ラブレターズ

その475(2011.10.29)『春琴抄』―主役を支配する存在―

『葵の女―川田順自叙伝』の続きを書くつもりでいたが、その間に『春琴抄』の私の中での解釈に進展があり、それを突き詰めていたら1ヵ月以上経ってしまった。まだ最終的な詰めまでは行っていないが、その構造についてはある程度見えてきたので、とりあえずそれを書いてみたいと思う。『葵の女―川田順自叙伝』については第2回で『幼少時代』との絡みを書くつもりでいるが、これについても少し進展があった。特に「おふく」さんと「おきん」さんという名前について。「おふく」さんは言わずと知れた谷崎の初恋の人だが、谷崎の友人の証言や中河与一著『探美の夜』などを読むと、どうも途中からの谷崎の態度が冷たすぎる。その謎が見えたような気がした。『探美の夜』のおふくさんは2名のおふくさんを意図的につなげたのかもしれない。

おっと、続きはまた後日ということで、今回は『春琴抄』ね(^^)

前回の日記以降、ツイッターに延々と『春琴抄』についてつぶやいていた。つぶやきながら、調べたサイトをはてなブックマークに上げていった。まずはそれらを見ていただきたい。

お湯かけ事件の展開に直接つながる菊池寛『下郎元右衛門―敵討天下茶屋』-陰陽師的日常という記事を発見して、菊池寛著『仇討小説全集』の該当小説を読む等、大きな発見はさまざまあったが、ターニングポイントは、春琴が時々「顔色」を変えることに気づいたことだった。ツイッターでは2回と書いているが、実際はもう少し頻繁に顔色を変えている。この「顔色を変える存在」がすべての悲劇の元だった。

そこで、顔色を変えたシーンをいくつか挙げてみる。

これらの顔色は、いずれも春琴に憑依する存在によるものだ。

顔色については、あらかじめ伏線がしっかり張ってある。当時の旧家に育った男女の見た目について論じた部分だ。若い男女のことを論じているようにみせて、実は若い人と中年以降の顔色の違いをあらかじめ読者に示しているのだ。

その時ふと疑問に思ったのが、梅見の宴の時、佐助はあれだけちょいちょいお酒を注がれながら、別室で食事をして、食後も呼ばれるまでのつもりで待っていたことだった。書かれ方から言って、どう見ても春琴が狙われているとしか思えないではないか。それなのに佐助はのんびりと待っていたのだ。これはおかしい。

ここで菊池寛の作品が生きてくる。つまり、佐助はお酒を飲みすぎてしまったのだ。ただ、春琴がセクハラされたというのは違うと思う。佐助が「顔色でそれと悟った」のは、佐助が来るのが遅いので、少し離れていた「春琴に憑依する存在」が慌てて止めたのだ(逆に言えば、佐助を支配する存在は、利太郎が春琴を連れて行くことを望んでいたと考えられる)。

私の考えでは、鵙屋時代の春琴には春松検校他が、佐助には「一番下の妹の乳母」他が憑いていたのではないかと思う。それらの組み合わせが流動的に推移しながら、梅見の宴からお湯かけ事件で大きく変わるのだ。

その流れをつかむのに決定的だったのが、船場の御霊神社を見つけたことだ。佐助が失明した時、春琴に対して「御霊様に祈願をかけて朝夕拝んでいた効があった」と説明していたところから見つかったのだが、『夢の浮橋』にしても『瘋癲老人日記』にしても、大黒様と恵比寿様系統が、最後に天児屋命と一体化して終わる。この境内の図を見れば、誰が東宮かすぐにわかる。梅見の宴の総大将は東宮だ。また、「末社」には松ノ木神社と大黒社がある。この写真を見れば、その意味が一目でわかるだろう。春琴と佐助の墓のつりあいと同じなのだ。さらによく見ると、「文学」というところにしっかりと「春琴抄」と書いてあるではないか。このサイトを見つけた時は本当に嬉しかった。つまり、梅見の宴では、東宮が末社を引き連れて春琴の手を引きに来たのだ。

「鵙屋春琴伝」には、春琴が「一番下の妹の乳母」に故意に失明させられ、佐助は「偶然」(佐助が春琴に言うには「御霊様に祈願をかけて」)見えなくなったと書かれている。この小説の登場人物にとって、自然に眼が見えなくなるのと、故意に見えなくするのでは価値が大きく異なるのだ(とはいえ、当時の佐助の中身と針箱の持ち主を考えると、佐助の「祈願の功があった」と言うのもまるきりの嘘とも言えないかもしれない)。私が読んだ限り、今のところ「自然に」眼が見えなくなったとはっきり言えるのは、鴫沢てる勾当だけだ。この人の眼が見えなくなったのは、たぶん雲雀が飛んで行ったまま帰らなくなった翌月、7月の24日だと思う。このあたりは『古事記』の記述を自分の誕生日と重ねたと思われる。『古事記』は谷崎の一連の作品を通して影響を与えていると思われるので、青空文庫の現代語訳古事記をあらためてじっくり読んでいる。

その474(2011.09.21)『葵の女―川田順自叙伝』(1)

最近、私の中で、谷崎文学の特に『蘆刈』以降の作品に一番影響した人物として川田順が浮かんできた。そこで、以前から気になっていた『葵の女―川田順自叙伝』をようやく入手して読んだ。

読み始めてすぐに興奮。特に『春琴抄』『幼少時代』『夢の浮橋』については、その元ネタの1つとして貴重な資料と思われる。さらに、関西移住後だけではなく、実は大正初期の一連の作品(初子、お須賀物ともいうべき作品群)もこの人の影響を受けていたのではないかと思われる。それについてはからくりがありそうなので後で書く。

とりあえず各作品への影響についてだが、とにかく大正初期と『蘆刈』以降はほとんど影響していると言っていいと思う。その中で、先に挙げた3作品について特に書いてみたいと思う。

『春琴抄』

川田順の母について、川田順の父である川田甕江の世話になる前は随分と苦労したらしいということで、そのことを伯母に聞いたところ、次のような問答になった。

「言はばあなたのお祖母さんが苦勞させたやうなものなんです。かう言つてはすみませんが、娘の器量のいいのが自慢で、嫁入先へ行つてはずゐぶん無理を並べたと聞いてゐます。はじめは藏前の有名な太物問屋、さんさくと云ふ家へかたづけたんですが、いくらも經たないうちに取戻して、今度は芝の大きなお風呂屋さんへ嫁にやつたんです」「風呂やといふと錢湯のことですか? ひどいですな」「さうぢやないのよ。順さんも江戸のことがわからなくりましたね。風呂屋といつたつて同業の元締めで、それはたいした身代のものなんでしたよ。それを又もお祖母さんが不縁にして、あなたのお父さまのお世話になるやうな筋道になつたんです」「それぢやボクの母は人形みたいなものですね」「さやうさ。本當におとなしい人で、右といへば右、左といへば左、半日でも一日でも、いはれた方を向いて坐ってる人でしたよ。可哀さうなものさ。さんさくの奥さんで収まつてゐたら、どんなに仕合せだつたらうと思ひますね」

これには自分の出生を否定されたようで川田順は面白くなかったようだが、帰宅後書庫の抽斗から罫紙に書かれた一篇の漢文を読み返す。それは川田順の父の依頼によつて依田學海という人が起草したもので「川田少房本多氏墓碣銘」と題してある。その一部。

「姫父曰清助。母大野氏。世以商出入柳川侯邸。購辨市場。家頗富。然性好靜不喜豪華。初帰一富商。其人極俗。姫怏怏不樂。遂求離別。時父資産落。利其容色。欲更嫁大腹。姫不肯曰。寧爲名士妾。不願爲俗人妻。乃帰甕江。姫清痩而白皙。素粧澹泊」「素拙於治生。偶有所得。父母兄弟隨而持去。不毫吝惜」「明治廿六年三月一日歿。享年三十七。越三日。葬東京吉祥寺側。乃川田氏之塋域也。姫以可瞑矣」

伯母の証言と墓碣銘に書いてあることでは話が全く異なる。

さらに、伯母の証言によれば猛烈母に苦しめられた可哀想な娘であること(症例としては「一卵性母娘」)、亡くなった年齢が春琴がお湯をかけられた時と同じことから、『春琴抄』の母子の最有力モデルと思われる。「川田少房本多氏墓碣銘」はそのまま「鵙屋春琴伝」の元と考えていいだろう(特に文字を大きくした部分)。

ただし、川田順が伯母の証言を聞いたのは昭和14年のこと。『春琴抄』はそれより前に書かれているので、記述と証言の食い違いについてはまだ発生していなかった。ただ、記述の方を見ただけでも、「んー」と思うところはあるので、その信頼性については何か思うところがあったかもしれない(その証言が記述の一部分の正しさを証明すると考えることもできるけれども)。

一卵性母娘の症例としては、『春琴抄』を書く際に参考にしたと思われるスタンダール著『カストロの尼』が思い浮かぶ。さらに、『春琴抄』執筆前後からの観察の対象として、谷崎のお気に入りの女優である高峰秀子母娘がいたのではないかと想像する(高峰秀子著『わたしの渡世日記』を読むと、彼女が明らかに自らを春琴に重ねているのがわかる)。

さらに、もう一人のモデルとして、川田順の長姉に「琴子」さんという方がいらっしゃる。この人の夫は三郊杉山令吉という人だそうだが、この方は「お琴、お琴」と妻を大切にしながら、結婚前に秘密の女性があって、子供もいたそうだ。このあたりも『春琴抄』に埋め込まれているだろう。

ここでもう1つ、もっと重大なことに気づいた。

川田順の幼少期、お竹さんという方が川田順とその妹の面倒を見ていたそうだが、この方のお父様の亡くなり方が、谷崎の『幼少時代』の伯父の亡くなり方と酷似している。次に引用してみる。

お竹の父は或る年の六月の夜に千住大橋から落ちて溺死した。過失か、他殺かわからなかった。(中略)商賣は實直な兄が繼いでますます繁昌したけれども、(後略)

実は、この件については、父に失敗の責任を取らせることになった従兄の気持ちを考えると前々から不自然な感じを持っていたところに、谷崎の末弟である終平さんが『懐しき人々』で妙な書き方をしていることに最近気づいた。

それとなく、私の親父と別れの盃を交した伯父は、その夜伊豆行の船に乗って入水した。(次兄は三崎通いの船だと書いているが、訊そうにも、もう知っている人はいない。)長兄が小田原の旅館で仕事をしていてたまたま立ち会う事が出来たというが、足一本しか上らなかったが、それが佐野屋の足袋をはいていて、特別な小鉤だったので証拠となったと子供の折聞いたが本当だろうか。

その伯父は妻を非常に大切にしていたけれども、やはり愛人がいて、その娘も一人いたそうだ。大正4年8月ということで、一連のお須賀物が終わる頃にあたる。谷崎と川田順が初めて直接対面したのは昭和5年だったようだが(出典:高木治江著『谷崎家の思い出』。交友関係からみて、明治の末から大正初めには会っていてもおかしくないのだけれども。)早川の「かめや」に隠れ住んで作品を書いた時には、間接的な影響があったと思われる。

この事件も『春琴抄』に深く埋め込まれているように思う。大塩平八郎生存説や『カストロの尼』の恋人が生きていた件と絡めて。晩年に足を悪くして寝たきりになった伯母は明治34年に亡くなっている。もう隠居して、信用のない息子の代わりに弟を置いて遠隔指導することにしたと思うのは考えすぎか。眼ならぬ足を捧げ物にして。

『春琴抄』が長くなったので、他の作品についてはまた次の記事で書きたい。

その473(2011.09.07)鼻たれ天狗―『瘋癲老人日記』解釈の過程から―

都筑道夫という推理作家がいる。この人の作品に『鼻たれ天狗』というものがある。この作品には、『瘋癲老人日記』の入れ歯のシーンに引っかかって、それについて調べているうちに行き当たった。

それは、鼻が垂れ下がったというところに引っかかったことから始まった。『夢の浮橋』で、糺の父は賀茂建角身命になった。経緯はこちらをご覧いただくとして、この神様のお姿は天狗に似ている。つまり、鼻が垂れているということは、天狗の見習い、つまり、瘋癲老人は賀茂建角身命になるための見習い期間に入ったと解釈した。そこで「鼻たれ天狗」を検索した。そうしたら、都筑道夫という人の作品にぶつかったのだ。

冒頭のリンク先に全文が掲載されているが、なかなかエッチだ。だけれども、これが老人の入れ歯のシーンに実に見事に嵌まった。そのシーンの表す意味が、この作品によって鮮やかに浮かんできたのだ。このシーンでは、その前に何度か繰り返されるピンキースリラーどころではないことが起き、さらにそれだけでは済まない大きなことが起きている。『瘋癲老人日記』のクライマックスの1つだろう。

『鼻たれ天狗』は昭和57年の作品なので、もちろん谷崎がこの作品を意識したわけではないだろうけれども、この話は元々が民話のようなので、あるいはその民話の方を活用したのかもしれない。

ところが、話はこれで終わらなかった。谷崎終平著『懐しき人々―兄潤一郎とその周辺』を読み返したところ、冒頭近くの颯子に大坪砂男の要素(刀剣が大好きで、兎に角刃物に吸い寄せられる人で、婦人の着物や紳士のシャレた身の回廻りの品物の陳列窓は素通りできない)を見つけたのだ。そこで再び大坪砂男を調べたところ、「門人に都筑道夫がいる」と書いてあるではないか。で、都筑道夫を改めて調べたところ、なんと昭和4年7月6日に、現在の文京区関口にあたるところで生まれている。佐藤春夫のお膝元で、しかも昭和4年にだ。この時の私の興奮、わかるでしょ(^^)

そこで今、都筑道夫の自伝的エッセイである『推理作家の出来るまで』という本を読み始めているのだが、なんと、この人が生まれた頃、近くに渡辺温が住んでいたのだそうだ。渡辺温という人と谷崎との関わりについてはリンク先や谷崎の『春寒』(私はまだ通して読んでいないので、近いうちに読みたい)を読んでいただくとして、もう何というか、数珠繋ぎにいろいろ出てきたのだ。

ややっ! ということで、今度は高木治江著『谷崎家の思い出』を確認したところ、昭和4年の6月末に千代夫人の不在がほのめかされていた。その直前には千代夫人唯一の相聞歌や「坪田」という美男が来るという情報に反応する千代夫人の様子が書かれていたりもする。んー。終平さんは、千代夫人が2ヵ月くらいの子供を流産したと書いているけれども、果たしてどうだったのだろうか。流産しなかったと考えれば、大坪砂男との突然の破局、大坪砂男の突然の「女狂い」(兄弟の支援付き)の理由が見えてくる気がするのだけれども、それは今のところ私の想像でしかない。

昭和初年の岡本時代、谷崎の周囲では結構子供が生まれている。その中には「ねぬなはたた(て)じ」を実行していると思われるものもあるし、谷崎の妹の末さん(伊勢さんと合わせて『夢の浮橋』の第二の乳母のモデルと思われる。『瘋癲老人日記』では佐々木看護婦と油谷の奥さんにあたる。)の産んだ子は谷崎の弟である精二さんに引き取られている。となれば、『夢の浮橋』で無いことにされた年に沢子が産んだ子はどこにいるのか(菅原伝授手習鑑参照)。谷崎の作品には、想像以上に現実が埋め込まれているのだ。

そして今日、決定的とも思える情報を見つけた。都筑道夫の推理作家としてのデビュー作に『やぶにらみの時計』という作品があるのだが、この作品は昭和36年1月に中央公論社から出版されている。この作品では主人公を「きみ」と呼んでいる。颯子が「きみ」と呼ばれるのは「猿女君」の意味だろうけれども、ここにも理由があるとすれば、あの強調振りも納得できるような気がする(実は話の内容にも共通点がある)。『瘋癲老人日記』は同年8月から口述筆記開始。ここまで来れば、谷崎はこの師弟を意識して埋め込んでいると言っていいのではないだろうか。

となると、谷崎はなぜこの作品にこの師弟を埋め込んだかということになる。大坪砂男だけならばまだわかるけれども、都筑道夫が入る理由がない。『やぶにらみの時計』のトリックが『瘋癲老人日記』に活用できると思ったというだけではどうにも弱い。

実はもう1つ、『瘋癲老人日記』の舞台となっている老人の部屋や庭の四阿につながる、県犬飼橘三千代という歴史上の人物が浮かんでいるのだが、この人物に行き当たったのも、やはり高木治江著『谷崎家の思い出』からだった。これについてはまた後で書きたいと思う。

ということで、今回は『推理作家の出来るまで』の下巻をパラパラ見ていて見つけた一節を書いて締めたいと思う。家庭がうまくいかなくて悩んでいる知人に対して都筑道夫が「そんなにつらいのなら、奥さんと別れてしまえばいいじゃないですか」と言ったときの大坪砂男の言葉だ。

「きみ、そんな無責任なことを、いうもんじゃない。奥さんにも感情もあれば、意志もある。悩みもするんだ」
(中略)
大坪さんに、つよい調子で叱られたのは、あとにも先にもそのときだけだから、いまでも思い出す。

もう、誰を思い浮かべて言っているか、わかりすぎるほどわかるではないか。この一節を読んだとき、涙がブワッと膨らんできた。

その472(2011.08.11)第25回残月祭(3)

チェックインのときに朝食券を見たら、レストランの名前が「シャングリ・ラ」だった。たまたまだけれども、ユーミン絡みで嬉しかった。これをmixiで書いたら、すぐにホテルの名前がわかった人がいた。すごい。

部屋に入ってからは、購入した冊子を読みつつ、翌日にどこに行くか、どのルートで行くかシミュレーションした。本当だったら残月祭でもらった芦屋市谷崎潤一郎記念館の割引付きのパンフレットもあることだし、それがなかったとしても記念館は行きたかったのだけれども、月曜日は休み。他のどこに行くにも、月曜が休みのところは多い。これが土日にすれば良かったと書いた第一の理由(^^; なんというか、我ながら抜けている。

当日に行く場合、終わってからだと慌しすぎるから、やはり残月祭前日に宿に泊って記念館には午前中に行くとかした方がいいわね。次回もし行けたら、そのあたりをよく考えないと。

ということで、翌日は池田に行くことにした。

チェックアウト後、荷物を三宮駅のコインロッカーに入れ、いざ出発。前日の阪神沿線もそうだけれども、阪急沿線の駅も谷崎に縁がある名前が続く。このあたりをあちこちと転々としていたのね。

さて、池田に行くことはできたが、ここでも方向音痴を発揮して、本来の用事を何一つクリアすることができなかった。最初に呉服神社に行かずに、ひょうたん屋サイトの地図にある「呉春」を目指したことが敗因だ。しかもまたまた方向音痴で逆方向に行ってしまった。呉春株式会社の住所をいろいろな地図で検索してから行けば良かった。第一にその住所さえ勘違いしていたのが痛い(T_T)

迷子の末にお手洗いを借りた池田市教育研究所の方には大変ご迷惑をおかけしました。地図まで開いていただいて、本当にありがとうございました。

どうも私の中でそのあたりの情報がうまく整理できていなかったようだ。呉春はネットでも購入できるのだし、短い時間で『瘋癲老人日記』の旅をするのならば、池田よりも伊丹の方が良かったかもしれない。それにしたって、もう少し念入りにいろいろ調べてからでないとやはり厳しいな。

有馬道迷子をしているとき、興味深い看板を見つけた。有馬道(リンク先に掲載されている写真のあたりの一部を歩いた)だ。本当は、きつねがいるらしいとか書いてある看板の方が撮りたかったのだけれども、残念ながら撮影するのを忘れてしまった。

そんなこんなで時間が足りなくなってしまったので急いで三宮に戻ったが、三宮でゆっくりとお土産のお菓子を買う計画は崩れ去った。

仕方がないので通りすがりの店でワッフルを購入したけれども、大宮にもお店が出ているマネケンだった(^^; それでも、季節限定の夏みかんのワッフルは正解だったと思う。日持ちがしないので、これは自家用にしたけれども、名物スイーツにうるさい夫も満足したようだ。マネケンの1号店は大阪みたいだけれども、神戸のお菓子にしても、大体有名なメーカーが多いし、ということで、これこれではOKとしよう。

それにしても、関西はどこに行くにも便利だわね。次に行くときは、もっとしっかりと調べて行きたいと思う。谷崎作品ゆかりの場所はたくさんあるので、それはそれでまた迷うのだろうけれども、今回の旅行で谷崎がどのように住むところや取材先を広げていったかが、ざっくりと見えたので、それだけでも収穫だったと思う。

呉春は、帰宅後にネットで注文した。「特吟」は、ほんのり甘くて何だかチョコレートと合いそう(酔いそうなのでまだその組み合わせは試してないけど(^^;) 今回は奮発して「特吟」にしたけれども、次は普通酒を試してみようと思う(一升瓶だからいつのことかわからないけれども)。

その471(2011.08.08)第25回残月祭(2)

神戸には、残月祭当日に出かけていった。つまり、日~月という日程だ(土日にすれば良かったと少し後悔)。

芦屋市谷崎潤一郎記念館冊子新幹線と宿はネットで予約。時間はかなり余裕をみていたのだが、会場の芦屋ルナ・ホールに着いたのは開演間近、昼食をとる時間もなく入場、席についた。読みきれるはずのない本をいっぱい入れてきた荷物も、宿のある三宮のコインロッカーに入れてくればよかったものを、なぜか会場まで持ってきてしまった。そのため、「暑くない」という日であっても私は汗びっしょり(^^; 十分暑かった。芦屋の駅は、山側海側で見れば方向はすぐにわかるはずなのだけれども、そこに気づかず、日ごろの方向音痴を発揮して反対方向に行ってしまったのが敗因だ。

にしむら珈琲店ひざ掛けシンポジウムが終わった後、会場で『芦屋市谷崎潤一郎記念館 2008 谷崎潤一郎と画家たち~作品を彩る挿絵と装丁~』と『芦屋市谷崎潤一郎記念館 2009 谷崎潤一郎交友録』、それからにしむら珈琲店のひざ掛けの写真に写っている『倚松庵よ永遠なれ』を購入。それぞれに深い情報が掲載されているが、その中でも『芦屋市谷崎潤一郎記念館 2009 谷崎潤一郎交友録』に掲載されている、お須賀さんのお孫さんによる「谷崎潤一郎と祖母須賀」には感激した。お須賀さんの情報が読める。お須賀さんの写真が掲載されている。これまで谷崎の手紙や作品に仄見える情報でしか知らなかったお須賀さん。お須賀さんの、まるで抜け殻のような表情から目が離せない。写真で見るお須賀さんは、千代夫人や丁未子夫人とよく似ている。

ローゲンマイヤーのパンここに載っている情報から、千代夫人と結婚後の谷崎の行動の理由が見えてくるような気がする。特に和田六郎(後の大坪砂男)との件、作品としては『愛なき人々』や『蓼喰う虫』、それから『卍』等にお須賀さんとの恋愛の経緯や結末がかなり濃厚に反映されているように思う。谷崎は大坪砂男に、谷崎の従兄弟であるお須賀さんの夫を重ねて見ていたのではないだろうか。『紀伊国狐憑漆掻語』(中公文庫『聞書抄』にも収録されている)の狐からは、佐藤春夫の父がまず浮かぶけれども、お須賀さんの父や谷崎自身もそこに投影されているのかもしれない。

そうそう、倚松庵の間取りはお須賀さんの実家の間取りと似ているそうだ。

『芦屋市谷崎潤一郎記念館 2008 谷崎潤一郎と画家たち~作品を彩る挿絵と装丁~』の方では、中川修造の情報が興味深い。谷崎がこの人に肩入れしたのはその家柄も関係しているような気がするけれども、『黒白』や妹尾君子さん周りの情報は特に興味深い。中川修造に関する情報の他にも、この冊子には興味深い記事が目白押しだ。

西国街道まわり道会場を出てからはまずにしむら珈琲店芦屋店でハンバーグのセット(ふっくらしていておいしかった)をいただきながらゆっくり休憩し、宿での夕食用にローゲンマイヤーでパンを購入した。その後青木に寄って、駅から海へはどれくらいの距離なのか歩いてみたが、途中で写真のような立て札を発見。後で振り返ったり、何かの資料になるかもしれないので撮影し、三宮の宿に向かった。

また書ききれなかったので、宿に入ってから翌日のお話は次回に。

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