ラブレターズ

その290(2005.12.09)『夢の浮橋』モデル考

さて、その287で見つかった『夢の浮橋』の2番目の母のモデルの話に入りたい。

『蓼喰う虫』の頃、谷崎は妹尾さんという新婚さんと頻繁に行き来するようになった。谷崎はこの奥さんの方を大いに気に入り、この人をモデルに『お栂』という作品を書こうとしたが離婚騒動その他の影響か、実現しなかった。妹尾夫人は昭和12年に亡くなっている。

『神と玩具との間』によると、その原稿を昭和33年に谷崎が発見し、喜び勇んで今は別の人と再婚している妹尾氏に原稿を送り、意見を求め、さらにはこの原稿を筆写した当時の妻で今は再婚している丁未子夫人への周旋まで依頼したのだが、返事がこない。谷崎はそれに対して催促の手紙を出している。この後に、『神と玩具の間』の著者は妹尾夫人の半生と夫妻の馴れ初めを次のように紹介している。

この妹尾夫人は或る商家の若旦那と行儀見習いの娘との間に生まれ、生後まもなく貰い子に出されたものの、養家も零落、十歳にならぬ前に自分の意志で狭斜の巷に身を寄せた人だったという。芸もよくおぼえ才覚も人気もあったことから、さる貿易商社の人に落籍(ひか)されて結婚し子供も生まれたものの、夫が浮気する一方その頃通訳兼社員だった年若い妹尾健太郎と知り合って恋愛、昭和二年ころ円満にその夫から君子夫人は妹尾に譲られ(三字に傍点)再婚したのだという。

妹尾は大阪の糸商の一人息子に生まれ、父の早死で祖父に育てられたが家業をつがずにさる貿易商社に入社し、語学の才を生かして重宝されたという。かなり年かさな君子夫人との出逢いがあって退職、結婚するとやがて昭和二年二十四歳の若さで私学を経営したともいう。ともかく育ちのいい家産にも恵まれた「半芸術家」気どりの青年だったらしい。

結局先の原稿の件はどうなったかはわからないが、翌34年に発表された『夢の浮橋』の2番目の母に、この妹尾夫人君子さんの経歴が投影されている。この作品は、『母を恋ふる記』、『吉野葛』、『少将滋幹の母』に代表される母恋い小説で度々試みられた母と子の一体化を、妹尾夫人と自身の母とをだぶらせ、それを松子夫人でイメージ化することにより成功させ、それにより自身の父とも一体化することができた作品なのだと思う。それを実現するのに、この『とはずがたり』風の書き方が好都合だったのではないだろうか。

これで『夢の浮橋』の第2の母のモデルは見つかった。が、近江の問題が未解決だ。近江が母につながるのはわかっているのだが、そのあたりについてさらに理解を深めるため『盲目物語』を読み、続いて第2盲目物語と銘打たれている『聞書抄』を今読んでいる。


その289(2005.12.06)「お久」発見? 

やはり「お久」は松子夫人ではなかったようだ。
それは1983年発行の稲澤秀夫著『聞書谷崎潤一郎』に見つかった。この本は、著者が自著『谷崎潤一郎の世界』を松子夫人に献呈したことから松子夫人と知り合い、直接会ったり電話で話したりして聞書きした記録だ。聞書きなので時系列ではなく、その時々にテーマが設けられ、それでも話の流れであちこちと話が飛ぶ。松子夫人の話したそのままを中心に、資料などと合わせて書かれている。今では入手が困難なようだが、松子夫人が亡くなった後、『秘本 谷崎潤一郎』という本を出されている。秘本は私もかねがね欲しいと思いつつ、高額なため逡巡している。

さて、問題の記述だが、谷崎の和歌に

京の女と奈良あたりに遊びける頃
大和路や長き春日をわれと行くフェルト草履の音のどかなり

という作品がある。
この京の女がどうやらお久らしい。少なくとも自分ではないと松子夫人は言うのだ。
で、松子夫人の証言によると、吉初という祇園のお茶屋さんで会っていた芸者さんらしいということだ。松子夫人も実際に会ったわけではなく、谷崎からそういう人がいたけどもう終わったと聞かされていたというだけなのだが、松子夫人と結婚してから2度ほどおかみが借金取りに来たそうだ。
ここで著者が「しろうと好みの先生として、芸者さんとは珍しいですね。」と松子夫人に問いかけている。
つまり、芸者だったかどうかはわからないが、とにかく京都に女性がいて、その人とそのお茶屋で会っていたということだろう。そして、その女性がどうやら「お久」とかかわりがあるらしいということのようだ。
京都の女性で、この頃の谷崎の全集の中の書簡で不自然な宛名のものを見つけたり、その他にも1、2名ほど頭に浮かんだりするのだが、とりあえず「お久」についてはいったんこのあたりでおさめておくのがいいのかもしれない。

次回はいよいよ『夢の浮橋』の2番目の母のモデルについて書こうと思う。

2005-12-09
いったんおさめると書いたが、やはり気になる。
実は、小出楢重の作品に『少女お梅の肖像』という絵があるのだが、この絵を見たとき「あっ、お久」と思った。実際、『蓼喰う虫』の頃も小出楢重はこの女中さんをとても気に入っていたらしいことが、高木治江著『谷崎家の思い出』に書かれている(古書店で1,000円くらいで入手できるようだ)。「老人」と「お久」の会話はこの二人からイメージし、それを妹尾夫人から紹介された(と思う)京都の女性(さらに他の女性もいたかもしれない)と融合させて出来たのが「お久」ではないかと思うようになった。


その288(2005.12.04)『うああ哲学事典』 

須賀原洋行著『うああ哲学事典』を読んだ。この作者は、モーニング上で『気分は形而上』という哲学漫画を書き、その中で特に奥さんのことを書いた実在OLシリーズが大ヒットした名古屋在住の漫画家だ。
先日ふとしたことで久しぶりに『気分は形而上』を思い出したところ、知人にこの本を紹介された。

この漫画は、有名な哲学者の代表的な理論を、「つまりこういうことです」という感じでわかりやすく書いている。で、最後にその哲学者の似顔絵と共に作者の解説が入る。
最初は初めから通して読むつもりで読み始めたが、挫折しそうになった。漫画でわかりやすく書いてあるといっても、そこはやはり哲学なので、そういう読み方は無理があるようだ。で、目次を見て面白そうなところを拾って読み始めたら、はまった。
その中で、『フッサールの「エポケー(判断停止)」』には、なるほどーと思った。
昔は日常(ケ)と祭などの非日常(ハレ)がはっきり区別されていたのだが、今は常に刺激を受けつづけているため、疲れてしまう。そこでいったん物事の価値のあるなしなどの判断を停止してみると、頭がスッキリして、却って新しい発見があったりわかりあえたりするということらしい。

これを谷崎に当てはめてみると、
『蓼喰う虫』は、モデルの状況が途中で変化したために前半と後半で追うものが異なってきているが、作者が余裕のある状態で書いているためか、最後には傑作にまとまっている。
『細雪』は戦争中で発刊できない状況の中、夫人の姉妹との日常生活という「ケ」を、ひたすら書き続けている。
いずれも、とりあえず流してみようというある意味「エポケー」が生み出した傑作なのかなと思った。 特に『細雪』の快さというのは、読む人にとっては「ハレ」としか思えない優雅な生活に、何の判断も加えずにただひたすら没入できるというところにあるように思う。だからこの作品が戦争直後の人々の疲れを癒し、大ヒットしたのだと思う。


その287(2005.12.02)『蓼喰う虫』モデル考(その2) 

さてお久だが、まず「老人」が誰かを考えてみたら、『蓼喰う虫』の挿絵を描いた小出楢重という人が浮かんできた。この人についてはテレビ番組『美の巨人たち』でも放送された。浄瑠璃に造詣があるらしいし、調べてみるといろいろ興味深い情報も出てくる。
青空文庫に小出楢重の随筆『大切な雰囲気』が掲載されている。その序が複数の人によって書かれているのだが、トップに谷崎潤一郎のメッセージがある。『蓼喰う虫』を書いた頃に感化を受けたと書かれている。また、この人の子孫が自身のサイトで息子弘は小出楢重の息子もモデルだったのではないかと書いている。

さて、予告の『谷崎潤一郎風土と文学』の件だが、「「少将滋幹の母」の刊行前後」というところでその記述は出てくる。その頃家のあった熱海の町を著者と谷崎が歩いたとき、谷崎は「毛糸で編んだ宗匠ふうの、風変わりな黒い帽子をかぶり、角袖のコートにステッキといった散歩姿だった」と書かれている。この出で立ちは『蓼喰う虫』の「老人」を思わせる。
また、やはり同じ「「少将滋幹の母」の刊行前後」で、松子夫人の『椅松庵の夢』から次の文章を引用している。

「或は他の女性の場合なら、と本心で浮気をすすめてみたが、割合淡々として聞き流していた。ただ私が十七歳若いので可愛そうだ。と時に涙を流しながら思い決したように、却って『浮気をしてもかまわないよ』と云ったが私は『どういう風に男の人に云い寄っていいのやら勝手が分からない』などと笑いにはぐらかした。思いめぐらせば、こういう話をする時はいつも書斎に限られていたが、この時『少将滋幹の母』の原稿が机上に載せられていた。
描くものの上では、『自分は作品の中に持ってくる女性には相当近づかないと書けない方なので、変に思うかも知れないが、誓って節度を守り羽目を外すことはしないから』と、それも一度きりしか云わなかった」

著者はその後で、

「一見谷崎文学は、一つの特異な観念の極致を表現するために、意表をつく題材や設定をなされているようだが、それぞれの作品のモデルは、案外身近な所にあり、それがモチーフになっていることを、その後に先生に近づいてみてから、痛感されるようになってきた。」

と書いている。
「老人」から「お久」を受け継いだ「要」が、年月を経て『少将滋幹の母』の「国経」になってそこにいる。この身近な人間は、はたして誰だったのだろう。

お久についていろいろ調べているうちに、『夢の浮橋』の2番目の母のモデルの一人がわかった。これについてはまた後で書くと思う。さらに今回出てきた「小出楢重」という人に興味が涌いてきた。先日作った検索サイト、詳細Book検索「比較検討」検索してみると、先ほどの子孫の方が書かれた本や、『小出楢重随筆集』などもある。たぶん買うことになるだろう(^^;


その286(2005.11.29)『蓼喰う虫』モデル考(その1) 

『蓼喰う虫』を読んでいるとき、主人公要を谷崎に当てはめ、妻美佐子を千代夫人に当てはめていた。まあ、これは順当だろう。で、妻美佐子の恋人阿曽は当然佐藤春夫がモデルであることを疑いもしなかった。が、どうももう一人、第三の男がいたらしい。このことは、秦恒平著『神と玩具との間』に出てくる。
この本は読んだはずなのだが、この記述はまったく記憶になかった。にわかには信じられなかったので、さらに調べてみるとどうやら本当らしい。
『蓼喰う虫』の中で、阿曽が美佐子を幸せにするとは約束できないと言っているということを聞いて、要の従兄弟である高夏が憤慨する場面があるのだが、どうやらこれも事実あったらしい。このことに憤慨した高夏が、佐藤春夫ということらしい。
結局佐藤春夫がこの彼氏を追放したようだ。実は谷崎と佐藤春夫の和解も予想外に早く、大正15年に成っていたということで、とりあえずは友人として復活していたらしい。それが、この件で再び谷崎から佐藤春夫に「千代をもらってくれないか」という話が出て、昭和5年の細君譲渡事件になるわけだ。が、千代夫人の気持ちとしては右から左へというわけにはいかない。この提案に「考えさせてください」と答えたそうだ。
そりゃそうだ。

実は、連名の挨拶状で谷崎が当分旅行するという文句があったが、北陸経由で東京へ意中の女性をもらいに行ったらしい。が、その相手は既に嫁に行っていた。雇い主の女将が谷崎の素行を信用せず、彼女のために他所へ縁付けたらしい。この後2番目の妻になる丁未子夫人の例を見れば、これはまことに正しい判断だった。だってそのときはすでに松子夫人と出会っていたのだから。

さて、とりあえず中心になる三人のモデルはわかったが、わからないのが老人とお久だ。特にモデルはなかったと書いてある本もあるし、『神と玩具の間』ではお久のモデルを松子夫人としている。
が、はたしてそうだろうか。お久は確かに日本的だが、松子夫人のイメージではないように思う。また、あれほどのディテールの細かさでモデルがいないということも、谷崎の場合ありえないように思う。これについて、先に読んだ野村尚吾著『谷崎潤一郎風土と文学』に目を引く文章が見つかったが、それについてはその2で書こうと思う。