谷崎が続いたので、ここでちょっとひと息。『谷崎潤一郎東京地図』がまだ中途半端になっているが、これはまた後でということで、今回は青木直己著『幕末単身赴任 下級武士の食日記』という、将軍家茂の時代に紀州藩の勤番として江戸に着任した酒井伴四郎という人の日記について、その食にスポットを当てて書かれた本について書いてみたいと思う。
この本に興味を持ったきっかけは、最近にわかにその170 2003年江戸古地図の旅へのアクセスが増えたことだ。その170は、2003年にBShiで「2003年江戸古地図の旅」というタイトルの番組が放送されたのを見ての感想だが、どうも最近この番組を再び放送したようなのだ。NHK番組表を見ると、9月1日らしい。
2003年の時の番組では、当時江戸で流行っていた江戸の地図を片手に、吹越満扮する伴四郎があちこち歩き回る様を放映していた。その時の番組の感想はその170 2003年江戸古地図の旅を読んでいただくとして、今回読んだ本は、江戸見物についての記述もあるのだが、それよりも、伴四郎の食事にスポットを当てて書かれている。
彼は、上司であり叔父様である、宇治田平三と、もう一人、大石直助という人と3人で勤番長屋で暮すことになるのだが、伴四郎はこの詳細な日記を残したくらい几帳面な性格なのに対し、叔父様はどうも大雑把な性格だったようで、その性格の違いから起こる行き違いも、本人は困りものなのだろうが、読んでいる方は面白い。
その一例を挙げると、
拾六文のにんじ(人参)を安ゆえ煮置き、ひさしく度に飯のさい(菜)にいたし候はんと煮候ところ、叔父様の飯のさいになり、大方喰われてしまい、予一度のさいにも足らぬ程になり
どういうことかというと、人参が安かったから煮ておいて、何回分かの食事のおかずにしようとしていたら、大方叔父様に食べられてしまったということだ。この後に、倹約をするために安いまとめて買ったのに、これでは損だという意味のことを書いている。ご飯はお昼にまとめて当番が炊くようなのだが、おかずはそれぞれらしい。で、伴四郎は自分のおかずのために人参を煮ていたのにこの有様で(^^;。叔父様の食欲については他にも度々書かれている。
さらに、
障子の代勘定いたし候ところ、叔父様は金弐朱銀の所にて勘定なされ、壱人前二百八十文になり候と仰せられ、予は銭所にて勘定いたし候はは、二百七十八文になり候と申候へは、左様なこまかいこと勘定できるものか、わずか二、三文のことすいた様にせよと大に腹立なられ候
障子の代金を割り勘にしたらしいのだが、叔父様は弐朱銀を基準に、伴四郎は日常使う銭で計算したところ、二文の差が出るということで、叔父様は伴四郎の細かさに怒ってしまった。
でも、叔父様と意見が合うことももちろんある。この三人は、衣紋方という、衣紋についての故実を知り、その着用などをつかさどった役をしているのだが、五三郎という人が叔父様に衣紋道の本を2冊借りた。その時にその人が3人を菊見物に誘ったことから出かけることにしたのだが、その時のやりとりだ。
三人共参り候約束いたし帰り候、しばらくありて参候とて身拵にかかり候へは、予は米沢奥縞袴羽織も一番の着り大立派に也かし、直助は寝巻のままに行候と申ゆえ、叔父様は初て行所、ことに衣文方と申、少きわめても宜と申候えは(略)ぜひなく叔父様と予参り候へは、五三郎袴着て立出、また母人も裾長にて出、初て逢挨拶も済し
そりゃ、衣紋道の本を借りに来るくらいの人との初めての外出なのだから、おめかしは当然よね。平素大雑把な叔父様も、ここはビシッときめたようだ。
それにしても、「大立派」という表現がなんとも(^^) 得意気な表情が目に浮かぶ。伴四郎のこういうところは、他にもたびたび出て来る。
それから、紀州と江戸の食べ物の違いも面白い。お菓子についても、伴四郎は、饅頭はいただけないけど、餅菓子や団子は褒めている。実際、甘いものが好きなようで、特に牡丹餅は大好物だったようだ。
そういえば、元は紀州の藩主だった家茂もお菓子が好きで、そのためか虫歯だらけだったとか。そのあまり、脚気で亡くなったのだが、先代の将軍家定も脚気で亡くなり、家茂の妻である和宮も脚気で亡くなっているのよね。そうなると篤姫も脚気になりそうなものだけど、この人の場合は黒砂糖のものをよく食べていたのかもしれないわね。
それから、その170ではその優雅な生活ぶりにばかり目が行っていたが、この本では倹約ぶりがよく書かれている。かといってケチケチしているわけではなく、伴四郎という人は、倹約も楽しみながら、そして浮いたお金で時々贅沢をするという主義だったようだ。
とても合理的で、私としても意見が合いそうだけど、ちょっと細かそうなのはどうかしら。家庭での様子が知りたくなったわ(^^)
随分前になるが、ふるだぬきさんから日経の日曜版に載っている「彼らの第4コーナー」から、谷崎について書かれた分の第2回から第4回の記事をいただいた。
第2回は、『潤一郎ごのみ』の著者である宮本徳蔵氏の話を中心とした、谷崎の食に対するこだわりを中心に。第3回は、『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』の著者である伊吹和子氏の話を中心に、谷崎の作品に対する姿勢について。第4回は、渡辺淳一氏や千葉俊二氏の話から、女性へのあくなき執着について書かれている。
この中で特に印象に残ったのは、第2回の宮本氏による
「谷崎は関西の食べ物を愛したが、東京・日本橋生まれで、根は江戸っ子」
「食べ物の原点は幼いころに蛎殻町の生家で食べた洋食。それもこってりと脂っぽいもの。永井荷風や志賀直哉が老いて痩せ衰えたのに対し、谷崎だけは太っていた。それが旺盛な創作意欲を生んだのでしょう」
という言葉と、第3回の伊吹氏による
「源氏も雨月物語も母恋いも食もすべてが先生の中に棲む魔物の栄養物。観念の坩堝にかき混ぜて出していた。学者とはまったく違う」
という言葉だ。
『夢の浮橋』について解釈した今、これらの言葉は特に深く響いてくる。
特に伊吹氏の言葉は、『夢の浮橋』に登場する『アンナ・カレーニナ』を思い起こさせる。糺に読ませる本は何が良いか、谷崎が伊吹氏に相談した時に、谷崎が
そうだね、ドフトエフスキーは暗すぎるし……、アンナ・カレニナ、ああ、これがいい……とおっしゃった
と『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』に書かれているが、『夢の浮橋』について自分なりに解釈した今、読書感想文のページにある『アンナ・カレーニナ』についての木村浩訳のあらすじと読書感想文を読むと、それだけでないのがわかる。『夢の浮橋』のサブストーリーとして、この名作の筋がうまく使われているように感じるのである。『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』には、『夢の浮橋』執筆中、糺の2人の母の名前が変わったり、いろいろ変更があったことが書かれている。この作品を登場させることにより、話の筋をさらに膨らませていったのだろう。
その392を書き終わったところで、軽い達成感を覚えたが、その後もつらつら考えていたところ、頭の中に松子夫人やその姉妹たちと暮らした時代が、きらびやかに浮かび上がってきた。
この浮橋は、松子夫人や重子夫人の上に「母」のイメージを与えて暮した日々自体を現しているのだろう。
そう思っていたところに、冒頭の短歌が鮮やかに浮かんできた。
五十四帖を読み終り侍りて
ほとゝぎす五位の庵に来啼く今日
渡りをへたる夢のうきはし
である。
これは、糺の母が書いたことになっている。糺はどちらの母かわからないと言っているが、これは間違いなく第2の母であろう。
乳母は、「この作品を書いたその色紙は、越前の武生から取り寄せた、古代の手法に依つた本式の墨流しの紙で、母が大変苦労して取り寄せた」と言っている。
となると、この死は、「母」自身の意志だったということになる。
冒頭の短歌は、伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』によると、当初は次のような形だったと言う。
ほととぎす五位の庵に来啼くなり夢のうきはし読み終へし頃
この短歌では「母」は夢の浮橋を渡り終えていない。ただ平常のひとコマである。
それを冒頭の形に直したのはなぜか。
「母」の死を糺は澤子のせいにしているが、実はこれは「母」自身の意志なのだということにして、最終的に千代子夫人を救ったのではないだろうか。いったん澤子のせいにすることで、谷崎の気は済んだのだろうから。
その2でいったん止めようと思ったが、やはり最大の問題点である第2の母の死の問題を残したままにしておくのはということで、第2の母はなぜ死ななければならなかったかについて書いてみたい。そして最後に、やはり犯人がわからない状態でヒロインが受難する『春琴抄』についての解釈を少し加えて、『夢の浮橋』に対する現時点での私の解釈としたいと思う。
伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』によると、母の死は、最初から必須条件だったそうだ。そして、実際にその場面を書く段になると谷崎の苦悶は激しく、やめようと言ったことも一再ならずあったそうである。
谷崎の母は、丹毒で亡くなった。丹毒とは、皮膚の浅いところの化膿性炎症で、母はこれによって顔が腫れた。その後快方に向かたため、谷崎は、まさか亡くなるとは思わなかったそうだ。
そんな時、容態が急変した。谷崎は自分ばかりでなく、千代子夫人が母の看病に行くことも好まなかったが、昔かたぎの千代子夫人はそれでも母の看病に出かけた。そして、母の死に間に合った。ところが、その頃谷崎は伊香保で執筆していたため、母の死に間に合わなかった。
谷崎は、とうとう母に疎まれたまま、和解する機会を永遠に失った。
これが、谷崎に後々まで深い罪悪感と悪人意識を持たせ、さらに母に愛された千代子夫人に対する深い劣等感も植え付けたようだ。その後小田原事件までの間、谷崎はもういいよと言いたくなるくらい自分は悪人だ、真の悪人だと作中で言い続け、千代子夫人は作中で何度も受難することになる。もっとも、この谷崎自身の精神の必要から生じた犯罪小説が、江戸川乱歩に強い影響を与え、日本の推理小説の先駆けになったのは、谷崎にとっては意外な副産物だったかもしれない(この時期の谷崎の小説を読んでみたい方は、詳細Book検索「比較検討」――「谷崎 犯罪小説」の検索結果をご覧ください)。
この時、谷崎は自分のような悪人は、善人たる身内にあまり積極的に関わらない方が良いという意識を持ったのではないだろうか。身内に対する「はにかみ」には、この悪人意識が関わっているように思う。
自分の死が近くなり、自分の死後の身内の身の振り方を考えた際、この悪人意識から脱する必要を感じたのが、『夢の浮橋』執筆の最大の動機かもしれない。
それが、母の死の状況を再び作り、母を死なせたのが嫁とすることで、しつこい悪人意識から脱しようとしたのではないかと思うのである。
ここで、やはりヒロインが受難する『春琴抄』の話になるが、この小説で、春琴は何者かによって顔にお湯をかけられる。つまり、母のように顔が損傷するのだが、この作品が書かれたときは、松子夫人と暮らし始めたときだった。
『夢の浮橋』のことを考えているうちに、『春琴抄』は、昔の母を思い起こさせる松子夫人と暮らすに際し、とうとう自分を認めてくれなかった母と和解するために書かれたのではないかと思うに至った。
『幼少時代』に次のような記述がある。
たった一遍、私は母に厳しい折檻を受けたことがあった。(中略)金銭上のことではなかったし、他人というのも誰のことどあったか考えつかないが、とにかく私は、こればかりは意地でもいえない、あくまで強情を張り通そうと、最初から決心していた。私は母の前に呼びつけられて、畏まって坐ったまま、いくら聞かれても「知りません」を繰り返していたので、母も意地になって、長火鉢にかかっていた長五徳の鉄灸を一本外して、それで私の股(もも)の上を打った。その鉄灸は表面を銀色に研いた、鉄製の四、五寸ぐらいの棒であった。ばあやが止めに入ったことを覚えているから、十二、三の頃であったに違いないが、母はその時はばあやの執り成しを聴き入れなかった。打つといっても着物の上から加減して打ったのであるが、
「なぜいえないのだ、いえないというのが怪(おか)しいじゃないか、さあおいい、いわなけりゃ堪忍(かに)しないよ」
と母は私が「知りません」という度ごとに一つずつ打った。加減しながらではあったが、同じ所を何度も打つので、私はだんだん痛さが骨身(ほねみ)にこたえて来た。私は或る程度の抵抗をしようと思えばなし得たであろうし、逃げることも出来たはずだけれども、ただ声を挙げて泣き、理由はいわずに、「御免なさい、堪忍して下さい」とのみいいつづけた。
どうだろうか、春琴が佐助に稽古をつけているシーンを思い浮かべないだろうか。この春琴が顔を損傷し、それに対して佐助が自ら目をつぶすことで、この二人の間には幸せな世界が生まれたのである。
つまり、現時点の私の結論は、『春琴抄』は、意識の上で母と和解し、松子夫人と幸せになるために書き、『夢の浮橋』は、意識の上で母を殺した人間を他の人間とすることで罪悪感から逃れ、身内に関わる勇気を持とうとして書いたということになる。
そして、それに際しては、松子夫人等と自分の間にある仮想の親子関係から脱することが必要だったのではないかと思うのである。
『夢の浮橋』が書かれる前、2つの事件が起こっている。
1つは、妹尾君子さんをモデルにした小説『お栂』の原稿発見。もう1つは、長いこと行方がわからなかった三男の得三氏の消息がつかめたことである。
『神と玩具の間』によると、その原稿を昭和33年に谷崎が発見し、喜び勇んで今は別の人と再婚している妹尾氏に原稿を送り、意見を求め、さらにはこの原稿を筆写した当時の妻で今は再婚している丁未子夫人への周旋まで依頼したのだが、返事が来ない。谷崎はそれに対して催促の手紙を出している。
結局『お栂』の原稿は、妹尾氏に握りつぶされてしまった。
得三氏については、細江 光著『谷崎潤一郎深層のレトリック』に詳しく書かれている。
それによると、昭和32、33年頃、新和歌の浦の旅館で下足番のような仕事をしているという消息が得られ、谷崎はとても心配し、得三氏に老人ホームに入るよう説得している。
得三氏は結婚はしていなかったが、女性がいたらしく、なかなかホームに入る決心がつかなかったようだが、結局、昭和37年には老人ホームに入居し、95歳の天寿を全うしている。
得三氏のホームでの費用については、終身、中央公論社が支払うという契約を、生前に谷崎が結んでいた。
この2つの件が、この小説を書かせる原動力になったのではないかと思うのだ。この2つの件と、『夢の浮橋』のつながりは、次のようになる。
得三氏は、谷崎の兄弟の中で、初めて里子に出され、そのまま先方の養子になっている。ところが、養家が没落し、さらにまた不運なことが重なって、仕事には就くが、結婚話が出るたびに逃げ出すということを繰り返していた。
松子夫人たちと生活することになって、血縁は極力遠ざけていた谷崎だが、自分の老い先が短くなってきたことから、このあたりで松子夫人を中心とした、永田一族の家風に染まる生活から脱し、再び血縁を大切にしようと思ったのではないか、それが「武」と暮すという結論に至った理由なのではないかと思う。
結局それは叶わず、得三氏を老人ホームに入れるということで解決したが、谷崎の本心としては、そういうことだったのではないだろうか。
一方、妹尾君子さんについては、谷崎が妹尾夫妻と交際していた頃、よく、夫妻で来ないと刺激剤にならないと言っていたという話がある。君子さんの生い立ちについては、『神と玩具の間』に次のように書かれている。
この妹尾夫人は或る商家の若旦那と行儀見習いの娘との間に生まれ、生後まもなく貰い子に出されたものの、養家も零落、十歳にならぬ前に自分の意志で狭斜の巷に身を寄せた人だったという。芸もよくおぼえ才覚も人気もあったことから、さる貿易商社の人に落籍(ひか)されて結婚し子供も生まれたものの、夫が浮気する一方その頃通訳兼社員だった年若い妹尾健太郎と知り合って恋愛、昭和二年ころ円満にその夫から君子夫人は妹尾に譲られ(三字に傍点)再婚したのだという。
谷崎は、彼女のこの経歴に異常に興味を示した。私は、これまでその理由については何もわからなかったが、『幼少時代』を読んで、思い当たった。
谷崎は、幼少時代、本家で食事をし、本家でお風呂をもらっていた。叔父にお嫁さんが来たときの話が印象的に書かれている。
お嫁さんは、類型的ではあったけれどもかなり美しい女に見えた。彼女は直ぐにニッコリして話しかけたが、私はいつまでもきまり悪そうにしていると、並んで坐っていた叔父が「はっ、はっ」と声を出して笑って、何か私にお愛想をいった。私はなおさらきまりが悪くなって、いきなり母のいる母屋の茶の間の方へばたばたと逃げてきてしまった。
谷崎にとって、ごく淡い初恋のような感じだったのだろうか。
このお嫁さんはお菊さんというのだが、お菊さんと叔父が大磯の群鶴楼に逗留していた頃、活版所の番頭に連れられて遊びに行き、そのまま数日間泊まり込んで、叔父夫婦に伴われて帰ってきたことがあるという記述もある。
もしかしたら、この当時、谷崎はこの夫婦の子供になりたいと思ったかもしれない。
叔父は、お菊さんを大切にしていたが、そのうちお寿美さんという芸者さんを落籍して家に入れるようになり、しばらく三人で枕を並べた末、ある日お菊さんが実家から呼ばれて、そのまま帰らないという事態になった。
谷崎からしたら、いつの間にか、お菊さんがお寿美さんになっていたというものだろう。そして、谷崎は叔父とお風呂に入りながら、お風呂の外のお寿美さんと叔父が喃喃喋喋するのを聞き、それから後も、叔父とお寿美さんとの色々な話を包み隠さず知ることになるのである。
私は、『夢の浮橋』の二人の母のモデルはこの二人の女性だと思うようになった。実際、谷崎は活版所の子供のように暮していたのだ。そして、それどころか、松子夫人と重子夫人にも、この二人の女性を重ねていたのではないかと思うに至った。
というのは、渡辺千萬子著『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』に、重子夫人が常に谷崎夫妻のそばで寝ていたという記述があるからである。
もしかしたら、谷崎は、叔父からお寿美さんを譲ってもらうという妄想を抱いていたのかもしれない。
細江 光氏は、『谷崎潤一郎深層のレトリック』で、谷崎は、母セキの死後、母を「天上の母」とは別に、「悲しい母」と「悪しき性的誘惑者」というものを作り出して、谷崎に関わる女性にそれぞれ割り振っていたと書かれている。
その原型は、叔父に関わったこの二人の女性だったのではないだろうか。