ラブレターズ

その445(2010.03.24)Y MODEコンサート映像オンデマンド配信(Bパターン最終日)

『夢の浮橋』については一休みして、随分日が経ってしまったが、苗場のコンサート最終日のオンデマンド配信について、記録に留めておこうと思う。

このオンデマンド映像は、友人開設のチャットルームで友人たちとチャットをしながら見た。一斉に時間を合わせて、後から入って来た人には今何分のところとか言って合わせながらワイワイとやるのは楽しい。

それにしてもさすが最終日、皆さん最初から立っていらっしゃる。チャットメンバーも当日その場にいたわけだが、その人たちの証言によると、リクエストコーナーくらいしか座っているときがなかったのこと。「さすがに足腰が…」などという声も出た。ファン仲間も一緒に年齢を重ねていくわけで、集まるとついそんな話が出てくる。

コンサート映像では、最初の衣装にぶら下がった金色の紐が話題に。この紐は、この衣装以外にも靴などいろいろなところに登場していた。

「ハートブレイク」の前のかほりんの語りでは、「やっぱりかほりんは色っぽい」との声が。バンドメンバーのお色気担当との声も挙がる。「甘い予感」や「告白」では、市川さんのタイツ姿が刺激的だった。

そしてリクエストコーナー。さすが最終日とあって、知り合いや顔を知っている方も登場。以下、例によって1組ずつ書いてみる。

まずは1組目は女性。とても落ち着いた感じの人だ。千葉の流山から来たとのこと。流山という地名に、「そういえば前にも」とユーミンが言うと、「夫です」との答え。何と、今年の苗場の初日と最終日のコンサート映像に、夫婦が一人ずつ登場することになったのだ。これにはユーミン、「じゃあ、いっかー」と言ったが、その時すでに武部さんの準備が完了。そのままリクエスト続行となった。本当にラッキーなご夫婦だ(^^)。

曲目は「ハートはもうつぶやかない」。コーラスパートまで一緒に歌ったので、窒息しそうだったとユーミン。恒例のメノウクリームのプレゼントだが、ユーミン、彼女のお肌がきれいだと褒めていた。ホクロの位置が、この曲の頃のマネージャーを思い出させるとのこと。

2組目は男性。この方とは逗子でグループで食事をしたことがある。生花の作家をされているということで、「花紀行」をリクエストされた。
実は6月にユーミンの曲とのコラボで生花ライブを行うとのこと。詳細が決まればtcさんのサイトでも発表されることと思う。

生花作家になったきっかけは、実家が和食の料理屋のため、大学に行くときにお母様にお茶とお花を習わなかったら学費を出さないといわれたからだそうだ。そこで、そのお店はどこにあるのかとのユーミンの問いに、愛知県の碧南市とのこと。羽衣伝説等、ユーミンは非常に興味を示し、お話がかなり盛り上がった。

生花をされているということで、姿勢のよさを褒めるユーミン。ファンの間でも顔の知れている人だったので、このように皆で年会のように来てくれるのが嬉しいとのお言葉があった。

3組目は、ユーミンが見覚えがあるという人が登場。「愛のWAVE」でと答えられたので、では奥さんにとステージから離れたところでユーミン「では、他の人を指そうね」と再び人選開始(^^; そうしたら、なんと、友人の彼氏が登場。私は彼氏にはお会いしたことはないのだが、その存在は知っていた(^^)

彼氏はかなり上がっていたようで、最初にしたリクエストが何と「ダイアモンドダストが消えぬまに」。これにはユーミン「いいんだけど、さっき歌ったよ」ということで「破れた恋の繕し方教えます」にした。ユーミンは「プチ呪いな曲をなぜ」と聞いていたが、何と答えたんだっけ。

ここで友人登場。お似合いな感じです。「いい感じだわ、とっても好きな雰囲気」とユーミン。
選曲について、ユーミンが彼女に「この曲でいいですか?」と確認し、彼女は「OKです」と答えたが、本当は違う曲の予定だったそうだ。でも、とてもその場で違うと言う勇気はなかったとのこと。ステージから客席に帰る時には「これからもますます仲良く、苗場にも来てください」と声を掛けられていた。

リクエストコーナーが終わり、「SATURDAY NIGHT ZOMBIES」では、正隆さんゴリラとトマト先生ゴリラが登場。正隆さんゴリラはひときわ大きいのでよくわかる。ユーミンを羽交い絞めしたり、腕を組んで回ったり、いい感じだった。

アンプラグドの前には中川さんが語る。「ナイスなゴリラでグッドでした」とおどけるのだが、硬い(^^; 中川さんの語りは終始硬かったが、これは演出なのだろうか。

この後、チャットではAパターンとBパターンとではどちらが好きかという話になった。Aパターンの人が多かったが、Bパターンが好きな友人は、「TUXEDO RAINが好きなんだもの」とのことだった。

コンサートは順調に進み、最後は

「一緒に歳を重ねましょうね。続けていれば、会いたい人に必ず会えるって、昨日も思いました。健康で、ボケないこと。今回のステージは、骨になるまでという、このYMマークの墓が決意表明です。苗場のお客様は本当に特別。大事にします。ありがとうございました」

とのユーミンの言葉と共に「経る時」「卒業写真」で締めた。

なお、今回は苗場30周年ということで、最終日前日には1日限りの特別バージョン「30th Anniversary Special Live SURF&SNOW in Naeba 1981」もあった(セットリストはヒデさんのサイト等でご確認ください)。第1回のメンバーも登場して、昔のバージョンで「埠頭を渡る風」等が演奏された。そのリハーサルから本番までの映像もY MODEで配信されたので、そのレポートもと思ったが、残念ながらメモを取り損ねてしまったので、ここでは特別コンサートがあったことのみ記録しておきたい。

その444(2010.03.07)『夢の浮橋』加藤医師の件(4)

加藤医師の4回目は、谷崎の母の死の前後について、中河与一著『探美の夜』から引用したい。前回、今回とこのような引用をするのは、『夢の浮橋』の第2の母の死のときに加藤医師が担わされた役割を考える参考になると思うことと、この2人の死を「母」の死として谷崎がオーバーラップさせたと考えるからである。

○義妹(『痴人の愛』のモデル)と旅行に行く計画を立てる

何時の間にか尾張町の四ツ角の近くに来ていた。彼は思いついてガランとしている一軒の店に入ると、おすえに似合いそうな思い切って大胆な柄行の派手な色彩の着物を見立てた。勿論おすえの旅着である。番頭にきくと、仕立あがりは急いでも二、三日はかかるという。彼はその着物が出来あがるのを待って、その次の日あたりにおすえを旅行に連れだそうと決心した。

○母と鮎子、ほぼ同時に発病

小石川の自分の家に着くと、数日前から脹れもので苦しんでいる鮎子の泣き声がすぐ耳に聞こえて来た。黒襟をつけた筒袖の寝巻姿の千恵があわただしく奥の部屋から走り出して来た。
「あなた、蠣殻町のおっ母さんが大変なんですってよ。お顔の丹毒でとてもお悪いんですって」
「えッ、おっ母さんが丹毒だって」
不吉な予感が彼の全身をうちのめした。彼は千恵の顔を見つめたまま痴呆のような表情で立ちすくんだ。

○父から追って手紙が来る

「でもどんなことがあっても、おっ母さんの病気を、嫁として私がほっておくことは出来ませんわ」
何時も従順すぎるほど従順な千恵が、今日は思いがけないほど真正面から我を張って譲ろうとはしなかった。
二人が暫く玄関先きで同じことをくりかえして争っている時、丁度そこへ父からの葉書がとどいた。それには昨日のハガキの追って書きのように手みじかに「赤児に腫物ありては伝染の恐れあり、千恵は見舞に来るに及ばぬ」とだけ認めてあった。その簡潔な追伸の中には、親切な千恵が鮎子をふりきって、自分の疲労を押して看病に来るのではないかという父親の察しと愛情が示されていた。

○母の容態

母は奥の八畳に寝ていた。
ひるむ手で障子をあけて中の様子を見た時、彼はそこに思いがけぬものを発見した。病床のそばには父と看護婦と、それから今しがた納得させたばかりの千恵が、自分より先きに来て坐っているではないか。何という強情な女だろう。そして無智な奴だろう……
彼は初めてそむかれた怒りに衝かれて顔をゆがめたが、ものも言わず、ただ憎々しく千恵の方をグッとにらみ据えた。その形相は後手に出刃を持っていないだけ……と言いたいくらいの見幕であった。千恵は悲しげに詫びるようにすぐ眼を伏せた。
母はと見ると化物のように赤黒く脹れあがった顔には、目鼻さえわからぬほどに黒い薬がぬられ、その上に白い繃帯が巻かれ、高熱にうかされるように絶えずうめき声をあげていた。これが嘗て一枚錦絵にまで写しとられた母の姿かと思うと、彼は胸を押しつぶされて声も出なかった。

○母、一時的に回復

次ぎの朝、彼は起きぬけに自動電話で、近所の電話を持っている人に父を呼びだしてもらい、母の病状をきいた。不思議にも今朝方から急に熱も七度台にさがり、顔の腫れも引いたという返事であった。
(中略)
母もすっかり安堵したらしかったが、ただ食欲がなかった。彼はあれこれと栄養の多いたべ物を言ってみたが、結局鳥のスープだけ食べてみようということだったので、彼は喜んで家を出て笹沼の家に馳けつけた。「偕楽園」で上等の鳥のスープを作ってもらうと、彼は足が地につかぬほどのうれしさで、母のところへ持って帰って来た。
彼がこんなに真情をうちつけて母に仕えたのは、後にも先にも初めてのことであった。彼はこの日になって自分がどれほど深く母を愛していたかということをハッキリ知ることができた。

○鮎子の手術

次ぎの日、彼は鮎子の手術のために鮎子にき添って帝大病院に行った。その時、鮎子の身体を生れて初めて我手で抱いた。親子の愛情が小さい身体を通して熱く通ってくる中で、詫びと祈りの気持を感じながら彼は鮎子を手術台の上に運んだ。メスがあてられると、鮎子は烈しく泣き叫んだ。親も子も汗みどろになっていた。
手術は順調にすすみ、十日ばかりも苦しみ通した大きいゴムマリほど固くふくれあがっていた腫物が間もなく根こそぎ取り去られた。
こうして祖母と孫は殆ど同時に発病したが、全治するのも恐らく同じ頃であろうと、彼は悪夢のような数日を思いかえしながら、やっと安堵の息をついた。

○伊香保へ

一人になると、彼は近所にいる先輩の竹林無想庵を訪ね、そこで伊香保のことを聞いたり、一緒に春陽堂に行って旅行の費用を三十円だけ前借りしたりして夜十時頃自分の家に帰って来た。
彼は次ぎの日の夕方だしぬけに千恵に言った。
「明日の朝から二十日か一ヶ月ほど旅行しようと思うから今夜のうちに支度をしてくれないか」
彼が旅行に行くのは結婚して今度が初めてであった。
(中略)
二人は電車をおりると、急な石段で出来た街の通路をあがって「千明」という旅館に入って行った。徳富蘆花が『不如帰』を書いたことで急に有名になった旅館で、中宿ではあったが江戸時代からあって四百年もつづいているということであった。

○母危篤

彼が母を最も心配させたのは大学時代だった。彼はその時代のことをそのまま題材にして『異端者の悲しみ』という題で作品を書くつもりで、ここへやって来たのであった。
(中略)
お関は潤一郎が伊香保へ旅行に出る前日、あと二、三日で全快間違いなしと医者から断定されるまでになっていた。
然し二、三日すぎても胸のあたりに残っている小さい発疹がどうしても消えず、何となく気にかかった。医者は血清注射のせいで心配はないと説明していた。然し一応は危機を脱したと思っていたものの、誰れもが一抹の不安を感じていた。
千恵は潤一郎が旅行に出ると、その日から雨が降っても風が吹いても重い鮎子を背負って、姑の看病のために毎日、小石川から蠣殻町へ出かけて行った。
(中略)
お関は勿論のこと、倉五郎もそのことが何より嬉しくてたまらなかった。
ところが、千恵が両親の家に通いだして一週間目のことであった。何時ものように朝早く蠣殻町に行くと、昨日まで機嫌のよかったお関が、夜中から急に高熱を出したというので、医者や看護婦にとりかこまれていた。一度退いた丹毒症が、今度は胸の方にひろがりだしたのであった。
医者が夜どおし手をつくしたにもかかわらず、病勢は刻々に急激に悪化してゆき、わずかの時間に、もう救う術のないほど最悪の状態に陥ち入っていた。

○母の死

「潤一があんな性分だからお前も苦労のしづめだね……許してやっておくれ。でもあれで心根は見掛けに似合わず真面目で人一倍情のある子なんだよ。お前のことだって私のことだって心の底じゃ何時も親切に考えているんだからね。でもあれは小さい時からハニカミ屋で、泣き虫の癖があってね。だから表面ああして強がっているんだよ。そう思って辛抱しておくれね。何時かきっとお前にもいい日が来るよ」
風変りの息子を生んだ母親は瀕死の床にありながら、女同士の思いやりと哀しみをこめて年若い嫁を励ました。
然しそんな間も病状は進む一方で、幾度も危険に陥ち入りながらも、そのたびに注射で持ちなおし、日頃の丈夫な体力で、危ぶまれたその夜も奇蹟的に持ち越した。それはただひとえに潤一郎を待つ心の強さのためであったかもしれなかった。
然し次ぎの日、五月十四日、お関はやがて馳けつけてくる潤一郎を待ちきれず、千恵に手を握られて息を引きとった。五十四歳であった。傍らには倉五郎、精二、精二の妻の富士子、修平が涙をためて坐っていた。
潤一郎が帰って来たのは、それから暫くの後であった。
彼は母のなつかしい死顔の前で悔恨と愛慕にゆすぶられ、人眼もなく男泣きに泣いた。生れ落ちて以来、最も大きい不幸と悲しみを彼はこの時体験した。
お関の遺骨はその頃深川大島にあった慈眼寺という日蓮宗の寺の墓地に埋葬された。この墓地は後に小石川の染井に移されたが、そこでは芥川家(竜之介)累代の墓と背中合わせになった。

小説の中で、谷崎がそれまで鮎子さんに触っていないということを妙に強調しているのが気になったが、鮎子さんと母の病気が同根であることが、千代夫人の独り言として次のように示唆されている。

「おばあちゃんもとてもきいきが悪いんですって……鮎子はこの間おばあちゃんところに行ってだっこしていただいたでしょう。おばあちゃんが鮎子はいい子いい子って、言って下さったわね」

『夢の浮橋』のストーリーには『アンナ・カレーニナ』が下敷きとして煉り込まれているが、この年は、谷崎がトルストイ作品と出会った、あるいは再会した年でもあったようだ。千明仁泉亭を常宿にしていた徳富蘆花がトルストイに傾倒しており、この年に谷崎の弟である谷崎精二もトルストイの作品を訳している(この年の出来事について詳しくは、小谷野敦氏谷崎潤一郎 詳細年譜大正6年の記事をご確認いただきたい)。

徳富蘆花からは、さらに「兄弟の問題」という連想が出てくるが、『夢の浮橋』のストーリーの背景に兄弟の問題が何重にも織り込まれている背景にはこのこともあるのかもしれない(『アンナ・カレーニナ』も兄弟の話で溢れている)。谷崎は『夢の浮橋』のストーリーを寝ながら煉っていたそうだが、そのことが、この作品に連想ゲームのようにいろいろな要素が盛り込まれた要因なのかもしれない。

なお、『夢の浮橋』について気がついたこと等をその都度Twitterにメモ代わりに書いている。それらについても、よろしかったらmiyokosroomのtwilog(「夢の浮橋」で検索)でご確認いただけたらと思う。

その443(2010.03.04)『夢の浮橋』加藤医師の件(3)

加藤医師についての3回目ということで、中河与一著『探美の夜』から第2の母のモデル(第2の母の描写には、松子夫人の妹である重子夫人のエピソードも含まれているが、経歴については妹尾君子さんのものが濃厚に投影されている)である妹尾君子さんが亡くなる場面について見ていくことにする。この小説の執筆方針については加藤医師の件(1)に引用した通りだが、著者のあとがきに書かれているところを改めて引用しておく。

私は根と葉とを丹念に調べるために出来るだけ多くの土地に行き、多くの人々に逢ったのにすぎない。だから此処に書かれている限り根と葉とに於ける正確は保証するが、登場人物の心理や行動については保証しない。それは私のものであってモデル自身のものではないからである。

谷崎や一部の当事者がまだ生存している時のものであり、一部のエピソードについては前後の別の人のこととして書かれているように思えるところもあるが、妹尾君子さん急死の経緯については十分な資料になると思う(主要登場人物の名前は小説のため仮名)。

○亡くなる前の状況

妹尾銀一は昭和十年の夏、前の家の西隣りに中川修造の設計で新しい家を建てた。
それは建坪六十坪くらいの二階建で、かいづかの生垣をめぐらしたハイカラな家であった。テラスからは神戸の町から海の方までが一目に見おろせた。

もともと彼女の喘息は相当ひどく、時候の変り目、殊に冬に向う頃になると、月に一度くらいは必ずと云っていいくらい発作を起していた。
黴に敏感すぎるというので板倉医師のすすめで地下室に黴を培養したりしていたが、四日くらい前から烈しい発作に襲われていた。発作には山があって二日くらいすると、何時も峠を越すのに、今度はなかなからくにならなかった。

○亡くなった状況

衰弱がひどかったので医師がリンゲルを注射していると、その時突然彼女は息をひきとってしまった。枕頭には医師と看護婦と銀一とが坐っていた。

○通夜の前

どういうめぐり合せか、その日の昼、東京で新しい家庭生活を営んでいる登志子が下阪して来て妹尾家にやって来た。
彼女は鳥居と一緒に下阪したのであったが、ちょっとの時間でも絹子と逢って、今度の幸福な結婚について報告したいと思ったからであった。
ところが行ってみると、それどころか家の中は深い悲しみにとざされていた。
彼女は不幸な日々を姉のように親切にしてくれた絹子の遺体の前に坐って涙を流しながら、心から絹子の冥福を祈った。
然し考えてみると、その頃潤一郎夫妻は住吉川のほとりに住んでいたから間もなく此処に来るにちがいないと思った。それで、登志子は彼等と顔を合す気まずさを避けるために、早々に妹尾家を辞去するより仕方がなかった。不義理なような気がしたが、あの物わかりのいい苦労人の絹子は、きっと自分の気持ちを許してくれるにちがいないと思いながら、彼女は想い出多い岡本の坂をおりて行った。

○通夜の様子

潤一郎が妹尾家に着いたのは、登志子が帰ってから間もなくであった。その頃はさしもの妹尾家も、どの部屋にも通夜の客が入りきれないほど来て、混雑を極め、喜久の家からの夜食の料理がつぎつぎに運ばれて来ていた。

夜が更けるに従って、通夜の客はつぎつぎに帰って行って、残ったのは潤一郎と中川修造夫妻と親戚の者一人だけであった。

広い応接間にストーブをカンカンたいて、四人は美しく才たけていた絹子の思いがけない早逝を悼みながら、花で飾られた寝棺の前で夜を明かした。
「登志子はとうとうお通夜に出ませんでしたね」
潤一郎はふと気がついて云った。
「御亭主も御一緒やそうで、他にのっぴきならん用が出来たゆうて断ってはりました」
中川夫人が遠慮ぶかげに幼い船場のアクセントで云った。
「だがあれだけ御世話になった登志子こそ来なければならなかったのに……」
潤一郎は力をこめて残念そうに云ったが、その時何故か眼の底には涙がにじんでいた。

ストーブの熱と煙草の煙でムンムンする部屋に入って来た銀一が、そう云いながら窓の方に歩いて行った。
彼が窓にとりつけた黒繻子の幕を取り外して窓をあけると、冷い透き透った海風がサッと部屋の中に流れ込んで来た。

絹子というのが妹尾君子さん、登志子というのが丁未子夫人である。丁未子夫人は谷崎との別離の際、心身共にギリギリまで追い込まれたが、その後結婚前に勤めていた文芸春秋社に再度採用され、そこで知り合った男性と結婚したばかりだった。
小説には、丁未子夫人の結婚に際し、谷崎が菊池寛に出した礼状が小説の一部として引用されている。

それにしても医師の勧めで地下室に黴を培養とはこれいかに。今で言う減感作療法ということだろうか。でもこれ、どうなのかしら。減感作になってないわよねぇ(^^; 新築の家で冬はストーブをガンガン焚いて、しかも海のそば。湿気や化学物質の心配もあるわよね。リンゲルが汚染された? その医師の勧めって、妹尾夫妻が直に聞いたのかしら、それとも誰かが聞いてくれて、それを聞いたのかしら。

参考までに、丁未子夫人との離婚騒動から妹尾君子さんが亡くなる前に起ったことを小説から、その後小谷野敦氏の谷崎潤一郎・詳細年譜から抜き出してみる。

丁未子夫人との離婚後、妹尾君子さんが亡くなるまでの主な出来事(出典:小谷野敦氏の谷崎潤一郎・詳細年譜

なお、昭和51年発行の小説のカバーには、国文学者の吉田精一氏により次のようなことが書かれている。一部抜粋して引用する。

刊行後十年ならずして、今日までにこの作品の貴重性は増している。二十年、三十年先には更にそれは倍増するであろう。
作者の払った努力は、その時はじめて報いられるかも知れない。
細君譲渡事件のあと佐藤春夫が脳出血を起して倒れた。これについては谷崎自身が春夫の死後明らかにしたので吾々の手にも入っているが、この作品の書かれていた頃は、当事者の間をのぞけば極めて狭い範囲にのみ知られていた。一種の秘密であった。作者はこの事件の重大な意味をみとめて、ちゃんとこの作品に書き込んである。この種の事は他にも相当あり、読者の何げなく読みすごすもののうちに、後になってある啓示をいくつも発見するに相違ない。

読んだところ、実際相当あった。

ちなみに51年発行の単行本の発行所は港リサーチ株式会社、発売元は日本出版貿易株式会社となっている。小説の連載が終わったのは昭和34年11月。『夢の浮橋』が中央公論10月号に発表された約2ヵ月後である。そして最晩年、『雪後庵夜話』の冒頭に

我といふ人の心はたゞひとり
  われより外に知る人はなし

と記されることになる。

その442(2010.03.01)『富美子の足』の隠居と『夢の浮橋』の父

加藤医師の件に戻る前に、『富美子の足』を読んで、『夢の浮橋』の父について、見過ごしがたい共通点あるいは相違点を見つけたので列記してみたい(引用文:谷崎潤一郎文庫, 六興出版, 昭和53年)。

〔死に至った病〕

○『富美子の足』の隠居

糖尿病と肺結核

○『夢の浮橋』の父

腎臓結核

〔足の愛で方〕

○『富美子の足』の隠居

隠居がモデル台の代りに使った竹の縁台には、今度のことで始(ママ)めて座敷のまん中へ持ち出されたのではなく、彼は前からしばしば密閉した部屋の内でその縁台にお富美さんを腰掛けさせ、自分は犬の真似をして彼女の足にじゃれ着いたことがあるのだそうです。

○『夢の浮橋』の父

夏の夕暮れには床を池に差し出して父と母と三人で夕餉をしたためたり、涼を納れたりした。時には檜垣の茶屋から料理を持って来たり、どこからか仕出し屋の職人が材料を運んで来て、あのだだっ広い台所で包丁を使ったりすることもあった。父は添水から流れ落ちる水の下まで歩いて行ってビールを冷やした。母も床から足を垂らして、池の水に浸していたが、水の中で見る母の足は外で見るよりも美しかった。母は小柄な人だったので、小さくて丸っこい、真っ白な摘入れのような足をしていたが、それをじいっと水に浸けたまま動かさず、体中に浸み渡る冷たさを味わっている風であった。

〔寝付くまで〕

○『富美子の足』の隠居

七里が浜の別荘の方へ引き移ったのでした。表向きの理由は、糖尿病と肺結核とがだんだん重くなって来るので、転地をしなければならないという医者の勧告によったのですが、実は世間の人目を避けて、お富美さんと誰憚らずふざけ散らして暮らしたかったのでしょう。しかし、別荘の方へ移ると間もなく、隠居の病勢はいよいよ昂進して来たので、表向きの理由はやがて実際の理由らしくなってしまいました。病気に対してはかなり気の強い人で、糖尿病だというのに大酒を呷ったりするのですから、悪くなるのはあたりまえでした。それに糖尿病よりは肺病の方が日増しに心配な状態になり、夕方になると三十八度の熱が毎日つづくようになりました。以前から少しずつ痩せ始めていた体は、急にげっそり衰えて、半月ばかりの間に見違えるほど窶れてしまい、お富美さんとふざけ散らすどころの騒ぎではなくなって来たのです。

○『夢の浮橋』の父

父が意地にも起き上がる元気がなくなり、全く病床の人となったのは八月に入ってからであった。もうその時は全身に浮腫が来ていた。加藤医師は毎日か隔日ぐらいに欠かさず来た。病人の衰弱は日を追うて募り、起き上がって物を食べる意欲もなく、母は片時も枕頭を離れなかった。

〔病床の様子〕

○『富美子の足』の隠居

病勢が募るにつれて老人は次第に気むずかしくなり、食事の際などに料理に味の付け方が悪いと云っては、小間使いのお定を捉まえてしばしば叱言を云いました。
(中略)
「またそんな分からないことを云っているんだね……喰物がまずいのはお定のせいじゃありゃあしない。自分の口が変わってるんじゃないか。病人のくせに勝手なことばかり云っているよ。――お定や、かまわないから打ッちゃっておおき。そんなにまずいなら喰べないがいい。」
あまり隠居が焦立って来ると、お富美さんはいつもこう云って怒鳴りつけました。彼女に怒鳴り付けられると、ちょうど蛞蝓が塩を打っかけられた如く、老人はすうッと消えてしまいそうに眼を塞いで大人しくなります。そんな時のお富美さんは、まるで猛獣使いが猛り出した虎やライオンを扱うような工合なので、傍で見ている者はハラハラせずにはいられませんでした。
わがままで手の附けられない老人に対して、いつの間にやらこれほどの権威を振るうようになっていたお富美さんは、その頃時々病人を置き去りにしたまま別荘を明けて、何処へ姿を消すのだか半日も一日も帰って来ないことがありました。
(中略)
別荘は隠居とお富美さんの外に、この小間使いのお定と、飯炊きのおさんどんと、風呂番の男と、都合五人暮らしでした。お富美さんは今も云うようにろくろく病人の世話をしませんでしたから、看護の役を勤めた者は重(ママ)にお定一人だったのです。医者は看護婦を置くように勧めましたけれど、隠居は決して承知しませんでした。なぜかというと、――隠居は未だに、じっと床の上に倒れたきり起きも上がれない体でありながら、未だに例の秘密な癖を止めなかったので、看護婦がいれば楽しみの邪魔になると思ったのでしょう。この事実を知っている者は、当の相手、――美しい足の所有者たるお富美さんと、かく云う僕と、それからお定と、三人だけでした。
(中略)
医者の予言したとおり、今年の二月になって隠居は遂に危篤の状態に陥りました。しかし意識は割り合いにハッキリしていて、時々思い出したように妾の足のことを云いつづけるのでした。食欲などはまるでなくなっていましたけれど、それでもお富美さんが、たとえば牛乳だとかソップだとかいうようなものを、綿の切れか何かへ湿して、足の趾の股に挟んで、そのまま口の端へ持って行ってやると、病人はそれを貪るが如くいつまでもいつまでも舐っていました。このやり方は、最初隠居が考え附いたので、病が重くなってからはずっとそういう習慣になっていました。そうして食べさせなければ、誰が何を持って行っても一切受け附けませんでした。たとえお富美さんでも手を使わないで足でやらなければ駄目だったのです。

○『夢の浮橋』の父

「看護婦をお雇いになったら」と加藤氏はすすめたが、母は「私がします」と云って他人には触らせなかった。それはまた父の希望でもあるらしかった。三度の食事の世話、といっても、ほんの一と口か二口食べるだけであったが、母はいろいろ考えて、父の好物の鮎の鮨や鱧の鮨を取り寄せては与えた。(中略)ときどきアルコールを薄めて全身を拭いてやる必要もあった。そういうことに母はいささかの骨身も惜しまず、何もかも手ずからした。病人は母以外の者が手出しをすると苦情を云ったが、母のしてくれることには一言の不平も述べなかった。癇が亢って些細なことも耳につくらしく、庭の添水の音をさえ喧しいと云って、止めさせた。(中略)たまに親戚や知人が見舞いに来たが、それらの人にも会いたがらなかった。母は夜昼休む暇もなかったが、よくよく疲れると、手伝いに来ていた私の乳母が代りを勤めた。私は母にこんな我慢強い、辛労に耐える一面があるのを知って驚いた。

私はかなり早い時期から、『夢の浮橋』の父と「母」の間にはもしかしたら夫婦関係はないのではないかと疑っていたのだが、その疑いがいよいよ濃くなった。「母」はあくまで足を愛でる対象であり、夫婦関係の対象ではなかったのではないだろうかと。
さらに言えば、『富美子の足』の隠居とお富美さんと定との関係は、『夢の浮橋』の父と「母」と乳母の関係と同じなのではないだろうか。
そうなると、武の父は誰なのか、それどころか、糺の出生にも何か秘密がありそうだし、もっと言えば、「生母」のお腹の中で一緒に亡くなった糺の弟か妹は誰の子だったのかということになる。

最後に乳母が言った「そういうことなら、もう一度ちっさいぼんちゃんのお相手をさせていただきましょう」という一見何も問題ないように思える一言に、重大な意味が含まれているように思う。

ちなみに糺は最後に署名をしているが、その名前は乙訓糺(おとくにただす)である。この手記で、彼はいったい何をお得に正したのだろうか。さらに、その意味は「お得に正す」だけに止まるのか。これが解ければ、『夢の浮橋』の全体像が見えてくるように思う。

その441(2010.02.24)『富美子の足』

TBSの日本文学シネマで、谷崎の『富美子の足』が加藤ローサの主演で放送された。
原作は谷崎潤一郎文庫の第1巻に入っているので随分昔から持っていたのだが、なぜかまだ読んでいなかったので、この機会に読んで、そのうえでドラマも見た。ちなみに1981~1983年の全集の場合は第6巻、『潤一郎ラビリンス』では4の「近代情痴集」に入っている。

原作は大正8年に書かれたものだが、青年が谷崎先生に自分の体験をぜひ小説にしていただくべく書いた手紙という形式になっている。そのためか、第一印象は『卍』のような感じを受けた。
一通りの説明が済むと、谷崎が幼少時に母と経験した2回の地震の時に母がかかりつけのお医者や実家で足を拭いた時の肢体を富美子の上に表現したと思われるシーンが実に詳細に記述される(原作ではそれは種彦の田舎源氏で、絵はたしか国貞であったと記憶していると書かれる草双紙を手本に富美子にその肢体を真似させており、ドラマでは実際に草双紙に印刷されている絵も登場した)。谷崎の母はこの草双紙を意識してそういうことをしたのだろうか。

老人が、富美子にその肢体をさせることを説得するシーンがすごい。まるで『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』に描かれる晩年の谷崎そのもののようなので、引用してみる。

すると隠居は、今度はお富美さんに向って三拝九拝せんばかりに哀願して、煽てるやら賺かすやらいろいろの御機嫌を取りながら、何卒縁台へ腰をかけて足を拭いてくれろと頼むのです。(勿論そう云って頼んでいる間でも、顔はにこにこと笑っていましたが、眼だけはますます物凄く血走っていました。)(中略)そんなポオズをすることはモデルに立つ人の方でもかなり困難なわけで、おそらくこの姿勢を三分とはつづけていられまいと思ったからです。にも拘らず、わがままなお富美さんが案外たやすく隠居の願いを聴き入れて、いやいやながら縁台に腰を据えたのは、――それにはきっと何かしら深い理由があるのだろうと、僕はひそかに推量しました。もしお富美さんがどこまでもいやだと云って承知しなかったら、隠居の気違いじみた眼の色はいよいよ募って来て、ついにはその気違いが眼ばかりでなく、何等かの言動となって発作を起こしはしなかっただろうか?――それを恐れたためにお富美さんは我を折ったのではなかろうか? 僕には何となくそういう風に考えられました。

ところで、このお話は隠居が富美子に額を踏まれながら、無限の歓喜の中に息を引き取るところで終わるのだが、これは晩年の『瘋癲老人日記』を思わせる。

『瘋癲老人日記』の老人は当初亡くなる予定だったが、松子夫人、重子夫人、千萬子さんの反対により、死なないことになったという経緯がある。

伊吹氏は、『瘋癲老人日記』は当初谷崎の生涯の親友でありパトロンであった笹沼源之助氏への手向けのつもりで書かれたのではないかと書いている。さらに颯子のモデルは本当に千萬子さんなのだろうかという疑問も示している。松子さんなのではないだろうかと。
初めてそれを読んだ時には、特に松子夫人についてはそれは少し頑なではと思ったが、笹沼氏については「瘋癲=ぶーちゃん」かと妙に納得が行った。実際『富美子の足』にも笹沼氏の追悼文集に寄せた谷崎の『「撫山翁しのぶ草」の末尾に』という一文に描かれる笹沼氏の性質を思わせる記述が出てくる。『幼少時代』によると、笹沼氏は谷崎の性教育係でもあったらしいので、もしかしたらそのあたりの性質もある程度共通していたのかもしれない。

松子夫人については、確かに「さつこ=まつこ」で語呂は合うし、松子夫人との結婚に際して親友の笹沼氏まで遠ざけたことへのお詫びと考えれば何となく辻褄は合うかなとも思う。でもよく考えてみると、松子夫人よりもこの場合は千代夫人の姉「初子」とみる方が自然なのではないだろうか(ちなみに『富美子の足』は、谷崎が元芸者である初子さんの経営している「嬉野」という店によく出入りしていた頃が舞台と思われるが、富美子のモデルは千代夫人も含む三姉妹すべてのように思う)。

『夢の浮橋』の第2の母の経歴に妹尾君子さんの経歴が投影されていることはこれまでも何回か書いてきたが、谷崎の女性遍歴をテーマにした『探美の夜』を読むと、千代夫人の姉である初子さんと妹尾君子さんのキャラクターが非常によく似ているのだ。しかも、「さつこ=はつこ」でこちらも語呂が合う。『夢の浮橋』を書いた後の流れとしても、その方が無理がないように思うなぁ。

ドラマの方は加藤ローサのテンションが演出の関係なのかもしれないがやたら低いまま一本調子で進み、お富美さんを隠居の理解者として描くためか、最後には何やら語らせていたが、それを見ながら「お富美さんはそんなこたあ語りゃあしないよ」と思った。でも、加藤ローサの顔や足は結構原作に近いなあと思った。
また、私がドラマを見る前に他の人がつぶやいているのを読んだところ、文章はいいけど、映像にするとかなりきついかなと思ったが、意外にきれいに撮れていて、夫なども「幸せな死に方だよな。金持ちだからこそできる死に方だけど。子供たちに周りを囲まれて泣かれるより、若いお姉ちゃんに踏まれながら死ぬ方が、そりゃいいに決まっている」と好感触だった。

それから、原作を読んだとき、病床についた隠居の様子が『夢の浮橋』の父親と酷似しているのに気付いた。これは糺の語らないところを補う資料になるかもしれない。

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作ってしまいました(^^)

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