ラブレターズ

その125(2003.3.11)お仕事体験記5和食ウエイトレス

洗い場をはじめたときは、アルバイト用のロッカーを使っていた。途中で責任者の奥さん(外国人で、一緒に働いていた)が出産で国に帰ったため、その間、その人のロッカーを使わせていただくことになった。

奥さんが復帰するとき、私は洗い場から和食ウエイトレスに配置換えになった。時給は1.5倍になり、時間も毎日午後2時からラスト10時~片付けまでということで、規則的な生活になった。

女子休憩室には畳がある。和食のウエイトレスは、そこに各自の箱を用意して、そこで着替えることになっている。昼メロを見ながら着物を着て、昼メロが終わった時点でいざ出陣だ。
当時やっていたのが、速水亮と手塚理美が出演していた『華の別れ』。主題歌『冬の旅人』が印象に残っているのだけど、今調べたら久石譲作曲で自ら歌っていたらしい。あの声がそうだったのかと思うと新鮮な驚きを感じる。
ウエイトレスはほとんど二十歳くらい。後は私より少し年上のアルバイトの人と超ベテランの配膳会からの仲居さんと女性チーフ2人だった。
初めてすき焼きを焼いたとき、煙をもくもく発生させてしまった。私は一応配膳会から派遣されているわけで、基本的にはプロの扱いだ。でも、仕事は完全に素人。そのあたりで、初めのうち少しつらい思いをした。でも、配膳会の超ベテランさんが動いてくださり、すぐに快適な状態になった。何がどうしたのか、未だに謎だ。こういうベテランが1人いると、職場は締まる。
そんなわけで順調に仕事をさせていただいた。ただ、2時に入って、3時から休憩、4時夕食、10時30分賄いというトンデモなスケジュールだったので、これが後の体重増加の土台になった。

そうやって仕事に慣れていくうちに、だんだん私の中にあせりが出てきた。もともとアルバイトのつもりで入った配膳会。このままずっと配膳の仕事をしていくのは本意ではない。随分良くしていただいたのに心苦しかったが、意を決してやめることにした。洗い場半年、和食3ヵ月だった。意志を表明したときは、ベテランさんに残念がられたが、それでも、やめるときには和食の人たち、洗い場のおばさんたちそれぞれいろいろ心遣いをしてくださった。
思えば素直で無防備だった分、周りの人たちが一生懸命護ってくださったような気がする。


その124(2003.3.8)お仕事体験記4宴会洗い場 

出版社を退職後、とりあえずワープロを習いたい。この際運転免許も取りたいということで、ワープロ教室と自動車教習所に行くことにした。で、とにかく稼がねばということで、その間ホテルで皿洗いをすることにした。
入ったところは配膳会という、ウエイターやウエイトレス、洗い場などの人員の派遣会社だ。つまり、いきなりプロとして派遣される。でも、洗い場は配膳会に任されていたため、見習のような私でも入ることができた。
とにかく一生懸命働いた。体を動かして働くということは、疲れ=体の疲れということで、これは精神的にとても良かった。この仕事をしていたときは、スポーツクラブを必要としなかった。出版社に勤めていたころは、近くにあったスポーツクラブをよく眺めていたのに。もっとも、出版社時代から続けていたテニススクールは、この間も続けていた。
宴会ということで、仕事は土日に集中する。でも、私は学生ではなかったので、平日も優先して入れてもらえた。私のような年齢の人がいなかったので、洗い場を仕切る人にとって好都合だったらしい。私に、洗い場を仕切る訓練をしてくれた。銀食器を磨きながら、他の人々の働く様子をしっかり見ていることとか。どうしても磨くことに集中してしまう私はよく叱られた。「あいつはどこ行った」とか。

洗い場には外国人労働者もいた。ある日の夜、私をリーダーにして、あとは外国人労働者だけで12時まで仕事した日があった。それまでいろいろ訓練をした上でだ。でも、仕事が終わったあと、ホテルの社員の人にタイムカードを持っていったとき、驚かれてしまった。結局、洗い場の責任者は翌日こってりと叱られることになった。つまり、若い女の子を夜中まで働かせて、何か事故があったらどうする気だということだ。まことにもっともな意見だ。
洗い場責任者は外国人労働者の私生活から何から面倒を見ていたので、その点は心配はなかったが、そんなことは一般には通用しない。もっと問題だったのは、仕事が終わって家まで帰る道のことだ。どうするつもりだったのだといわれれば、何もいえなかったに違いない。
確かに軽率だったかもしれないが、そこまで信頼してくれたことに私は感謝した。
よく、一緒に働いているおばさんに「そこまで馬鹿になって働けるというのはいいことよね」 などといわれたが、なんで馬鹿と言われるのか、当時はわからなかった。でも、変に裏をかんぐったりするよりも、ただひたすら体を動かして働くことが、当時の私にはとても重要なことだったように思う。おかげで、周囲の人たちに随分かわいがられた。製菓職人(パティシエ)の部屋に行くと、「まあまあ、これ食べてけ」とか言って、ケーキをもらったりした。
製菓職人といえば、テニススクールのコーチとメンバーで繁華街に飲みに行ったとき、この人たちに声をかけられた。そばにいたコーチが思わず私の腕をつかんだ。つまりやくざに見えたのだ。確かに料理人が団体で歩いていると、危ない人たちにみえる。男性だけの職場の人たちって、どうしてもそういう雰囲気がただよってしまうのだろうか。本当はケーキを作っているやさしい人たちなのにね(^^)

そうそう。中国人留学生が1人いた。上海の女性だったが、この人と一度お茶したことがある。日本語は少ししかしゃべれないし、私も中国語はわからないので、主にメモ帳を使った筆談で。そのときに、月餅はお月見のときに食べるのだとか、餃子はお正月に食べるのだとか、それまで知らなかったことを教えてもらった。その他には、本当はマクドナルドとかで売り子をやりたかったのだが、どこ行っても採用してもらえなかったことを彼女はしきりにボヤいていた。


その123(2003.3.4)お仕事体験記3出版社 

その120で書いた出版社だ。
まず営業事務兼庶務で入社、全国のNTTから来る注文を電話で受けて処理するのが主な仕事だった。
電話の応対については、さすがNTT相手の会社だけあって、かなり厳しかった。私の実家には当時電話がなく、電話そのものに慣れていなかった。電話を受けている間にいろいろ注意されて、かなりパニクった。また、伝票処理をしながら、電話をとって、注文を聞いて、計算をしてという作業にもパニクった。そのうちに、右肩に電話、右手で電卓左手で記入というパターンを確立したが、これも相手にしてみれば失礼だ。電話というのは、相手がどういう状態で取っているかわかるものだ。また、取り次ぐときも、電話を耳から離したとたん、誰だったか忘れてしまったり、まあひどいものだった。
忙しいときは、顔に「忙しい」というマークをつけていた。精神的に余裕がないと、複数の仕事を一度にすることはできない。逆に今、忙しくても周りにはわからないというのはこのときの反動かもしれない。
でも、工夫したこともあった。取次店から来る短冊、つまり書店からの書籍の注文票の処理を担当したときだ。ときどき書店からあれはどうなったかという電話がきたが、私が担当になったときは、そのフォローはできなかった。で、短冊を毎日1日分ごとにコピーして対応するようにした。
その後、編集に異動した。こちらでは原稿整理や校正などをした。このとき先輩社員に教えていただいたことは、今でも役に立っている。おかげでワープロ検定の筆記試験は落としたことがない。
このころは、写植、タイプ、電算写植、ワープロなど、活版以外の方式が次々出ていた頃だ。ワープロで組版して、それを最後に変換して電子組版機や電算写植機から出力するという方式のものもあった。これは校正段階ではもろワープロで、とりあえず文字校正だけというような感じだった。でも、そんな変化になれていない校正者は、ここは3ミリ空けとか、細かく指示を出す。ワープロ屋さんの営業マンが現場から聞いたことをいろいろ説明するが、通じない。よく外を回っている編集者は好奇心が強く、そのあたりはよく分かっているようだったが、外に出ず、中だけで仕事している者には全く理解できないものだった。それぞれの役割の間でコミュニケーションが取れないというのは、今もあちこちで起こっている問題だ。この経験は、後に写植屋に入ったときにとても役立った。編集でも、校正の通信講座くらいしか受けたことがないため即戦力にならず、すっかり自信をなくしていた私が立ち直るための大きな土台になった。
出張校正も行った。そのワープロ屋さんだ。忙しく働く人たちを見て、その大変さに、私は組版の仕事でなくてよかったと思ったりした。なのに、今は組版をしていると思うと面白い。

2003.4.28
片付けをしていたら、本の間からこの頃会社の若手だけで行ったキャンプのしおりが出てきた。
今見てみると、随分と楽しそうな企画が書いてある。
バンガロー内スケジュールと銘打ったその内容は、
・連想ゲーム
・フィーリングカップルご対面
・トランプゲーム大会
・愛情物々交換
・その他
企画した人は、今の私の年齢くらい。結局夜はあまり騒げないということで、ほとんどの余興はできなかったが、このようなゲームがもし行われていたら、随分年齢の垣根が取り払われただろう。
それにしても当時の上司たちの年齢の若いこと。20歳から見る30代、40代と、30代40代から見る20歳というのは相当ギャップがあるということを実感した。


その122(2003.2.28)お仕事体験記2レジ 

1年間の新聞配達の結果、両親の許可も出て、短大も無事合格。で、長野に行った。なぜ長野かというと、公立の短大で国文があるのは山梨と長野くらいだったから。授業料、安かったわよ(^^)
それでも、奨学金は入学してから申請したので、最初に受け取るまでにはまだ時間がかかったし、仕送り月2万ではやっていけないのでアルバイトをすることにした。尤も(もっとも)、お金があったとしてもアルバイトはしたと思うけど(^^;
で、まず最初にレジの打ち方の特訓。当時はバーコードなどというものはなかったので、全部手で打っていた。147の列は人差し指、258の列は中指、369の列は薬指などと、親切に教えてもらった。金額を入力してから商品の分類を入力する(逆だったかな?忘れた)。特急レジなどというのもあったけど、機械が早いわけではなく、レジの人が早いというやつで、これはもう職人技だ。このおかげでテンキーは今でも得意。後々の仕事で大いに役立った。
このアルバイトは、待望の奨学金が入るようになったのをきっかけにやめた。せっかく仕事になれてきたところだったのだが、夢中になってしまったことがあったため、アルバイトどころではなくなったというのが実情だ。他のメンバーもやめてしまったし。以後短大時代にアルバイトはしていない。それでも、新聞配達でためたお金と、レジでためたお金、仕送り、奨学金で楽に過ごせた。何しろ、寮費が月2万円で、洋服はほとんどいとこのお下がりを着ていたので、これで十分だったのだ。でも、さすがにスキーは無理で、せっかく長野に2年間もいたのに、その間、親戚のペンションで一度だけ何から何まで借りてやってみただけで、あとは全くやらなかった。

そうそう。寮といえば、短大の寮は自治寮といって、学生だけで運営していた。食事は平日の昼と夜は近所の割烹屋さんが作りにきてくれた。食物科の人たちは実習があるため、食事をとれないことが多い。そのため、その人たちには食事がいらない日にチェックを入れてもらって返金するようにしていた。ただ、あまりに返金が多いと食事を作る元手が減るので、メニューが情けなくなることもあった。平日の朝はパンと牛乳、土日は自炊だった。なので、今でも鍋でご飯を炊ける。
寮ではお風呂のボイラーをつけることから赤電話、ピンク電話のお金の管理まで、何でも寮生自身でやっていたため、これはまたいい社会勉強になった。
寮の思い出の中で、傑作は寮祭。寮祭の宣伝のためと称して夜に善光寺通りを仮装行列したっけ。長野は門前町だから夜8時になると店が閉まってしまう。そんな中で、大きな声を出しながら行進していた。ゴールはアルバイトしていたスーパーの前の広場。ここでなぜか「はないちもんめ」をして帰ってきた。


その121(2003.2.27)お仕事体験記1新聞配達 

ここ2回ほど仕事のことを書いていたら、私って結構いろいろな仕事をしてきたんだなということを思い出した。ということで、アルバイト、派遣、正社員含めて、それらの仕事を時系列に振り返ってみようと思う。
まずは新聞配達。このアルバイトをしたのは、その110でも書いているが、高校3年生のときだった。当時、我が家は経済的にとても苦しかった。進学するような状況ではなかった。ならば自分で稼ぐということで、始めたのが新聞配達だった。
最初に飛び込んだ販売店では、思い切りゲラゲラ笑われた。まあ、高校の制服を着た、髪の長い女の子がいきなり雇ってくださいと来たのだから、無理もないかもしれない。で、あそこなら雇ってくれるかもと紹介されたのが、私が働いた販売店だった。
この販売店は、随分ボランティア的な経営をしていたと思う。いろいろな事情を抱えた人を住み込みで雇い、私のようなほとんど戦力にならないような子もその場で雇うのだから。
で、次の日から早速仕事なのだが、1人おじさんがついてくれて、最初の1週間一緒に配ってくれた。驚いたのは、1つの販売店で、いろいろな新聞を配っていることだ。一般紙の大きなところは決まっているが、その他は、日経新聞、スポーツ新聞、流通新聞、産業新聞など、実にバラエティに富んでいた。最初、1軒で何種類も取る家があることが信じられずに、あれだけ教えてもらったのに、片方しか入れなかったことがあった。当然苦情があったらしく、おじさんに注意された。でも、決して怒らない。
このおじさんがまた親切だった。朝、私が来るまでに、自転車に一揃え積んでおいてくれるのだ。順番に取れば、間違えずに配れるようにと、細かな心配りがしてあった。だから私は家から華奢な自転車をこいできて、販売店で、準備のすっかり整った頑丈な自転車に乗り換え、無理のない件数を配って、また華奢な自転車で家に帰るという、至れり尽せりのアルバイト生活だった。
それでも、冬はつらかった。軍手を2枚重ねてしないと、手がかじかんですごく痛くなる。あまりの痛さに涙が出るほどだ。雨もきつかった。新聞が濡れないように、これまたおじさんがビニールをかけてくれたのだが、新聞を落としてしまうと、もう使い物にならない。でも、体については専用のカッパを作業着専門店で買って着たら、本当に濡れなくて、あれはすごかったな。ゴムのにおいが玉に瑕だったけど。あと、雪。これはもう自転車はこげないので、ひたすら押して歩いた。バイクで配るおじさんも、派手に転んでいた。
店主にはよく勉強の仕方を教えてもらった。日経新聞の読み方の小冊子をくれたり、天声人語を使った勉強の仕方を教えてくれた。日経新聞の小冊子は政治経済の授業で随分役立ったし、天声人語のスクラップは受験勉強に役立った。

販売店には、新聞奨学生もいた。長崎から出てきた人だったが、この人とは2回ほどデートしたな。以前友達と入って気に入ったスパゲティの店に一緒に行ったら、彼、顔を真っ赤にしてもじもじ。何かと思ったら「女の子ばっかり…」なんてこともあった。結局ぎこちないまま自然消滅してしまった。高校3年生でもまだお付き合いするということがピンとこない私だった。