ラブレターズ

その50(2001.12.16)ブレッド&バター

きのうは鎌倉歐林洞へ、ブレッド&バターのライブを見に行ってきた。
50代としてはちょっとふけてるかな(失礼)というルックスから繰り出される少年のような声に聞きほれてきた。
この兄弟、とってもチャーミング。今までもきれいなハーモニーと素敵な曲でいいなと思っていたが、ますますファンになってしまった。湘南を深く愛する少し気難しいかもしれない兄と、表情が豊かでお茶目な弟の2人は、いくら見ていても見飽きなかった。
きのうのライブのメンバーがまた凄かった。ギター市川祥治、ベース田中章弘、パーカッション斎藤ノブという超豪華メンバー。気心も知れているようで、このメンバーから繰り出される内輪話はとても楽しく、もっと聞きたかった。本人たちも、ともすれば話が脱線がちな中を、なんとか戻し戻しライブを続けるという感じだった。
そんな中で特に面白かったのが、新しいアルバムの中から、テリー伊藤作詞の『狂った夏』という曲を、弟のニ弓さんが歌ったシーンだ。
この詩、とにかくスゴい。会場に行く途中のガソリンスタンドで歌詞カードを読んで、なんちゅう歌詞だと驚いていたので、これを歌うと聞いて、「ウワッ」と思った。本人もこの曲を歌うのはそうとう勇気がいるものだったらしく、「乳房が何回も出てくる」とか、「たまってません!」とか、いろいろなことをいいながらなかなか歌いださない。斎藤ノブさんの「早く始めれば」の一言でようやく勇気を出して歌いだした。
詩はスゴいが、曲はバラード。詩と曲が合わさると、10代後半から20代前半の男の子の狂おしくせつない気持ちが表されて、なかなか良かった。あんなにテレなければ、ほとんどの人はスゴい歌詞だと気付かなかっただろう。
それにしてもテリー伊藤。50代のブレバタにこの歌詞を提供するとは…。でも、少年のような声のブレバタだからこそ、いやらしくなく、素敵な作品になったのだろう。
歌い終わった二弓さん、タオルで顔の大汗をぬぐっていた。

2002.5.24
17日に六本木のスイートベイジルというところでライブがあった。
イタリア料理を食べながらライブを楽しめる、とてもきれいなところだった。
ここで、久しぶりにこの2人の声を聞くことができた。歐林洞のときの、幸也さんの気難しそうな表情は、緊張のせいだったらしい。今回はとても気さく。終演後、サインをしていただいたが、ご自分から話もされて、うれしくなってしまった。握手をしたときに、意外に大きな手だったのが印象的だった。
二弓さんは、今回も例のテリー伊藤作詞の歌を歌ったが、前振りもなく、スッと歌に入った。さすがになれたそうだ。今はこういうのもいいな、うらやましいなと思いながら歌っているそうだ。
でも、歌った後にはやはりタオルで顔を盛大にぬぐっていた。

2002.6.23
今日は再び歐林洞でライブ。幸也さんはとても楽しそうだったが、二弓さんが風邪をひいているのか、少しテンションが低かったようだ。でも、今回のライブは、行けなかったユーミンファンの皆様には顰蹙を買いそうなほどの内容だった。なんと、「空と海の輝きに向けて」をアンプラグドスタイルで歌ったのだ。もちろん市川さんと田中さんも。曲の終盤へ向かっての盛り上がりがとても素敵だった。その他にも、ユーミンが詩をつけた曲が多かった。
斎藤ノブさんのお話によると、本当はユーミンも来るはずだったそうだ。
そうそう。「Remember My Love」のコーラスで、田中さんが顔を赤らめながら一生懸命歌ってたのがとても印象的だった。


その49(2001.12.11)男の子の気持ち 

今、TBSでやっている『ガッコの先生』。いつも楽しく見ている。
第9回では、同級生同士の恋が実った。ケンカするほど仲が良いというやつだ。
私は小学校の4年くらいまで、よくいじめられていた。どんくさかったからなぁ(^^;
でも、5年にもなると、いじめはなくなってきた。そして6年のとき。もう誰もいじめてこないと思ってたら突如目の前に1人の男の子。6年になって初めて同じクラスになった男の子だ。まぁ毎日毎日よく何か言って来た。
夏休みが終わって、最初の朝礼。みんな身長が伸び盛りなので、背の順が変わってくる。そしたら、その子と私は背の順でもそばになってしまった。つまり、朝礼の間中そばにいるのだ。これを見て、男勝りの先生は「まったくK(その男の子)とみよこは、離しても離しても縁があるなぁ」と苦笑い。
卒業のとき、その男の子は私立の中学に行くため、中学へ持ち上がりの私達とはお別れとなった。それを知ったある女の子が、「Kくん、転校するなら何もこんなに評判を悪くしていかなくてもいいのに…」と言っていた。私はその時初めて、その男の子がそれまでとても評判の良い子だったことを知った。
何しろ私はよくいじめられていたので「またか」という感じて、ただただ嫌だなあと思っていたのだ。でも、こざっぱりとしたその男の子の顔は良く覚えている。いじめる子の顔は怖くて見られないのだが、その子の顔は怖くなかった。でも、何か言われるのが嫌で、逃げ回っていたような気がする。

大人になってから思い出した時、これってもしかして…などとうぬぼれてみたりした。
ただ単に気に食わなかっただけかもしれないのにね(^O^)


その48(2001.12.2)『罪と罰』 

私はよくカラオケでアルバム『紅雀』に入っている『罪と罰』を歌う。
夫の前で歌うにはちょっと問題が…とも思うが、最近では自分から勧めたりする。
この曲の中で、特に好きな詩がある。

「ちょっと冷めたふりをする癖は 傷つくのをうまく避けるため
悪い手管の罪は情熱奪われる罰」

というところだ。
何も障害のない恋ならば、無理に冷めたふりをする必要はない。いつか終わりがくるのが判っているからわざわざ冷めたふりをして、終わりに向かってのクールダウンを図るのである。もちろんその時点では終わろうなどとはさらさら思っていない。
アルバム『紅雀』は、なぜかあまり売れなかったアルバムとして紹介されることが多い。でも私はこのアルバム、好きである。今なら結構共感される内容だと思う。ただ、全体のトーンが暗い点は少しつらいかもしれないが…
せめて発売が5年遅ければなぁ。金妻が大ヒットしたことだし…


その47(2001.11.17)転機 

人生には、何度か転機といえるものがある。なんて書くと偉そうだが、後から考えるとそう思えるときがある。私にとって転機だったと思えるのは、25歳の時だった。
その年の3月、私にとって大変ショックなことがあった。それは、もうだめだと判っていたことを引っ張りつづけてきた果ての結末だった。喪失感をもてあまして、家で座敷ブタ状態になっていた。
妹が見かねて、テニスに誘ってくれた。姉のあまりな状態は、妹にとっても耐えがたいものだったらしい。
妹の会社の人たちとテニスをしたが、初めてだったので、散々だった。そこで、テニスを習いに行くことにした。色々な人と知り合って、それまでの単調な世界から一変して、25になって初めて友人たちと飲みに行ったり、食事をしに行ったり、遊びに行ったりするようになった。ダイエットもはじめて、鬱々とした気持ちがだいぶ晴れていった。
その年の暮れ、正月休みを利用して、一人旅した。3月のショックもだいぶ癒えてきたところでの旅行だ。ビジネスホテルのレディスフロアに部屋をとり、2泊3日で文学散歩をした。ひとりで黙々と、行きたいところに行く旅。ホテルに帰ればベッドと電話だけの部屋。夜は特に辛かった。静かな部屋にひとりでいると電話に目が行ってしようがなかった。誰かに電話したい誘惑にかられながら、その気持ちに耐えていた。
でも、結局この一人旅が、いろいろなことに区切りをつけたのだと思う。
翌年ダイエットに成功。テニススクールの旅行で夫と知り合った。さらにその翌年には新卒で入った会社をやめ、皿洗いのバイトをしながらワープロを習い、自動車教習所に通った。8月には夫と付き合いはじめた。


その46(2001.10.31)『ブリジット・ジョーンズの日記』 

今、『ブリジット・ジョーンズの日記』を読んでいる。イギリスのごくごく普通の30代独身女性の日記という形の物語だ。
これを読んで、まあ親近感の湧くことといったら…(^^;
毎日摂取カロリーやタバコの本数、アルコールの量を記し、日々の出来事を時系列に書き綴っていく。仕事や恋の悩みがリアルに展開されていく。
これを読んでいると、「どの国の女性も同じようなことを考えているのね」と思う。
この作品、映画も好評だそうだが、まだ映画は見ていない。
文中に「情緒的うすらばか」とか「内面の安定」というキーワードが出てくるのだが、特に「情緒的うすらばか」というのは、どういうことをいうのだろう。何度も出てくるので、文脈からなんとなくは推測できるのだが、やっぱり首をかしげてしまう。翻訳物の場合、どういう風に訳されているかで随分違う。映画では何と訳しているのだろうか。

2001.11.4
読み終わった。
自分のありのままを愛してくれる人が一番よね。いろいろ努力するのはそれはそれで必要なことだけど、その過程やドジ加減も含めてまるごと愛してくれる人が一番ね。
いろいろ無理な駆け引きをしたりしないと成立しない恋愛というのはだめね。それを経験することで得ることもあるけど、その恋愛で受けた傷のせいで自分に自信をなくしたりする必要はないわ。