訴えるものがあったために、大成功を収めたということだろう。
ところで、菊池寛の長女の名前が瑠美子さんなのね。『真珠夫人』が書かれたのは瑠美子さんが生まれてから2年後だけど、この主人公のネーミングには、父の願いも含まれているのかもしれないわね。
さて、このように、菊池寛の小説には貧富の問題が多いのだが、彼の芸術論を見ても、そこが中心になっている。「小説家たらん青年に与う」メッセージだが、全文はリンク先を読んでいただくとして、一部を引用すると、
僕は先ず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」という規則を拵(こしら)えたい。全く、十七、十八乃至(ないし)二十歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。
(中略)
作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても稀薄だ。だから、その人が、過去において、生活したということは、その作家として立つ第一の要素であると思う。そういう意味からも、本当に作家となる人は、くだらない短篇なんか書かずに、専(もっぱ)ら生活に没頭して、将来、作家として立つための材料を、蒐集すべきである。
かくの如く、生活して行き、而して、人間として、生きて行くということ、それが、すなわち、小説を書くための修業として第一だと思う。
これは『こころの王国』のテーマにも絡んでくるのだが、菊池寛が漱石を良いと思わないという最大の点だ。『半自叙伝』の中にも、次の一節がある。
先輩作家に言及したついでに、夏目漱石のことも一言したいが、私は昔から漱石の作品は嫌いではないまでも、尊敬はできなかった。同僚の芥川や久米が崇拝するのが、不思議でならなかった。芥川などは、本気であんなに認めていたのかきいてみたかったくらいである。最近も「それから」や「心」などを読んだが「それから」などは、あの中に出て来る書生の風格や物いいなどで読者の興味を釣っているとしか思えない。肝心の事件は、つまらないのである。しかも、なぜあとで姦通までする女を友人にゆずったのか、また姦通した後どうなるのか、その二つの肝心なことを書いていない。それに代助の姉も恋人も、同じような感じの女性で、ほんとうに描けているとは思えない。「心」なども、私が先生と知り合いになるのに、どうしてあんなに数十枚も書かねばならないのか、どうしてあんな知り方をしなければならないのか。
それにしても、菊池寛の言葉の中には二言目には「芥川や久米」が出てくる。果ては佐藤碧子さんにも、こんなことを言っている。佐藤碧子さんが夜遅くまで外出していたことを知り、菊池寛が激情を示した後の言葉である。
「あした、あなたを迎えに来る。お母さんに許して貰った。二、三日どこかへ行こう。みどりさん。芥川だって、久米だって、僕のような恋愛は出来ない。出来っこないですよ」
意味不明だ(^^;
しかもこの行動って… みどりさんの意思は無視。しかも十分お金が物を言っている(- -;
ま、それはそれとして、姦通をした後どうなるかは、三部作(三四郎・それから・門)の3作目である『門』に書かれているが、これには谷崎が「門」を評す』で文句をつけている(^^;
谷崎は、『それから』についてはそれなりに評価をしているのだが、なぜ『門』でおだやかな結末を姦通をした二人に与えるのかが解せないと書いているのだ。
このあたりは、お須賀さんとの一件、作品で言えば、『それから』に刺激されて書いたと思われる『熱風に吹かれて』、『捨てられる迄』の頃の彼の実感が込められているような気がする(ラブレターズその353参照)。
私は漱石の三部作は残念ながら読んでいないので、いつか時間を見て読んでみたいと思う。
谷崎を出したので、ここで谷崎の『芸術家一家言』の一節を引いてみる。
凡そあらゆる芸術に於いて、技巧や形式は抑も末の問題であつて、それらの奥にある精神こそ最も肝要なものたることは云ふ迄もない、が、茲に忘れてならないのは芸術は一つの表現であると云ふ事実である。
(中略)
そこで芸術上の技巧とか形式とか文体とか云ふものは、美が生まれると同時に当然備はるべき肉体であり、皮膚であり、骨格であつて、抑も末の問題であるとは云ふものゝ、それらがなければ美が存在しないことも事実である。
基本的には同じことを言っているのだが、谷崎の興味の中心は「美」なので、そのあたり、おのずと異なってくる。
その一方で、『半自叙伝』の昭和二十二年五月のところに次のような一節もあった。
鴎外と漱石とを比べて、自分などはむしろ鴎外を重んずるものだが、鴎外には「坊ちゃん」はないのである。「高瀬舟」ぐらいではなかなか後世には伝わりにくいのである。鏡花と紅葉とを比べて、天分の上からも作品の上からも、弟子は師を凌いでいるが、「高野聖」や「湯島詣」ぐらいでは後世に伝わらないのではないか。「金色夜叉」は、まだ五十年や百年は残りそうである。
文芸春秋社を興して、多くの作家を育て、仕事を与えた功績は、とても大きいのは言うまでもないが、それを支えたのはこのあたりの冷静な眼なのだろうと思う。