ラブレターズ

その430(2009.12.26)谷崎の中に棲む、芸術の栄養を蓄えた「悪人」

前回、『夢の浮橋』と『春琴抄』を場面別に比較したことで、図らずも、両作品に煉りこまれた砂糖を取り去る結果になった。それは、物語の下敷きに血縁に対する理屈では説明できない真情(武についてはまた別)を織り込ませている『夢の浮橋』よりも、『春琴抄』において、より顕著である。

谷崎は、2度の離婚を経てこれ以上の離婚は経済的にも精神的にも打撃と考え、その解決案を、思い切って、幼い頃に芸術の栄養をたっぷりと蓄えた内なる「悪人」に出させたのではないだろうか。それくらい、この作品には迷いがない。

ただ、それをそのまま出したのでは、読者や何よりも松子夫人やその身内の反発を受けることになる。そこで、『鵙屋春琴伝』という砂糖を煉り込んで、他の証言も含めて渾然一体化させることにしたのではないだろうか。

実際、この作品から『鵙屋春琴伝』という砂糖を取り除くと、信じたくない結果が現れる。これまでラブレターズでは芸術のことということで、読者が不快に思うだろうことも書いてきたが、その私でもさすがにそこまでは書きかねる。それくらい衝撃的なものが目の前に現れてくるのだ。

しかしそれは『刺青』『痴人の愛』等谷崎の作品に一貫しているテーマでもある。
ただ、『刺青』の時はまだ理想の女性がいることを夢見ており、『痴人の愛』の頃はいないなら自分で育てようとした。しかし、そんなものはもはや自分の観念の中にしかいないことに気付いた谷崎が次に取った方法が、『春琴抄』なのだと思う。
つまり、谷崎にとっての女性が神か玩具のいずれか(『蓼喰う虫』より)なのであれば、その玩具をもって神を作ろうとしたのである。

この作品で、谷崎は親切にも読者の良心に合わせたストッパーを用意している。『鵙屋春琴伝』の世界を全面的に信じたければ、春琴と佐助の純愛ストーリーということで、「読者諸賢は首肯せらるるや否や」という問いには有無もなく頷くだろう。そう問われること自体がきっと不思議だろう。一方、どうやら佐助が手を下したようだが、それは佐助が春琴を気遣うあまりの行動だと思いたい、あるいは春琴の意思もあるのではないかと考えたい人のためには、「斯くいろいろと疑い得らるる早晩春琴に必ず誰かが手を下さなければ済まない状態にあったことを察すべく彼女は不知不識の裡に禍いの種を八方へ蒔いていたのである。」という文言を用意して誘っている。なので、この作品についていろいろな説が出るのは当然のことなのかもしれない。

ところで、谷崎の作品に『金と銀』というものがある。悪人だが才能のある芸術家と、清い心の持ち主だが凡庸な芸術家の話である。この戦いの物語は、谷崎と佐藤春夫のことを書いたように思われていたりするが、それは違うだろう(谷崎は少なくとも細君譲渡事件までは佐藤春夫の才能を高く買っていた)。「潤一郎ラビリンス」で分身物語に分類されている通り、谷崎の中にいる2つの人格の対決と見るのが妥当だと思う。
前回の比較の後、昔読んだこの作品を再び読んで確認したくなったが、残念ながら今手元にない。

そんなとき、以前から買ってあった『神と人との間』という作品が目の前に現れた。小田原事件後に佐藤春夫とこの事件を題材に作品を発表しあっていた時のものだが、関東大震災を挟んで実に2年間にわたって書き続けられている。これもまた小田原事件を題材にしてはいるが、その過程の心理を書くことによって、谷崎は再び内なる「悪人」と向き合っていたように思う。

この作品はまだ読んでいる途中だが、パラパラとめくったときに『夢の浮橋』のヒントが出てきた。谷崎が自分のことを「自分は悪人だ、それも真の悪人だ」と言い募っている作品は、これまで正直あまり積極的に読みたくなかったりもしたものだが、谷崎の作品を考えるうえでは避けては通れないものなのかもしれない。

さらに、この記事を書くために『幼少時代』の気になるところを再び確認していたところ、またもや『夢の浮橋』の重大な謎を解く鍵を見つけた。それは、谷崎が母と経験した、6歳と9歳(この年齢を見るだけで、『夢の浮橋』を読んだことのある人は反応を示すだろう)の時の2つの地震の記述中にあった。これについてはまた後で書くことにする。

その429(2009.12.15)『夢の浮橋』と『春琴抄』―場面別文章比較

『春琴抄』を改めてじっくり読み直してみたところ、『夢の浮橋』との間に見過ごし難い共通点、あるいは相違点を見つけた。『春琴抄』の「佐助犯人説等(お湯かけ論争)」や、『夢の浮橋』の、糺の語らないところを埋める資料にもなると思うので、列記してみたい(引用文:谷崎潤一郎文庫, 六興出版, 昭和53年)。

〔告白の信頼性〕

○温井琴台(佐助)著『鵙屋春琴伝』(架空)に対する著者の評価

これらの記事が春琴を視ること神の如くであったらしい検校から出たものとすればどれほど信を置いてよいかわからないけれども彼女の生れつきの容貌が「端麗にして高雅」であったことはいろいろな事実から立証される。

○乙訓糺著『夢の浮橋』(小説全体)

ここに記すところのすべてが真実で、虚偽や歪曲はいささかも交えてないが、そういっても真実にも限度があり、これ以上は書くわけには行かないという停止線がある。だから私は、決して虚偽は書かないが、真実のすべてを書きはしない。父のため、母のため、私自身のため、等々を慮って、その一部分を書かずにおくこともあるかもしれない。真実のすべてを語らないことは即ち虚偽を語ることである、と云う人があるなら、それはその人の解釈のしようで、あえてそれに反対はしない。

〔奉公人の出身地〕

○佐助(春琴抄)

江州日野町(現:滋賀県蒲生郡日野町

○乳母(夢の浮橋)

江州長浜(現:滋賀県長浜市

〔登場人物のかかった病気(クライマックスを除く)〕

○春琴の失明(鵙屋春琴伝および鴫沢てるの証言を総合した著者の見解)

一番下の妹に附いていた乳母が両親の愛情の偏頗なのを憤って密かに琴女を憎んでいたという。風眼というものは人も知る如く花柳病の黴菌が眼の粘膜を侵すときに生ずるものであるから検校の意は、蓋しこの乳母がある手段を以って彼女を失明させたことを諷するのである。しかし確かな根拠があってそう思うのか検校一人だけの想像説であるのか明瞭でない。

○最初の母の死因(夢の浮橋)

私を生んでくれた母は私が数え年六つの秋、あの玄関の前の橡の葉が散り初める頃、私の弟か妹にあたる胎児を宿しつつ、子癇という病気に罹って二十三歳で死んだ。

○父の死因(夢の浮橋)

腎臓結核で、しかも致命的な症状であることが明らかになった。というのは、どちらか片側の腎臓が冒されているのであったら、それを摘出すれば一応は助かる望みがある。もっともそれでも予後が悪くて三四割は死ぬのである。然るに父の場合は不幸にして左右の腎臓が冒されているので、如何ともし難い。

〔クライマックスでヒロインが受難する前の状況〕

○春琴の場合(春琴抄)

極端に奢侈を好む一面極端に吝嗇で欲張りであった。
(中略)
畢竟彼女の贅沢ははなはだしく利己的なもので自分が奢りに耽るだけ何処かで差引をつけなければならぬ結局お鉢は奉公人に回った。彼女の家庭では彼女一人が大名のような生活をし佐助以下の召使は極度の節約を強いられるため爪に火を燈すようにして暮らしたその日その日の飯の減り方まで多いの少いのと云うので食事も十分には摂れなかったくらいであった

○第二の母の場合(夢の浮橋)

たまには三人で観劇や遊山にも出かけたが、母は金遣いが細かい方で、わずかな金銭の出入りにも気を配り、私達にも努めて冗費を省くように誡めていた。特に沢子に対しては監督が厳しかったので、台所の帳面を預かる彼女は相当に気を遣った。母がますます色つやがよくなり、頤が二重頤になりかけ、これ以上太ったら醜くなるという程度に肥えて来たのは、父の生前に比べて気苦労がなくなった証拠と思えた。

〔事件の状況〕

○鵙屋春琴伝

佐助は春琴の苦吟する声に驚き眼覚めて次の間より馳せ付け、急ぎ燈火を点じて見れば、何者か雨戸を抉じ開け春琴が伏戸に忍入りしに、早くも佐助が起き出でたるけはひを察し、一物をも得ずして逃げ失せぬと覚しく、既に四辺に人影もなかりき。此の時賊は周章の余り、有り合はせたる鉄瓶を春琴の頭上に投げ付けて去りしかば、雪を欺く豊頬に熱湯の余沫飛び散りて口惜しくも一点火傷の痕を留めぬ。素より白璧の微瑕に過ぎずして昔ながらの花顔玉容は依然として変らざりしかども、それより以後春琴は我が面上の些細なる傷を恥づること甚だしく、常に縮緬の頭巾を以って顔を覆ひ、終日一室に籠居して嘗て人前に出でざりしかば、親しき親族門弟と雖もその相貌を窺ひ知り難く、為めに種々なる風聞臆説を生むに至りぬ

○鴫沢てるその他二三人の証言

賊はあらかじめ台所に忍び込んで火を起こし湯を沸かした後、その鉄瓶を提げて伏戸に闖入し鉄瓶の口を春琴の頭の上に傾けて真正面に熱湯を注ぎかけたのであるという最初からそれが目的だったので普通の物盗りでもなければ狼狽の余りの所為でもないその夜春琴は全く気を失い、翌朝に至って正気付いたが焼け爛れた皮膚が乾き切るまでに二ヵ月以上を要したなかなかの重症だった

○春琴死後の佐助が門弟に語ったこと

春琴が兇漢に襲われた夜佐助はいつものように春琴の閨の次の間に眠っていたが物音を聞いて眼を覚ますと有明行燈の灯が消えてい真っ暗な中に呻きごえがする佐助は驚いて飛び起き先ず灯火をともしてその行燈を提げたまま屏風の向こうに敷いてある春琴の寝床の方へ行ったそしてぼんやりした行燈の灯影が屏風の金地に反射する覚束ない明りの中で部屋の様子を見廻したけれども何も取り散らした形跡はなかったただ春琴の枕元に鉄瓶が捨ててあり、春琴も蓐中にあって静かに仰臥していたがなぜか呍々と呻っている佐助は最初春琴が夢に魘されているのだと思いお師匠さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って揺り起こそうとした時我知らずあと叫んで両眼を蔽うた佐助佐助わては浅ましい姿にされたぞわての顔を見んとおいてと春琴もまた苦しい息の下から云い身悶えしつつ夢中で両手を動かし顔を隠そうとする様子に御安心なされませお[かお(白の下にはち)]は見は致しませぬこの通り眼をつぶっておりますと行燈の灯を遠のけるとそれを聞いて気が弛んだものかそのまま人事不省になった。(中略)これほどの大火傷に面体の変わらぬはずがあろうかそのような気休めは聞きともないそれより顔を見ぬようにしてと意識が恢復するにつれて一層云い募り、医者の外には佐助にさえも負傷の状態を示すことを嫌がり膏薬や繃帯を取り替える時は皆病室を追い立てられた。されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた瞬間焼け爛れた顔を一と眼見たことは見たけれども正視するに堪えずして咄嗟に面を背けたので燈明の灯の揺らめく蔭に何か人間離れのした怪しい幻影を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その痕は常に繃帯の中から鼻の孔と口だけ出しているのを見たばかりである

○第二の母(夢の浮橋)

そんな風にして足掛け三年を過ごしたが、私が大学三年生であった年の初夏、六月下旬の夜十一時頃であった。寝入りばなの私は沢子に強く揺り起こされて眼を覚ました。
「お母さんがえらいこってすのや、起きとくりやす」
と沢子は云って、急いで私を母の寝室へ引っ張って行った。
「お母さん、どうしたんや」
母は何とも答えず、俯きに臥て枕を両手で苦しそうに摑み、微かなうめき声を洩らしていた。
「あんた、これやのどすがな」
沢子はそう云って、母の枕元の畳の上に伏せてある団扇を取って除けて見せた。団扇の下には一匹の大きな百足が、押し潰されて死んでいた。事情を聞くと、その夜沢子は十時過ぎから母の云いつけで治療に勤め、肩から腰を揉み終わって、右足の踝を揉んでいる時であった。それまですやすやと寝息を立てていた母が、にわかに苦悶の声を発して、足の指を痙攣させた。沢子が驚いて仰向きに寝ている母の顔を覗き込もうとすると、百足が胸の心臓部に近いところを這っているのを認めたので、仰天した彼女は怖いことも何も忘れて、あり合う団扇で払い除けると、いいあんばいに弾き飛ばされて畳に落ちたので、団扇の上から手で押し潰した、というのであった。

○第二の母治療の状況(夢の浮橋)

加藤医師がすぐ駆けつけて応急の処置を取り、注射をつづけざまに打ったが、母の苦悶は刻々に増して行った。血色、呼吸、脈搏、等の状態は、最初に私達が考えたよりも重大な容態にあることを示した。加藤氏はつききりであらん限りの手を尽くしたが、夜が明ける頃には危篤に陥り、間もなく母は死亡した。「ショック死と考えるより外考えようがありません」と、加藤氏は云った。

〔容疑者(長くなるので概略を改行を入れて記述)〕

○春琴にお湯をかけた容疑者

・利太郎

なかなかの放蕩者でかねてより遊芸自慢であったがいつの頃よりか春琴の門に入って琴三味線を習っていたこの者親の身代を鼻にかけ何処へ行っても若旦那で通るのをよいことにして威張る癖があり同門の師弟を店の番頭手代並みに心得見下す風があったので春琴も心中面白くなかった
そこは例の附け届けを十分にたっぷり薬を利かしているので断りもならずせいぜい如才なく扱っていた。然るにさすがのお師匠さんも己には一目置いているなどと云い触らし殊に佐助を軽蔑して彼の代稽古を嫌いお師匠さんの教授でなければ治まらずだんだん増長する様子に春琴も癇癖を募らせていた
父親九兵衛が老後の用意に天下茶屋の閑静な場所を選び葛家葺の隠居所を建て十数株の梅の古木を庭園に取り込んであったがある年の如月に此処で梅見の宴を催し、春琴を招いたことがあった。
やがて夜に入り座敷を変えて再び宴を開いた時佐助どんあんたも疲れたやろお師匠はんはわいが預かる、あっちに支度したあるさかい一杯やって来とくなはれと云われるままに、無闇に酒を強いられるうち腹を拵えておくに如かずと佐助は別室に引き退って先に夕飯の馳走を受けたがご飯をいただきますというのを銚子を持った老妓の一人がべったり着き切りでまあお一つまあお一つと重ねさせるお蔭で思いの外時間をつぶしたが食事を済ませても暫らく呼びに来ないので其処に控えていた間に座敷の方でどういうことがあったのか、佐助を呼んで下されと云うのを無理に遮り手水ならばわいが附いて行ったげると廊下へ連れて出て手を握ったか何かであろう、いえいえやはり佐助を呼んで下されと強情に手を振り払ってそのまま立ちすくんでいる所へ佐助が駆け付け、顔色でそれと察した。
また明くる日からずうずうしくも平気で稽古にやって来たのでそれならば本気でたたき込んでやる真剣の修行に堪えるなら堪えてみよとにわかに態度を改めてピシピシと教えた。
遂に春琴は「阿呆」と云いさま撥を以って打った弾みに眉間の皮を破ったので利太郎は「あ痛」と悲鳴をあげたが、額からぽたぽた滴れる血を押し拭い「覚えてなはれ」と捨て台詞を残して憤然と座を立ちそれきり姿を見せなかった。

・北の新地辺りに住む某少女の父親

この少女は芸者の下地ッ子であったからみっちり仕込んでもらうつもりで稽古のつらさを怺えつつ春琴の門に通っていたところある日撥で頭を打たれ泣いてい家へ逃げ帰ったその傷痕が生え際に残ったので当人よりも親父がカンカンに腹を立てて捻じ込んだ多分養父ではない実父だったのであろう何ぼ修行だからといって年歯も行かぬ女の子を苛むにも程がある、売り物の顔に疵をつけられこのままでは済まされないどうしてくれると大分過激な言辞を使った

・その他、同業師匠連等多数

ここに全然意外な方面に疑いをかけようとする有力な説があって曰く、おそらく加害者は門弟ではあるまい春琴の商売敵である某検校か某女師匠であろうと。別に証拠はないけれども或いはこれが最も穿った観察であるかも知れない蓋し春琴が居常傲岸にして芸道にかけては自ら第一人者を以って任じ世間もそれを認める傾向があったことは同業の師匠連の自尊心を傷つけ時には脅威ともなったであろう。

斯くいろいろと疑い得らるる早晩春琴に必ず誰かが手を下さなければ済まない状態にあったことを察すべく彼女は不知不識の裡に禍いの種を八方へ蒔いていたのである。

○第二の母(夢の浮橋)

・沢子

私が駆けつけた時は母は俯いて苦悶していたが、その前は仰向けに臥ていたと沢子は云う。ところで、一つ私の腑に落ちないのは、足をさすっていた沢子が驚いて母の顔を見ようとした途端に、心臓の付近を這っていた百足を認めたということである。その時母は胸を露わにしていたわけではなく、寝間着を着ていたのであるから、寝間着の下を這っていたはずの百足を偶然見かけた、というのはおかしい。前からそこにその虫がいたことを、沢子は知っていたのである、と考えることもできる。
繰り返して云うが、これは飽くまでも私の単なる空想であって、想像を逞しくすればそういう仮説も成り立ち得る、というに過ぎない。

〔ヒロイン死後の子供の扱いからラストまで〕

○佐助の場合(春琴抄)

触覚の世界を媒介として観念の春琴を視詰めることに慣らされた彼は聴覚によってその欠陥を充たしたのであろう乎。人は記憶を失わぬ限り故人を夢に見ることができるが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死に別れたともはっきりした時は指せないかも知れない。因みに云う春琴と佐助との間には前記の外に二男一女があり女児は分娩後に死し男児は二人とも赤子の時に河内の農家へ貰われたが春琴の死後も遺れ形見には未練がないらしく取り戻そうともしなかったし子供も盲人の実父の許へ帰るのを嫌った。斯くて佐助は晩年に及び嗣子も妻妾もなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日に八十三歳という高齢で死んだ察するところ二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよ鮮やかにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を天龍寺の峩山和尚が聞いて、転瞬の間に内外を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為に庶幾しと云ったというが読者諸賢は首肯せらるるや否や

○糺の場合(夢の浮橋)

私は離縁を決行すると同時に、楽しい思い出や悲しい思い出の数々をとどめている五位庵をも人に譲って、鹿ケ谷の法然院のほとりにささやかな一戸を構えた。そして黒田村の芹生にいた武を、当人もなかなか帰りたがらず、里親も離したがらないのを強いて連れ戻して、一緒に暮らすことにした。私はまた、故郷の長浜で安らかな余生を送っている今年六十五歳の乳母に、せめて武が十ぐらいになるまで面倒を見てくれるように頼んだところ、まだ幸いに腰も曲らず、孫子の世話をしていた彼女は、「そういうことなら、もう一度ちっさいぼんちゃんのお相手をさせていただきましょう」と、お神輿を上げて出て来てくれた。武の歳は今年七歳、当座はなかなか私や乳母になついてくれなかったが、今では事情を理解してすっかり親しみ深くなった。武は来年小学校の一年生になる。私に取って何よりも嬉しいのは、武の顔が母にそっくりなことである。のみならず、母のあの鷹揚な、物にこせつかない性分を、どうやらこの児も受け継いでいるらしいことである。私は二度と妻を娶る意志はなく、母の形見の武とともにこの先長く暮らして行きたいと考えている。私は幼にして生母に死なれ、やや長じては継母にさえ死なれて、淋しい思いをさせられたので、せめて武が一人前になるまでは生きながらえて、この弟にだけはあのような思いをさせたくないと願うのである。
  昭和六年六月二十七日(母命日)

乙訓糺記之

その428(2009.12.15)『夢の浮橋』執筆動機の考察

源氏物語の最終巻「夢の浮橋」を青空文庫で読んだ。前に新潮古典集成で読んだことはあるのだが、今回は与謝野晶子版でおさらい。

ああ、こういう内容だったわねと思い出しながら読んでいくと、谷崎の『夢の浮橋』との共通点がまざまざと浮かび上がった。
やはり、これまでラブレターズで書いてきた、得三氏との件がまず一番、そこに妹尾君子さんをモデルにした『お栂』の原稿が思いがけなく出てきたことがこの作品執筆の大きな動機であることを改めて確認できたように思う。

源氏物語の「夢の浮橋」は、かつて薫と匂宮との三角関係の苦しみから浮舟が入水し、いきなり薫の前から消えてしまったのが、ひょんなことから今も生きていることを知り、薫が横川の僧都を訪ねるところから始まる。
そして浮舟の弟に薫の代理としてまず会いに行かせるのだが、浮舟は出家姿を弟にも見せたがらず、会ってくれないというところで終わる。出家を戻れない落ち橋にたとえた巻名と思われる。

つまり、一見、薫と浮舟の後日譚のように見えるのだが、実は兄弟の話でもあるのだ。谷崎はこの訳をしている時、得三氏のことを思い浮かべたのではないだろうか。

得三氏は、生まれてすぐ里子に出され、そのまま養子に行った人だったが、養家の没落からいろいろなことを経験し、不運な事情により結婚もせず職も転々としていた。
長年消息が不明になり、一時は朝鮮に渡ったという噂まで出たが、大正14年に得三氏から連絡が入るようになった。
しかし、その後再び消息不明になっていたところ、昭和32、3年頃に石川達三が和歌の浦の旅館に泊まった際、そこで下足番をしている人が谷崎の弟だという噂を聞くことになる。
そして、昭和36年には、谷崎が妹から得三氏のことを聞かれて、「得三は和歌の浦の宿屋で帳付けをしたり、客の荷物を運んだりしているが、年を取って働けないから老人ホームへ入りたいというので入れようと思う。が、どういうのかはっきり返事をしない。女がいるようだ。今度会う時に早く返事をするように伝えてくれ」と頼み、その後、さらに甥を使いにして老人ホームへ入るよう説得し、昭和37年にはホームへの入居が成ったようだということが、細江光著『谷崎潤一郎─深層のレトリック』に書かれている。

『夢の浮橋』の発表は昭和34年なので、得三氏の消息が知れてから老人ホーム入居を谷崎が勧める昭和36年のちょうど中間にあたる。この頃はまだ老人ホーム云々という話でもないだろうから、谷崎はこの弟を引き取ることを考えたのかもしれない。
しかし、松子夫人たちとの生活を考えるとそれは無理である。千代夫人の時とは違うのだ。

ここで思い出すのが、『日本に於けるクリップン事件』である。この中で谷崎は、マゾヒストの殺人について力説しているのだが、マゾヒストがそれまでのパートナーを殺そうとするときは、次の人が必ず心の中にいると書いている。つまり、松子夫人や重子夫人との生活で、谷崎の母に対するフラストレーションは解消できたので、新たな母のゆかりである弟を引き取りたいが、その障害になるものは排除されるべきというのが、谷崎の『夢の浮橋』ということになる。となると、真犯人は糺になるんだなぁ。

まあ、とにかく『夢の浮橋』の中では、あの時点で「母」がなんとしても死ななくてはならなかった理由はここにあるように思う。

で、武を引き取るには、一緒に育ててくれる人が必要だ。そこで乳母の復活になったということが伊吹和子著『われよりほかに─谷崎潤一郎 最後の十二年』に書かれている。

この時点で谷崎の中では、乳母=千代夫人だったのではないだろうか。
谷崎は、かつて千代夫人を作中でさんざん受難させていた時期があったが、その一方で、自ら離婚を画策しながらその後復縁しようとする『愛なき人々』という作品もある。谷崎は千代夫人を、自分を誰よりも愛してくれた乳母と重ねたために我儘を言っていじめもしたが、それだけにインセストタブーも働いた。つまり、それだけ精神的に大切な人だったとも言えるのではないだろうか。

それにしても、この作品で谷崎は、夫婦で母に仕えるということを実現させているが、本当は千代夫人と一緒にそれができればどんなに良かったかと、母が亡くなってから思ったんだろうね、きっと。

最後に『夢の浮橋』のタイトル及びストーリーに影響したと思われる、昭和31年から33年の出来事を並べてみる。

○昭和31年までに『幼少時代』の連載を終了、32年に単行本を刊行。幼少時代の出来事が自分の作品に深く影響していることを自ら実感したエッセイ。『夢の浮橋』のストーリーの下敷きになっていると思われる。

○昭和31年、谷崎が実父と重ねたと思われる、松子夫人の前夫根津清太郎氏が亡くなる。

○昭和32、3年、長年行方知れずになっていた得三氏の消息がわかる。

○昭和33年、妹尾君子さんをモデルにした『お栂』の原稿が思いがけず見つかり狂喜するが、君子さんの生前の夫だった妹尾健太郎氏に握りつぶされる。

思いがけないことでそれまで行方がわからなくなっていた人が突然目の前に現れたときに現れる、それまでの空白の時間をつなげる橋、それを谷崎は「夢の浮橋」と表現したのではないだろうか。

その427(2009.12.12)『夢の浮橋』と『春琴抄』―佐助犯人説と絡めて

mixiの谷崎コミュで、『春琴抄』の「佐助犯人説」についてコメントを書いた。その時に、ラブレターズでずーっと拘ってきた『夢の浮橋』のことも引用したので、ここで改めて整理して書いてみたいと思う。

私が「佐助犯人説」に出会ったのは、もう20年も前になるだろうか、秦恒平氏の著書でだった。この時大いにうなづいたのを覚えている。だから、『夢の浮橋』について書き始めた時も、これを踏まえて真犯人を頭に描いている。

ところが、2008年に読んだ細江 光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』では、これを真っ向から否定。そうかしらと思って、「佐助犯人説」および『夢の浮橋』の解釈も遠慮がちになった。

そんな中、最近源氏物語の最終巻である「夢の浮橋」を与謝野晶子の訳で読む機会があり、『夢の浮橋』のタイトルに含まれた最大の意味が、弟の得三氏のことであり、そこにアクセントとして妹尾君子さんのことを書いた『お栂』の原稿発見が加わっていることを改めて確信することができた。そこから新たに「『夢の浮橋』執筆動機の考察」というタイトルでラブレターズ用の原稿を書いているさなかに、mixiの谷崎コミュで「佐助犯人説」についてのスレッドが上がってきたのだ。

「佐助犯人説」について、コミュで書いた内容を含めて書いてみる。

谷崎の作品に『日本に於けるクリップン事件』というものがあるが、これは、マゾヒストの殺人を扱ったものである。ここで谷崎は、マゾヒストがそれまでのパートナーを殺害しようとする時は、必ず次の人が心の中にあると書いている。つまり、自分の希望する生活に対する障害になるものはなんとしても排除したいという意識が谷崎の中にあるように思うのだ。その際に、自分が犯罪者としてつかまってしまったのでは希望する生活を手に入れることはできないので、そのためには細心の注意を払う。ちなみに、『日本に於けるクリップン事件』では飼い犬に妻を襲わせるように訓練して実行させている。

そこで、『春琴抄』『夢の浮橋』について考えてみると、いずれもヒロインが受難する。『春琴抄』は顔に熱湯を浴びせられ、『夢の浮橋』では、心臓に持病を抱えるヒロインの胸に百足(むかで)を置くという未必の故意で殺害される。
そこには、谷崎としては何としても受難させなくてはならない理由があるわけである。

春琴の場合は、佐助は彼女の笑い顔が嫌いだったと作中で言っている。つまり、笑顔が見たくないのだ。現実の松子夫人の笑顔についてはどうだっただろう。当時の写真などを見ると、なんとなくわかるような気がしないでもない。

『春琴抄』のときは、松子夫人と同棲し始めた頃であり、これからこの人と飽きずに生活していく自信をつけたかったことと思う。それには、母が丹毒になった際にその顔を見たくないがために見舞いにも行かず、それが千代夫人に遷ることを嫌い、千代夫人にも見舞いに行くなと命令したかつての自分について、作中で試す必要もあったと思われる。つまり、熱湯をかけることで、笑い顔を見なくて済むようになると同時に、顔に損傷を負った人と暮らしていくことができるか、それを作中で実験したかったのだと思う。

ところがそういう状態になってみると、今度は春琴の気が折れてきた。これでは実母のイメージとは離れる。そこで、それならば自分が見なければ良いということで、自分の眼をつぶす、つまり、イメージと合わないところは見ないで、後は思う存分自分の頭の中で理想の女性に作り上げるという選択をしたのだと思う。これが私の『春琴抄』に対する解釈である。

つまり、春琴の顔に熱湯を浴びせたのは、実行者が誰かは別としても、明らかに佐助の意志であるということは間違いないという結論に達した。

一方、『夢の浮橋』の「母」は、受難する前に次のような変化が出ている。

母は金遣ひが細かい方で、僅かな金銭の出入りにも気を配り、私達にも努めて冗費を省くやうに戒めてゐた。特に澤子に対しては監督が嚴しかつたので、台所の帳面を預かる彼女は相当に気を遣つた。母がますます色つやがよくなり、頤が二重頤になりかけ、これ以上太つたら醜くなると云ふ程度に肥えて来たのは、父の生前に比べて気苦労がなくなつた証拠と思へた。

金遣いに細かく、嫁に厳しいというのは、贅沢に育ち、千代夫人のことを気に入っていた母とイメージが離れる。このことで、この「母」を排除することにしたのだと思う。

もちろん、これだけの理由では実行できない。そこには武(=得三)との生活を夢見る糺がいるのだ。それに対する障害は排除する必要があるのである。これが私の『夢の浮橋』に対する解釈である。

つまり、実行したのは澤子だとしても、そのように仕向けたのは糺であるという結論に達した。

それを裏付けるものに、次の文章がある。

その後考へるところがあつて、去年の春妻を離別した。その際妻の実家からいろいろ面倒な条件を持ち出されたのを、結局先方の云ふがまゝに承諾せざるを得なかつたいきさつは、あまり面白くもない事件だから書き記す気にもならない。

糺が作中で主張するように澤子が犯人だとしたら、この一文は入るべくもないのだ。

現実には、松子夫人およびその一族と別れることはもちろん出来なかったが、この小説の最後の一連の文章が印象に残る。少し長くなるが引用したい。

そして黒田村の芹生にゐた武を、當人もなかなか帰りたがらず、里親も離したがらないのを強いて連れ戻して、一緒に暮らすことにした。私は又、故郷の長濱で安らかな余生を送つてゐる今年六十五歳の乳母に、せめて武が十ぐらゐになるまで面倒を見てくれるやうに頼んだところ、まだ幸ひに腰も曲らず、孫子(まごこ)の世話をしてゐた彼女は、「さう云ふことなら、もう一度ちつさいぼんちやんのお相手をさせて戴きませう」と、お神輿(みこし)を上げて出て来てくれた。武の歳は今年七歳、当座はなかなか私や乳母になついてくれなかつたが、今では事情を理解してすつかり親しみ深くなつた。武は来年小学校の一年生になる。私に取つて何よりも嬉しいのは、武の顔が母にそつくりなことである。のみならず、母のあの鷹揚な、物にこせつかない性分を、どうやらこの児も受け継いでゐるらしいことである。私は二度と妻を娶る意志はなく、母の形見の武と共にこの先長く暮らして行きたいと考へてゐる。私は幼にして生母に死なれ、やゝ長じては父と継母にさへ死なれて、淋しい思ひをさせられたので、せめて武が一人前になるまでは生きながらへて、この弟にだけはあのやうな思ひをさせたくないと願ふのである。

登場人物を現実の人に当てはめてみると、頭の中では何をしたかったのかが浮かんでこないだろうか。ちなみに乳母は、当初糺の手記が書かれた頃には故人になっている設定だったのだが、最後で武の面倒を見る人が必要になり復活したということが、『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』に書かれている。

その426(2009.11.17)芋炊きとおっ切り込み

いも炊きにおっ切り込み秋は芋炊きにはまっていた。たまたま、タレを買ってきてやってみたところ、「これはおいしい」ということで、結構続いた。最近はさすがに飽きてきた感もあり、本格的に鍋物の季節になってきたことから、他の鍋物にシフトしてきているが、我が家では久しぶりのブームとなった。

一番気に入ったのは、栄養バランスの良さだ。よそってから上にゴマを少しふりかければ、これとわかめの味噌汁があれば「まごはやさしい」が揃う(魚は肉と読み替え(^^;)。脂肪肝対策にもよさそうだ。ただ、私が使ったタレは少し塩分が強すぎな感があるのが玉にキズ。

翌日には桐生名物おっ切り込みとか、山梨名物のほうとうとか、そういうものを入れて食べるのも良い(写真参照)。煮込まれたことで塩分が強くなったところにうどんが入るので、ちょうどいい。

ただねぇ、芋炊きをやると、里芋とごぼうの皮むきで生ゴミが一気に増えるのよ。作るときは、ゴミの日をチェックしてからだわね(^^;

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作ってしまいました(^^)

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