ラブレターズ

その130(2003.3.29)お仕事体験記10電算写植(その2)

その会社のメインの仕事は漫画だった。表紙が昔の映画ポスターのような、白黒写真に色づけしたような女性の写真を使っている漫画雑誌などをやっていた。その中の、特に吹き出しや目次、クロスワードなどだ。これを電算でできないかということで、まず吹き出しの効率的な作業手順を考えた。
吹き出しというのは、1行に複数の大きさの文字や書体を使う。そのとき使っていたソフトはノーファンクションが建前のソフトで、画面で処理するものだった。で、その書体の変更や文字の大きさの変更をいちいち画面でやっていたら、めちゃくちゃ時間がかかってしまった。手動機の人にも、「漫画になんでそんな時間がかかるの?」といわれる始末だ。
そんなとき、出版社時代に耳にしていたファンクションというものが、そのソフトで使えることに目をつけた。ファンクションというのは、ここから書体が変わるとか、文字の大きさが変わるなどの制御記号のようなものだ。他の機能をもつファンクションもあるが、ここでは主にこの2つの機能を使った。つまり、いちいち画面で書体などを変更するのではなく、あらかじめ文字入力中に変更してしまうのだ。
ただ正直にファンクションを入力していたのでは芸がない。書体が変わるのがわかっている記号、たとえば!や…などのところには自分でファンクションを入力するのではなく、sedに入れてもらうことにして、そのための処理を作った。つまり、!や…が来たら書体を変更し、それらの記号が終わったら書体を元に戻すという処理だ。
ルビ(ふりがな)の入力方法も簡素化した。ルビの機能はそのソフトにもあったが、漫画の場合はもともとの行送りが小さいので、標準的なルビの大きさや行送りでは他の行と重なってしまう。ということで、ルビはルビ行を作って打つことになっていた。そこで、ルビの入るところと、ルビ文字の前後、ルビ行から地の行に戻るところに記号を入力しておいて、後で一気に変換することにした。
吹き出しには、会話の部分、電話の相手の声の部分、ナレーションの部分など、それぞれ基本の書体や文字の大きさが異なったりする。それらの基本的なパターンごとの処理をsedで作った。つまり、入力する段階ではいちいち行送りいくつと考える必要をなくしたのだ。
この手順を作ったことで、吹き出しの処理時間は劇的に減った。手動機のスピードは簡単に追い越した。それまで手動機でやっていた仕事がどんどん電算に回ってくるようになった。


その129(2003.3.26)お仕事体験記9電算写植(その1) 

いよいよ景気が悪くなってきた。そろそろ正社員にということで、写植屋さんに入った。写植といのうは、印刷物を作るとき、1文字1文字文字盤から文字の写真をとる形で組んでいく方式だ。その会社ではそれまで手動の写植機を使ってきたが、投資信託の受益証券説明書などを作るために電算化したいということで、そのためのパソコンとソフトを導入したところだった。12月で、まだワープロインストラクターの仕事もしていたので、とりあえず1ヵ月アルバイトで、翌年1月から正社員ということで入社した。
募集職種はパソコンオペレーターとワープロオペレーターだった。電話での問い合わせのときに、ワープロの機種を聞いたら、こちらの都合に合わせるとのことだった。ワープロは入れてもらったが、結局パソコンをやることになった。
入社したとき、電算のために分室が用意されていた。そこにパソコン2台とプリンタ、それと大きな机が1つポツンと置かれていた。分室の人員は、電算担当の役員1人だった。その人はそれまでパソコンをさわったことがなく、パソコン教室に習いにいっていた。もう電算で仕事しなくてはならない状況なのだが、まだ準備ができないということで待ってもらっている状態だった。胃薬を飲んでいた。
とりあえず役員はその仕事のための雛型をせっせと作ることにした。その間、私はソフトの操作を覚えたり、漫画の仕事のやり方を研究していた。
投資信託の仕事はデータで入ってくる。大型コンピュータから出力された固定長(各データの長さが決まっていて、間はスペースで埋まっている)のデータを処理して、雛型に流し込む。
私が入社する前に、担当役員はその整理の仕方をパソコンの販売会社の人に教えてもらっていたが、それは置換を何度も繰り返すものだった。これでは1つのデータを処理するのに3時間くらいかかってしまう。ということでその役員はもう少し何とかならないかと言っていたところ、販売会社の人がsedというソフトを使って処理する方法を教えてくれた。基本的には置換なのだが、それを正規表現というものを使ってプログラムのように処理できるものだ。sedについてはその96共同作業にも書いてある。その方は役員にその人が作った受益証券用の処理の使い方を、私にsed本体の説明をしていった。
早速私はsedやその他の便利なツールが収録されているMS-DOS Softwere Toolsという本を買ってもらって勉強をはじめ、いくつか簡単な処理を作った。この頃もう1人新人が入り、その子は多少経験があったので、私の作った処理を雛型に、ワープロで入力したものを変換する処理を作った。こうして電算部隊は始動した。


その128(2003.3.14)お仕事体験記8データ入力 

生保の仕事が契約終了になった後、インストラクターの仕事はそのまま続けて、あとは単発のワープロの仕事などをして、いよいよ正社員として働く先を探す準備に入った。ここですぐ正社員の口を探しても良かったのだが、もう少し経験を積みたかった。
その中で、データ入力の仕事が2件あった。1つはホームセンターというのか、郊外型の大きな雑貨屋さんで、定期的にデータを集中入力するのに派遣社員を2日ほど雇うということで回ってきた。その1日目が私にあてがわれたわけだが、使うキーはほとんどテンキー。前にも書いたが、私はテンキーは得意だ。翌日の人の分まで食い込んで処理してしまった。担当社員は「こんなに速い人は初めてです」と言ってくれた。お世辞半分としても、ささやかな自信になった。
2つめは、はさみの製造販売をしている会社だ。はさみといっても、普段私たちが使っているような紙や布を切るはさみだけではない。「これがはさみ?」というようなものまで、実にたくさんの種類がある。そこで、その会社の各種商品管理や顧客の管理をするオリジナルシステムをソフト屋さんが入って作っていた。いよいよそこにデータを入力するというところで私に仕事が回ってきた。小規模な会社なので、パソコン1台で顧客管理、商品管理などをする。
初日にソフト屋さんがザッと説明して帰っていった。その後、はさみの会社の社長がシートに書いたデータを私がせっせと入力していった。システムはまだ未完成の状態で、リンクがつながっているところもあれば、つながっていないところもあった。入力しながらそのソフトの中をあちこちを探検した。社長は日常業務に加えてシート記入の作業をしなくてはならない。入力は進むが肝心のシートが追いつかないため、予定日数をオーバーした。ソフト屋さんから私に電話が入り、叱られたが、すかさず社長が出て説明してくれた。
この会社では随分よくしてもらった。時間が空いたときには、工場に行って、作業を見学させていただいた。とにかくアットホームな会社だった。で、いよいよ終わる日には、社長からそのソフトの使い方について説明を求められた。未完成のもので、私はただデータ入力のために雇われた者なのだが、わかる範囲で教えてくれとのこと。とりあえずリンクがつながっているところだけ説明した。ソフト屋さんとしては迷惑なことだろう。

このデータベースシステムの構築に立ち会えたことは、後にデータベース作成から組版、印刷まで持っていく仕事を受注するときに役立った。こういう発想は、組版畑でずっと来た人にはあまり理解されない。生保とはさみメーカーの仕事の経験、さらには出版社での営業事務の経験が、本や雑誌に書かせていただいたワークフローを発想させた。


その127(2003.3.13)お仕事体験記7生命保険会社窓口 

和食をやめたあと、都内の派遣会社に登録した。何が決め手でそこにしたか忘れたが、実際に仕事を紹介されてみると、どうも私の家からは遠いところに強いようだった。2社くらいごめんなさいして、来たのが地元。これは近い。しかも条件がいい。ここを断ったら仕事が来なくなるのではないかと不安になった。本当はワープロオペレーターの仕事がほしかったのだが、受けることにした。
この仕事は朝10時から午後4時まで。ワープロインストラクターのアルバイトも、夜の時間に変更して続けた。

職場は、イベントスペースも兼ねたしゃれたところだった。そこのお手続きコーナーで、契約者の満期や貸付、解約などの手続きをした。窓口に出ているのはいずれも派遣社員。私以外は元社員で結婚退職した人たちだ。後ろに控えている内勤の社員や、先輩派遣社員にいろいろ教えてもらいながら仕事をした。保険の知識は全くなかったが、お客さんがいないときなどはマニュアル等を片端から読み、よく勉強した。おかげでかなり詳しくなった。
時はバブル。イベントスペースには株をやっている女優などが来て、講演していった。仕事をしながら生で芸能人や作家を見ることができた。また、仕事で知識が増えていくにつれて、自分でもちょっと体験してみたいと思うようになり、隣にあった証券会社で投資信託などを購入したりした。この投資信託は、バブルがはじけたときに解約した。元本割れを起こしていたが、マサノリの「それ、もうだめだよ」の意見に従った。おかげで最小限の損失で済んだ。こういうときのマサノリの言葉は頼りになる。
利益を出したものもあった。金利は1週間ごとに改定されるが預けるときの金利で固定という安全型商品だ。長期金利に連動するものだが、毎週ボンボン上がっていた。まあ、金額も少ないし預ける期間も短いので、そうたいしたこともないのだが、ささやかにバブルを味わった。

また、この仕事をしていると、お客さんの人生も垣間見える。学資保険など、保険証券に両親の離婚やその他諸々の状況が痕跡を残す。
お父さんと、とてもかわいい男の子が何度か来たことがあった。笑わない子だった。離婚を考えているということだった。しばらくして、再びその親子が来た。離婚しないことになったそうだ。男の子はまだ笑わなかったが、お父さんはうれしそうだった。私もうれしくなってしまった。

結局この仕事は半年契約で2期勤めた。この間に結婚もした。3期目も本当は続けたかったが、やはりワープロを使う仕事をしたかったので、そこでストップということにした。やめるときはバブルがはじけかけていたときだった。変額保険の解約がそろそろ始まっていた。この仕事をしたおかげで景気の動向はつぶさにわかった。
この会社は私の職歴の中で唯一の大企業だった。端末を扱ったことで、コンピュータシステムの仕事の流れを頭に描くことができた。このことはその後の仕事に大いに役立った。さらに、後に勤めた会社では投資信託の受益証券説明書も作っていたが、このときの経験がとても役に立った。

笑ってしまったのが、体重がどんどん増えていったこと。制服も、ダンボールの中からなるべく大きいものを見つけては変えていった。あるとき、ちょっとした動作の弾みにスカートのカギホックが切れてしまった。糸が切れたのではない。糸は何度も切れたので、かなり頑丈に縫い付けていたが、あまりの圧力に耐えかねて、ついに金具が切れてしまったのだ。もう笑うしかなかった。
悲しかったのは、ホテルと近すぎたこと。これも迷った理由の1つだった。ある日、恐れていたことが起きた。知っている人が1人、貸付にみえたのだ。お互いに下を向いてしまった。


その126(2003.3.12)お仕事体験記6ワープロインストラクター 

和食に配置換えになる2ヵ月前、ワープロ検定3級を受験した。この受験によりワープロ教室はいったん終わったので(2級も挑戦したかったが、会場が別になるということで、とりあえずやめておいた。後に取得。)、別の教室でパソコンの基礎を習った。一太郎基礎とMS-DOSの基礎あわせて10時間。マンツーマンの教室だったので、進み具合によって自由に組み合わせることが可能だったのだ。MS-DOSはその後大いに役立った。
パソコンを習ったとき、アンケートで仕事を紹介してよいかという項目があったのでOKにしておいたら、後でワープロのインストラクターにならないかと連絡が入った。その教室ではOASYSというワープロも教えていた。習ったワープロは書院。OASYSと書院では方式が全く違う。OASYSは上書きが標準だが、書院は挿入が標準。OASYSは罫線も文字も同じ画面で入力するが、書院は罫線画面と文字画面は別だ。当時私はOASYSは一度もさわったことがなかった。でも、OKしてしまった。とにかくワープロの仕事がしたかったのだ。
少しの講習の後、いきなり教えた。上に書いたように、設計思想は全く違うのだが、どちらにしてもコンピュータの一種だ。何とかなるだろうと思った。マンツーマンで教えるので、生徒と一緒に自分も上達していった。でも、そんなことは知らない生徒は気の毒だった。教え方は、今思うとあまり上手ではなかったと思う。生徒がどこで躓くかはよく分かっていたので、そのあたりでフォローを入れることはできたから、当時はまあ出来ていると思っていたが、生徒との距離の取り方はあまりうまくなかったように思う。

この仕事は和食ウエイトレスを始める頃から始めた。午前中9時から12時まではインストラクター、午後2時から和食ウエイトレスというスケジュールになった。どちらの職場も駅のそばでとても近かった。なので、午前中の仕事が終わったらどこかでお昼を食べながらお勉強。で、2時からはウエイトレスだ。つまり、125で書いたスケジュールに12時の昼食が加わる。4時からの夕食はちっともうれしくなかった。