24日、ふるだぬきさんから情報をいただき、映画『台所太平記』をテレビで見た。
谷崎家のお手伝いさんたちを描いた、ほとんど実話といってもいい小説の映画化だ。
その際にふるだぬきさんから「番組遊覧」という新聞の切り抜きもいただいたのだが、それには「たがを締める淡島千景」というタイトルがついている。
確かに淡島千景はすごかった。ひと目見たとたん、「あっ、松子夫人!」と思った。それくらい、写真で見る当時の松子夫人を思わせる雰囲気を漂わせていた。
記事には、
善良な賢夫人に扮しつつ、お手伝いさんとの接し方を微妙にずらしていく技。短期間でがらりと変わった戦後日本の空気を画面に定着させたのは、彼女の功績だった。
と書かれている。
まったくそのとおりだと思った。
さりげないやきもちやさりげない憤怒の表現なども絶妙だった。
松子夫人が、お弁当を自分が作ったわけではないのに自分が作ったとウソを言って、その場でバレるというシーンも入っていた。で、バレてもアッケラカンとしているんだわ(^^)
これを見て、まだ千代夫人の時代に夫婦同伴で当時の松子夫人の家である根津家に行って、帰るなり谷崎が千代夫人に言った話が高木治江著『谷崎家の思い出』(Amazonのマーケットプレイスに、結構安価で出品されている)に書いてあったのを思い出した。
「根津夫人は客を招待する朝は自分で買い出しに行き、自分で料理して、時間までは普段着のまま、まめまめしく働き、時間にはさっとあでやかに装い、全く船場のご寮人さんの格式を備えて客人の饗応振りが素晴らしい。女はあれでなくっちゃ駄目だ」
といい、それに対して千代夫人がボソッとつぶやいたというものだ。
饗応振りが素晴らしいというのは確かだろうが、自分で買い出しに行き、自分で料理してというのはあやしい。
一時は信じても後ですぐわかるような、こういうウソを言ってしまうというのが、何ともらしい感じがした。
それから、松子夫人が昔から大勢の使用人を使ってきた人であるのに対し、谷崎が子供の頃はそういう境遇だったのに、その後は苦労して、書生生活も経験した、そのズレのようなものも表現されていた。
もう1つ、初役の森光子が一人で御飯をかき込んでいるシーンがあるのだが、ここには箱膳が使われていた。
食事に使う1人分の食器セットのようなものだが、谷崎が松子夫人と暮らし始めたとき、谷崎はこれを使って奉公人と一緒に食事をすると言って実際にそうしたことを思い出した。ちょうど『春琴抄』の頃である。
映画1本の中に、それだけ表現できたというのはやはりすごい。
伊豆山の家の掛け軸に、原作者本人の字が登場。「潤一郎」の文字が印象的だった。
それにしても、お手伝いさん役の京塚昌子、森光子、音羽信子、大空真弓などのいわゆるTBSのドラマのメンバーが皆若く、しかも同じ年齢層の役で出てくるのが妙に新鮮だった。
実年齢は松子夫人役の淡島千景も合わせて微妙だったと思うが(^^;
『台所太平記』を読んだのはもう何十年も前なので、随分忘れている。また読み返したくなった。
そうそう。その362の対談を起した資料が最近出てきた。
「芦屋市谷崎潤一郎記念館資料集(一)映像・音声資料」というもので、芦屋市谷崎潤一郎記念館に行ったときに購入した(たぶん)ものだ。平成7年に作られたものだが、入っていた紙によると、平成10年の細雪まつりの来場者に贈呈されたようだ。
その、該当対談の最後に、この『台所太平記』のことが出てきているので引用する。まだ映画化する前のことで、原作の話らしい。
高 畠 えらい可愛がり方ですね。一家族で。
谷 崎 可愛がらない、いやなのもいるんです、それは書かないんですよ、なるべく。可愛いのだけ書いているんです、なるべく。
(中略)高 畠 あれは家族で見れますよ。映画として。
谷 崎 あれは見れます。
高 畠 この頃の映画じゃ、見せられないものが多いんだから。
谷 崎 あれは誰が見ても差し支えないですわ、あれだったら。あ、もう一寸先へ行って、変なところが、あ、一寸出て来るんですけど。
(中略)谷 崎 子供には分らないように書いてあるけれども。
映画では、まさにその可愛がる人と可愛がらない人、子供には分らないけど変なところもしっかり出ていた。
でも、谷崎の作品としては、明るく誰でも読めるし、見ることができる数少ない作品の1つであることは確かだ。
18日、マサノリが鉄道博物館に行ってきた。私はちょっとパソコンの前を離れられない状態だったので、今回はマサノリ一人だ。
オープンしたての鉄道博物館は、平日でもやはり混んでいたそうだ。特に子供とお年寄りの団体が多かったようで、この盛況はしばらく続きそうだ。
子供たちが多いので、かなりにぎやかだったそうだ。ジオラマは、最前列は子供優先なのだが、あまりのにぎやかさに、家族連れで来ていた小さい子が、「うるさいね」と母親に言っていたそうだ(^^;
この子は手すりの位置がちょうど目の高さだったそうで、母親の膝の上で見ていたそうだ。かわいかったんだろうなぁ。マサノリの「みかん目」ならぬ「三日月目」が目に浮かぶようだ。
そうそう。家で仕事をしている私のために、マサノリがお弁当を買ってきてくれた。その名も「鉄道博物館開館記念弁当」。
以前大宮にあったお弁当の会社は撤退してしまったため、このお弁当は尾久で作られている。
そういえばタモリ倶楽部でも大宮の駅弁がいくつか出てきたのだが、大宮なのに深川めしだとか、作っているところは尾久だとか、何ともトホホだったなぁ(;_;)
せめて盆栽弁当があればタモリに「大宮って特に有名な所とかもないしねぇ」などと言われることもなかったのにーっ
まあ、そんな不満もちょっとあるけど、味はとってもおいしかった(^^)
おせちのように入っている羊羹も、私としては基本的に苦手な方なのだが、あっさりしていておいしかった。ビックリ。
ところで、このお弁当を売っている人が、明らかにアルバイトのお姉さんだったそうだが、そのお姉さんに向かって、「ジュロ! ジュロ!」と訳のわからないことを言っている、若い男の人がいたそうだ。
どうやら順路を聞きたかったらしい。で、揚句の果てにキレていたそうで、お弁当売りのお姉さんも大変だ。
で、行ってみた感想は、やはりゆっくり見るには一週間位必要とのこと。
そして彼は言うのだ。
「早く交通博物館のように人が少なくならないかなぁ」
まったく不埒なやつだ(^O^)
例によってパンフレットをたくさん持ち帰ってきた。これからさらに研究するのだろう。
チラと見せてもらったパンフレットには、Teppa倶楽部というのが載っていた。会員になると、年間3,000円でフリーで見られるらしい。
マサノリの希望は当分叶いそうもない。
各メディアでも話題になっている鉄道博物館が、いよいよ本日オープンする。
これに先立って、その近くのスーパー銭湯は大宮大成鉄道村ということで、北斗星の外観を模した宿泊施設に変わっている。マニア狙いだわね(^^)
テレビでも、タモリ倶楽部が2日と12日に先行放送。タモリと原田芳雄の鉄道ファンぶりがいいのよねぇ(^^) 空耳アワーも、館内なのか、それとも外なのか、大成駅(今日から鉄道博物館駅)のそばを通るJRの線路が見える場所から中継していた。
タモリ倶楽部のサイトを見たら、タモリ電車クラブってのがあるのね(^^) 各回の電車クラブメンバーの出席表になっている。でも、この表をみると原田芳雄に出演マークがついていないんだけど…、確かに出てたわよ。
マサノリ情報によると、アド街も来たらしい。当然13日に放送するかと思ったら、なんと「田端」だっちゅうじゃないの! なぜ? どうして? まあ、田端自体はよく歩いたので好きだけど(まだ見てないけど)、「大宮」は13日に放送せずしていつ放送するつもりなのかしら。
それにしても鉄道博物館、マニアが心行くまで見て歩くには、1週間くらい必要だとタモリ倶楽部で言っていたわ。私など、買い物がてらにも行ける場所だけど、どうせ行くなら最初はマサノリと一緒に行った方がいいわよね。で、さらに何人か集まって行くのもいいわねと思うのだが、これはマサノリの輿が上がらないとどうにもならない。
まあ、今週の平日はマサノリも時間があるので、もしかしたらその間に秘かにいろいろ情報を集めておくつもりなのかもしれないわ。
先日、ふるだぬきさんから、壁紙クイズの回答と共にこの番組の情報をいただいた。
今回は『当世鹿もどき』を休んで、この番組のお話をしたいと思う。
NHK映像ファイル あの人に会いたいは、番組ホームページによると、
NHKに残る膨大な映像音声資料から20世紀の歴史に残る著名な人々の叡知の言葉を今によみがえらせ永久に保存公開する「日本人映像ファイル」を目指す番組です。
とのことで、今は既に亡くなられて会うことができない人の在りし日の姿を見ることができる10分位の番組だ。
今回の「谷崎潤一郎」は、本放送が9月30日(日)。ふるだぬきさんはこの放送をご覧になられて感想を送ってくださった。
そして再放送が5日(金)、再々放送が今夜7:30から教育テレビで放送される。
番組ホームページでは、過去の放送分の写真と至言を見ることもできるので、もし今夜の放送を見逃された場合は、ぜひこちらを当たって欲しい。映像を見ることができないのは残念だが、ずらっと見ただけでも錚々たるメンバーの写真が並んでいる。
あ、佐藤春夫もいる!
さて、「谷崎潤一郎」の回だが、谷崎が後藤末雄と一緒にインタビュー番組で話をしているところを中心に構成されている。学生時代からの友人である後藤末雄と一緒のためか、谷崎の舌はすこぶるなめらかだ。下唇はいつものとおり出ているが、とても上機嫌で歯切れが良い。
話の内容から、どうやら『瘋癲老人日記』が発表された頃のもののようだ。サイトには76歳のときと書かれているから、発表の翌年ということになる。
老人の性という、当時としてはタブーに挑戦したようなテーマだったためか、随分と評判が立ったらしい。
インタビューでは、聞き手がさかんに女性のファッションへの興味について聞いており、その出所についても探っていたが、谷崎は千萬子さんの名前は出さなかった。若い人のファッションのことまでは松子夫人ではわからないとは言っていたが。で、その部分については思いついたように女優の高峰秀子の名前を出していた。
高峰秀子は、谷崎が好きな女優さんの一人で、『当世鹿もどき』でも彼女からの手紙が公開されている。とても愛嬌のある文章で、家族ぐるみで親しくしている様子が伝わってくる手紙だ。
女性の好みについては、冒頭で、やはり関西の女性の方が好みですかと聞かれて、そうだねぇと肯定。さらに、でも、話をするには東京の方が面白いね。色気は関西の方があるけれどもと答えていた。
なるほどねぇ。そう。谷崎は元々はポンポンと話が弾むタイプが好きなのだが、関西移住後、そう、『蓼喰う虫』の頃から関西の女性の魅力に目覚めてきたのだ。
ノーベル文学賞の話も少し出て、海外に紹介された谷崎の本の映像も出てきた。『細雪』の英語版である『The Makioka Sisters』も登場したが、これは先ごろ亡くなったサイデンステッカー氏が紹介し、出版されたものだ。
ノーベル賞については、谷崎があと少し長く生きていたら、受賞していたかもしれないと、『流れゆく日々―サイデンステッカー自伝』に書かれている。
具体的記述は次のとおり。
かりに昭和四十三年当時、谷崎さんがまだ存命中だったとして、はたしてノーベル賞を受けることになったかどうか、誰にもわからないことではあるけれども、その可能性は、かなり高かったのではあるまいか。谷崎作品は川端の世界より堅固で、確かな手応えがあり、翻訳を通じてであっても、欧米の読者にもよく通じたからである。
で、つい最近知ったのだが、『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』の伊吹和子氏は、中央公論社の編集者として川端康成の担当もしていたのね。いずれにしてもノーベル賞受賞者を担当していたということで、その実績はやはりすごいわ。
話がそれたが、そのインタビューと合わせて、その当時の松子夫人との映像も流れたが、その松子夫人の若いこと。谷崎とは年齢が離れていることは確かだが、それでも相当な年齢になっていたはずなのに、本当に若い。これについては『当世鹿もどき』にも、年齢に比べて若いと書いてある。
この対談の他に、晩年の松子夫人の映像も登場した。聞き手は女性だが、その話すときの目がなんともイロっぽいとのふるだぬきさんからの情報があったので、私もじっくり見てみたところ、何かを訴えかけるような少しうるんだ目が、確かに色っぽい。
そういえば、松子夫人は相手が男性であれ女性であれ、話をした人を魅了せずには置かない人だったそうだが、映像を見てそれを実感できた。
前回、終平さんの著書の引用と手前の実家の母の話で終わってしまいましたので、今回も引き続き、「はにかみや」について書いてまいりたいと存じます。
さて、谷崎の「はにかみや」でございますが、そのはにかみはかなり広範囲に及ぶもののようでございます。特に身内へのはにかみにつきましては、親兄弟ばかりではなく、子や孫にまで及ぶというのですから、こりゃ相当なものですな。『当世鹿もどき』には次のように書かれております。
そんな次第で、生來のはにかみやのために、手前共の兄弟は世にも冷淡な附き合ひをいたしてをります。精二はそれでも兄に厄介をかけないで一本立ちが出來ましたからようございますが、末の妹や弟などは兄貴のこの性分のために、ロクロク世話もして貰えないじまひでした。それから、手前には實の娘が一人ございますが、これがやつぱりいけませんな。幸いにして、手前には實子と云ふものがこの娘一人しかなく、息子が生れませんでしたが、もしも實子の息子が生れてゝ一端(いっぱし)の人間に成人していましたら、よほどお互に取つて附けたような、奇妙な関係になっていたでございませうな。
娘は疾うに嫁(かたづ)いとりましてめつたに手前共へ参ることもございませんが、たまに参ります時は男一人と女二人の孫を連れて参ります。ところがこの孫が又いけません。孫共の方は無邪気ですから、愉快にハシャいでをりますが、それでも何となく間に一枚物が挟まつたやうに感じてるらしうございますな。可哀さうだと思ふこともございますが、どうも如何ともいたし方がございません。たまに物などを云つてみることもございますが、何となく不自然で、無理に努めているやうで、我ながら気がさします。生眞面目な話をしますのが一番具合が悪く、突拍子もない、子供を笑わせるやうな冗談を云って、面白くもないのにアツハアツハ云ってゴマカしてしまひます。ところがほんたうの血を引いてゐない孫、───と申しますのは、手前の今の家内の亡くなつた前の御亭主との間に出來ました倅の子、───この義理の孫に當ります女の子との遣り取りの方は、却つてよほど自然に、しつくりと参ります。その孫の母、つまり手前の義理の娘との関係なんかも、一番工合よく行つとります。
この義理の孫といいますのが、『祖父谷崎潤一郎』を書かれました「たをり」さんで、その孫の母が千萬子さんでございます。
『祖父谷崎潤一郎』で思い出しましたが、この本が書かれましたときの松子夫人の動揺は大変激しく、「孫じゃないのに」などとおっしゃって、非難していたようでございます。当時聞書きをされてました稲澤秀夫氏の『聞書谷崎潤一郎』には、松子夫人の言葉ではなく、稲澤氏の意見としてかなりキツい文章が書かれております。
話が反れましたが、この鮎子さんに照れるということについては終平さんの『懐しき人々』には次のように書かれております。
兄は恥しがり屋だったせいか、身内の者には用の口以外に喋らない。僅かに鮎子とは話していたが、これもまともではないのだ。例えばカキクケコを挿(はさ)んだりして話す。
「ア(、)カイ(、)キコ(、)コハ(、)カネ(、)ケ!」「ハ(、)ーカ、ハ(、)ーカ」と言った調子。
そんな谷崎も佐藤春夫が来ると快活に喋るということで、当時、「嫂を取られるようで」と佐藤春夫に警戒していた終平さんも「佐藤の小父さんさえいれば」自分も兄と話ができると来訪を歓迎する気持ちも抱いていたようでございます。
手前が思いますに、谷崎の兄弟へのはにかみは、同じ職業に就いたり、離れている期間が長かったり、年齢が極端に離れていたりしたために生じたということなのではないかと考えとります。鮎子さんについても同様で、千代夫人とともに長いこと放ったらかしていた時期がありましたもので、そういうこともあるのではないかと思います。それが証拠に、学生時代までは谷崎と精二氏との間は兄弟らしく親にも話せない話などもしていたようでございますので。
『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』には、伊吹氏の、小説の題材にならない秘書という立場に対する寂しさのようなものが感じられる表現があるのでございますが、これなども原稿用紙を前に2人だけで向かい合う日々でありながら、伊吹氏の「書く機械に徹する」態度もあり、谷崎にとっては身内の感覚と照れが生じてしまったのではないかと思うのでございます。
この随筆集がこのように噺家の口調になっておりますのも、普通の口調で伊吹氏に言うのは、内容が内容だけに照れるのでということもあったのではないかと手前は思うのでございます。さらには、その伊吹氏に間接的に話したいことが含まれているように感じられるところもあるのでございます。
さて、伊吹氏でございますが、生家は京都の繊維問屋だそうでございますが、このたび幹事長になられました伊吹文明氏とはご兄弟でございましょうか。確認は取れないのでございますが、写真を拝見しますと、目のところが似ているようにも感じます。