ラブレターズ

その175(2004.01.04)母のかつら

3日に実家に行ってきたが、玄関に入って母を見たら、いきなり違和感を覚えた。一瞬、美容院にいってきたのかしらと思ったが、妙に不自然だ。
そこで、
「かつら?」
と聞いたら、
「やっぱり分かるか…」
とつぶやいたので、
「傷ついた?」
と聞いたら
「傷ついた」
と答えた。まあ、親子だからこんな会話ができるわけで。
母は安いかつらを見つけたので、これならパーマ代が節約できると思って買ったそうだ。
はずして見せてもらったところ、結構きれいなのだが、つけ方が悪い。前髪がつぶれているのだ。私にきっちりと遺伝した額の狭さのため、前髪があったほうがいいと思ったまでは良かったのだが、もう1つ遺伝したその大雑把な性格から、かつらをつけた際にその前髪の形に気を配らなかったらしい。それでも、ここ数年白髪が目立ち、髪のつやもすっかりなくなっていたわけで、もう少しつけ方を工夫すれば、いいかもしれないと思った。

母は私よりファッションに興味がある。その点いつも感心してしまう。今回もすっきりしたアンサンブルのセーターを着ていた。胆石を患って以来油物を食べないせいか、すっかりスタイルも良くなり、さらに歯の治療もしたため、かなり若返った。
それに対して父はますますふけてきて、本人も5年周期でふけてきたと自覚していた。それでも交通の不便なところに住んでいるせいか、2人ともよく歩く。脳梗塞で倒れて以来杖をついている父だが、そのせいか、足が弱ってきた気配はない。

久しぶりに親子で長距離を歩いたが、日ごろ家に閉じこもっている私は結構疲れた。「歩く」ということの効能の実例を見せられた1日だった。


その174(2003.12.30)人面疽 

『ブルーもしくはブルー』は、ドッペルゲンガーという、分身をテーマにした話だった。で、このドッペルゲンガーというものに興味を持ったのでネットで調べてみたら、私の好きな谷崎潤一郎もテーマにしているという記事が見つかった。はて、そんなのあったかしらと思いつつ、谷崎がミステリー的なものを続けて書いた時期があったことを思い出し、この作品に行き当たった。
この作品は、文庫本ではたぶん見つからないだろう。私が持っているのは、六興出版で出した『新装版谷崎潤一郎文庫』全12巻のうちの第5巻だ。ここには、谷崎の代表的なミステリー風の作品が集まっている。その中には、後に江戸川乱歩が影響を受けたという、日本のミステリー小説のさきがけとなった『途上』という作品も含まれている。

さて、標題の『人面疽』だが、アメリカで活躍していた映画女優が日本に帰ってきたら、自分の出演した覚えのない作品が秘かに上映されていることを耳にし、それについて消息を知っている人にたずねるところから始まる。谷崎は一時活動写真に深くかかわっていた関係上、その内側を良く知っている。この作品にはそこで得た知識が生かされている。
小説の中に映画作品の話が出てくるのだが、その映画作品がもしあったら、現在でも結構見ごたえのあるホラー作品になるだろう。この小説では、表面上の主人公はただの聞き手であり、本当の主人公は映画に出てくる主人公にみえる別人と、この映画がホラーたるゆえんの乞食の青年だろう。そして、語り部の言葉が読者にさらに不気味な世界に誘ってこの物語は終わる。

2005-06-03
谷崎潤一郎の本で、『潤一郎ラビリンス』が出てるのね。分野別になっているから探しやすいかも。


その173(2003.12.19)ブルーもしくはブルー 

NHKのドラマ『ブルーもしくはブルー』の再放送が18日、終わった。原作は山本文緒。近所の本屋さんに行って原作を探したけどなかったので、今日はドラマを見た感想を書きたい。
6年前、主人公は2人の男性からプロポーズされ、1人を選んだ。が、選択に失敗したと思っている。で、もう1人の男性の姿を見たいと思ったが、久しぶりに見たその男性は別の女性と結婚していた。だがそれは自分の分身だったというところから始まる。2人はお互いにもう一方をうらやましいと思うのだが、しばらくすると、お互いの不幸に気づく。でも、入れ替わった本人たちの態度の変化で人間関係も変化していく。結局幸せも不幸も本人次第なのだ。

見始めたとき、わたしは盛んに「いやなやつ~っ」と叫んでいた。それは思わずという感じで、とにかく「いやなやつ」という言葉が口から出た。でもそのそばから、「自分もそういう部分があるじゃない」と別の自分が突っ込みを入れ、この「いやなやつ」という言葉は途中からはほとんど自分に向けられていた。
次の日は、片方は「ノーの多い人間」で、もう一方は「イエスの多すぎる人間」と分類したら、マサノリが「でも、結局本質は一緒なんだよな」と言っていた。彼はときどきスルドイことを言う。実際、「イエスの多すぎる人間」は、「ノーが言えない人間」なわけで、ノーと言わなかいからイエスだとは限らないのだ。

私なども、ときどき他人がとても偉大に見えたり、とてもうらやましく思えたりすることがある。誰でも自分に満足している部分と、こんな自分嫌だと思っている部分があるのよね。
そう思うとなんだか気が楽になるのは私だけ?

2003.12.30
ドラマは、この時間帯のシリーズの基調から、希望のもてるハッピーエンドだったが、小説の方はそうはいかない。ちょっとやりきれないような、でも少しすがすがしさのある終わり方だ。ただ、結末が違うだけで、そこにいたるまでの内容は、ドラマは原作にほとんど忠実だった。特に、主人公が語る口調と、稲森いずみの語りがぴったりで、もともとこの作品が稲森いずみのために書かれたかと思うほど、彼女にあっていたのに驚いた。


その172(2003.12.15)『anego』 

林真理子著『anego』を読み終わった。帯に書いてあるとおり、最後の1行で背筋が凍った。
この主人公は、人に相談されたらいやとは言えない、いわゆる姉御肌の女性だ。私にとっては憧れのタイプだ。実際、この女性は職場での評判がすこぶるいい。こういう人が幸せにならなくてどうするというものだ。
が、よくあることだが、人のことには冷静な判断を下せても、自分のことにはうまくいかない。妙に冷静に計算しようとするばかりに、せっかくの幸せを逃してしまう。こういうタイプは案外多いと思う。チラッと頭に浮かべてみても、女優さんから知っている人までズラッと思い浮かぶ。だからこの作品を読む女性は当然anegoの方に感情移入をする人が多いかもしれない。
その一方で、絵里子という女性に深い同情を抱く女性も同じくらいに多いのではないだろうか。私が思うにこの女性、夫に対する愛情と同じくらいの量の愛情をanegoに抱いていたような気がする。でも、この強烈な愛情と体ごとゆだねてくる重さは、anegoタイプにとってみればうっとうしい。それでもanegoは、頼られればすげなくできないのだ。
女性のタイプとしては対極にあるanegoタイプと絵里子タイプ。ほとんどの人はその中間のどちらか側に位置しているのではないかと思う。そして、自分は絵里子系と思っている人の場合、自分よりさらに絵里子系の人が現れれば、かなりうっとうしいと思い、ますますanegoにあこがれる。逆に、anego系からすれば、絵里子系の女性がうらやましくて仕方がない。
自分もそうなれたらどんなにいいだろうと思っているanego系はとっても多いような気がする。

余談だが、あるMLで一時姉御と呼ばれたことがある。ただ単に苗字が怖いからという理由で、本人がそういうタイプでないことは百も承知での呼び方だった。即座に「やめてくださいよぉ」って書くべきだと思ったにもかかわらず、私は嬉しくてそのままにしてしまった。


その171(2003.12.7)リファレンス 

フリーで仕事を始めてから、「アレ、こんなことも知らなかったの? 私」ということがポコポコと出てくるようになった。印刷関係の仕事を始めてからもう10年以上も経っているというのに…。
一口に印刷物といっても、その分野は多種多彩。その会社によって得意な分野は異なってくる。10年勤めた写植の会社は漫画や金融関係の参考書、配布物などが中心だったが、今やっている仕事はデータベースを使うものと、学術物だ。
データベースの方はこれから得意分野にしていこうと思っているのでその周辺の情報をいろいろ勉強中だが、問題は学術物だ。何しろ今までその分野はほとんどやっていなかったため、知識としては知っていたはずのことも、いざというときに出てこない。ちょっとした校正記号なども、それまでの仕事では使わなかったものが出てくるので、知っていたはずでもそれを校正記号と認識しないということが起こる。初めて学術物の仕事をしたときにこれで大恥をかいた。また、電算写植時代は写研のファンクション(詳しくはお仕事体験記の電算写植の項目を参照)のリファレンスを読んだり、必要なときに辞書のように引いていたが、その時、罫線の太さをミリでなく、呼び名と番号で覚えていたため、そのリファレンスが手元になくなったときに、困ってしまったというのもあった。さすがに今はわかるけど(わからないと仕事にならない)、もう情けないったらない。

ということで、ここらあたりで基礎固めをしようと思い、講座を2つほど受けることにした。いずれも手元にある参考書で済むことや、すでにある程度実践していることではあるのだが、他の人の話も聞いてみたい。自分では気づかないうまい方法を使っているかもしれない。そういうのを吸収するために、そういう講座はあると思っている。また、この際に手元にある参考書、特に基本原則などが書かれているものを改めて読み直していこうと思い、実行している。

その中に、1991年に買った『標準編集必携』という冊子がある。この本は、この仕事を始めたときから常に手元にあるのだが、じっくり読んでいるはずなのに、罫線以外で恥をかいたのはここに書いてあることばかりなのだ。
1つの仕事を長く続けていくには、取りこぼしたり忘れたりしている基礎を時々見直してみることが必要なのかもしれない。

2003.12.18
きのう、講座に行ったら『標準編集必携』の第2版がついていた。著作権法も変わったし、内容もずいぶんと豊富になっている。ラッキー!