ラブレターズ

その155(2003.9.3)元気な病人

実家の母が胆石の手術をした。お産以外では初めての入院に、母の留守中に父がちゃんと生活できるか心配して、胆石発見から2年たっての手術となった。幸いその2年間で特に悪化することもなく、内視鏡を使った手術で済んだ。
2年の間、油物を控えてきた母は、入院初日の昼食に油物があるのを発見し、先生に相談に行った。
「油物がありますが、食べて大丈夫なんでしょうか?」
生真面目な母は、これは食べてはいけないと言われたら、とても厳格に守る。2年の間、油物と思われるものは一切排除して食べなかったのだ。先生の答えは当然「大丈夫です」だったが、やはりここまで我慢したのに、入院したとたん痛くなるのは嫌だということで、2品のおかずをすべて父や私に食べさせ、自分は汁とご飯だけ食べた。貧乏性な母は、残すということを知らないのだ。

昼食の後、手術や必要なものの説明があり、必要なものを揃えるために売店に行くことになった。当然私が1人で行こうと思ったら、母は自分も行くという。8階の病室から1階の売店まで、父の度々の入院に勝手知ったるとばかり、スタスタと歩き回る。
結局初日は何だかんだ言って、ほとんど病室に入らず、患者用の食堂兼面会コーナーでおしゃべりしていた。
手術の後は管が4本も入っているのでさすがに歩きまわることはできなかったが(当然)それでも私がベッドのそばに来たら、酸素マスクがうっとうしいだの何だの言って、よくしゃべる。翌日からはまた8階から1階まで歩き回っていたようで、周囲に随分驚かれていたようだ。退院前日に行ったら、エレベーターに乗ってもペチャクチャよくしゃべり、エレベーターの中は母の独演会状態。他の人も微苦笑しながら相槌を打っていた。
退院の日は、自分でせっせと支度をし、父を待っていたが、のっそり現れた父は会計のためのお金を下ろさずに来たため、私が行こうとすると、これまた母も一緒に行くと言って、ついてきた。全く元気な病人だ。
小さくて丸っこい母が帽子をかぶって前を歩いている姿は、自分の母ながらかわいらしかった。

会計が済み、マサノリの運転で自宅に送る途中、ファミレスに入った。小食に慣れた母は、当然とても食べきれなかったが、「多すぎる、私には重い」と言いながら、一生懸命食べていた。無理するなと言っても心残りなようなので私が手伝ったら、マサノリに「あ~あ、これでまた太る」と言われてしまった。


その154(2003.9.2)ストッキング 

家で仕事をしていると、靴下を履かずに過ごすことが多くなった。そうしたら、急に足がむくむようになった。素足で徹夜などすると、見るも無残に足の甲が膨らんでいる。当然脛もパンパンだ。ソックスを履くと、その部分だけ締まっていて、その上が急に膨らんで、これも気持ちが悪い。
そこで、むくみ防止効果のあるストッキングを履いてみた。一日外に出て、帰ってきてからも足はスッキリしている。これはイイと思ったが、今、足元を見てみたら、足首がリング状にむくんでいた。さすがに足の甲までは進出していないので、一定の効果はあるようだが、やはり動かずに机の前にばかりいるのは良くないようだ。つまり、普通のストッキングでも、通勤したり、会社で動きまわっていればむくむことはないのだ。まあ、当然といえば当然なのだが、いまさらながら運動の重要さとストッキングの意外な効用を知った。

ところで、ここ数回未来の日付で書いていたことに気付いた。このページは、自分で書くだけなのでかなり原始的な方法で作っているのだが、そろそろもう少しうまいやり方をした方がいいかなと思っている。
本当は最初からそうすればよかったんだけど(^^;


その153(2003.8.14)歳月 

大阪遠征のときに、堺の町を見て回った。寝不足からくる疲労のために、せっかくの文学散歩ポイントを落ち着いた気分で見ることができずに残念だったが、与謝野晶子の実家があの場所にあったということは、本当に大きなお店だったんだなとか、千利休の屋敷跡を見て、意外に小さな場所だと思ったりした。
千利休の屋敷跡は、門に閉ざされて中に入ることはできないが、奥の方には、椿井戸があった。その感じから小さいと感じたのだが、屋敷があった場合、また感じが違ったのかもしれない。実際に中に入れないのがつくづく残念だった。

堺に行ったのは今回で2度目だ。1度目は、その47のときだった。宿院のホテルに泊まったのだが、今回その近くを通ったときに、その建物を遠くから眺めてみたが、どうやら今はカラオケビルになっているようだ。あれから17年。17年というのはそれなりに長い歳月だということを実感した。
あのときは、堺に泊まりながら堺をほとんど観光せず、忠岡、岸和田、浜寺公園、奈良県吉野などを見て回った。『吉野葛』の旅+アルファだ。吉野では20キロの道のりを歩き通して、あっという間に暗くなってしまい、結果的にヒッチハイクになるというトンデモな事態になったっけ(いい人でよかった)。浜寺公園はとてもきれいで、当時は与謝野晶子・鉄幹夫妻の思い出の地であることは知らなかったが、そのきれいな公園の中を物思いを抱えながら1人で歩いていたことを思い出す。
前回行ったときは、景気も悪くなく、暮れも押し詰まっていたので、師走のあわただしい空気と共に、活気にあふれていた。また、仁徳天皇陵のそばの歩道橋には人がいっぱいいて、人がいっぱいいることで、ここが仁徳天皇陵だとわかるくらいだった。今回は、午前中の早い時間だったことと、休日だったことも関係しているのだろうか。歩道橋に人がなく、道にはビニール袋に入ったごみなどが落ちていたりして、何となく荒れた空気を感じたのだが、気のせいだろうか。


その152(2003.7.31)『エ・アロール』 

シャングリラ2の大阪遠征のときに、難波のジュンク堂で渡辺淳一著『エ・アロール』のサイン本を見つけて買ってきた。老人ホーム、というより高級な老人入居施設のお話だが、プレイボーイ、プレイガール、その他さまざまな入居者が、次々と色々なことを引き起こす。エ・アロールの意味は、フランスのミッテラン元大統領が愛人のことを聞かれて答えた「それがどうしたの?」という意味である。
このテーマは、その41でも書いたように、氏がかねてから考えていたものだ。新聞連載後、加筆修正してすぐに発行となったようだ。この本を書店で見つけたときは、「ああ、とうとう書いたんだ」と、勝手に思った。
詳しくはこちら
それにしても、氏が医師であることは知っているが、この本ではまるで実際に老人ホームを経営しているようにリアルな書き方だ。本当に経営しているのだろうか。そんな時間はないと思うのだけど…。読んでいると、まるでドキュメンタリーのように思えてくる。
小説の中で、老人が恋愛をすることについて、違和感を持ちがちだと書かれていた。私は元から谷崎潤一郎ファンであったためか、あまりそういうことを感じない。いつまでたったって、そりゃ恋愛感情くらいあるでしょうと思う。これは年代によるものか、それとも本当に一般的に老人が恋愛することに違和感があるのだろうか。そんなことをちょっと感じた。あと、面白かったのが、60代以上の女性たちを○○嬢と書くことだ。確かに、やっていることや気持ちは乙女のようなので、その呼び方もなんとなく納得がいくような気もするが…。

この小説、早速10月からテレビドラマになるそうだ。とっても楽しみですわ。


その151(2003.6.27)紫式部と二条 

二条は源氏物語の紫の上に自身を重ねて『とはずがたり』を書いた。紫の上自身が幸せだったかどうかは置いとくとして、ある男性の第1の女性と認められていたことは、二条にとってうらやましい存在だったといえる。
二条は自身を紫の上になぞらえたために、自分は特別と考え、ともすれば后である東二条院をないがしろにしているととられる行動をとった。彼女にとっては身分はあまり関係ないものだった。それに対して、紫式部は常に身分を考えている。鎌倉時代になると武士が台頭して、身分関係も随分流動的になってきたため、それはある程度当然のことともいえるが、それにしても二条はあまりにお転婆だった。

紫式部は、噂を気にやみかなり内向的だった。あの時代に都に住み、宮仕えをして暮らすということは、その中に生きている人たちは元を辿ればどこかしらで血がつながっている狭い世間の中で競争しながら生きることになる。少し目立てば何やかやと噂をされるのは当然のことで、それをいちいち気にしていたら、身がもたなかっただろうに。
それに対して二条はというと、あまり他人のことは気にしていない。特に同性については、自分の恋のライバルになる人については多少の感情はあるものの、自分からあの人はどうの、こうのとは考えなかった。どちらかというと、攻撃される一方のタイプだったようだ。まあ、思ったことは何でも口にして、ストレスを溜めない性格だったのかもしれない。ただし、噂話は大好きだ。まあ、それくらいでないと、生きていけなかったともいえる。どちらかというと、清少納言の方に似ていたのかもしれない。

一見正反対と思える紫式部と二条。でも、その中に共通しているのは、「こんなはずじゃなかった」という気持ちだ。そういう気持ちがあるからこそ、読む人の心を動かす作品が書けたのかもしれない。
もっとも、作品としてはやはり『源氏物語』の偉大さはどんなに時代が下っても決して衰えず、比べるべくもない。あの時代に、「もののけ」といいながら、その正体を知っていたと思える書き方といい、紫式部は人間の心の奥深くを覗いて書いているように思える。
ところで、紫式部は『源氏物語』と『紫式部日記』、それと自撰の歌集である『紫式部集』を後世に残しているが、二条は『とはずがたり』以外には何か残していないのだろうか。増鏡が彼女の手によるものという説があるが、だとしたら、これもまた偉大な作品といえる。