ラブレターズ

その420(2009.07.21)『愛すればこそ』

この作品は、大正10年12月に第一幕を、大正11年1月に第二幕、第三幕が発表された戯曲である。大正10年は、1月に小田原事件があり谷崎と佐藤春夫の間で激しい手紙の往復の後絶交し、お互いにこの事件を題材にした作品を発表し合っていた時期である。

内容は、悪人を自認し妻を虐待しているにも関わらず、いざ別れると言われると泣いてすがる男と、夫に虐待されながらも別れられない女、そういう彼女を愛している高潔な人格を自認する男の間で繰り広げられる人間模様である。
それぞれの登場人物が誰をモデルにしているかは一目瞭然だが、それを一般にわかりやすいように、今日のいわゆる“だめんず”に尽くすような設定にした上で、それぞれの性格を突き詰めたらどういうことになるかをシミュレーションしているような作品である。

この作品は、タイトルの良さもあって当時大ヒットしたそうだが、この作品以外にもこの時期の谷崎はこのような戯曲を立て続けに書いている。自分の意見をあえて書かず、登場人物に語らせていくことでことのなりゆきをシミュレーションしていくのにこの形式が向いているということもあったのかもしれない。

それにしてもこの作品、登場人物がそれぞれウニウニしていてじれったくなることこのうえないのだが、それでも、思わずどこかの国まで思い浮かべてしまうようなセリフも登場する。たとえば高潔な人格を自認している男の次のようなセリフだ。

「山田君は僕に勝ちました。なぜ勝ったかといえば、僕より悪人だったからです。山田君は自分の悪をどしどし募らせて、そしてその悪であなたの同情を買って行きます。悪いことをすればするほど、一層シッカリとあなたの愛をせしめて行きます。───僕は山田君の持っている悪という武器を、つくづく羨まずにはいられませんよ。」

一方、こういうセリフも登場する。

「あの人は悪い人ですし、始終嘘ばかりつきますけれど、その嘘の中にほんとうのことがあるように思います。山田は自分では嘘をつく気で、ほんとうのことを云っている時があるのでございます。私にはそれが悲しゅうございます。ほんとうのことを云うにしても、嘘のつもりでなきりゃ云えないような、山田という人が可愛そうでございます、……」

まったくその通りで、これまでいろいろ読んできて、谷崎にはそういうところが確かにあるように思う。

ところで、この作品は戯曲なので、最初に登場人物の名前が出てくるのだが、これを見て何か思い出さないだろうか。

橋本牧子  ある高官の未亡人
圭 之 助  牧子の長男
澄  子  圭之助の妹
三好数馬  圭之助の友人
山田礼二  澄子と同棲している男
秀  子  ある小劇場の女優
(以下略)

三好という名前は『細雪』にも登場する。妙子という姉妹の中の困ったちゃんが最後に落ち着いた誠実な相手だ。圭之助は澄子の兄なのだが、『細雪』の貞之助が義理の妹である妙子を心配しているように、圭之助は妹の澄子を心配している。義理と実の違いがあるが、立場的には似ている。『細雪』を書いた時、このあたりをどの程度意識していたのだろうか。

もう1つ気になる名前が「澄子」である。この役どころのモデルは言うまでもなく千代夫人だが、相手が落ちぶれても離れなかった、谷崎の叔父の彼女であるお寿美さんと共通するところでもある。
谷崎の乳母も谷崎の家が没落して、女中さんを雇えなくなっても彼女だけは亡くなるまで谷崎家を離れなかったし、松子夫人の妹である重子さんも、松子夫人の前夫の家に松子夫人、信子さんと共に住んでいたのだが、前夫の家が没落して、松子夫人も谷崎と同棲するようになっても、谷崎が「重子お嬢様をあのままあんなところに置いておくわけにはいかない」と主張して迎えに行くまでそこを動かなかった。

谷崎にとって、どうやら女性はセットで揃っていることが必要だったように思える。
叔父の妻と彼女については谷崎にとって二人で一人みたいなものだし、母と乳母も合わせて「母」だ。そう考えると、千代夫人とせい子さんは乳母と母、松子夫人と重子夫人には母と乳母というように、母と乳母それぞれのキャラクターを分割して割り当てていたように思える。晩年はそれが猫にも及び、双子の猫の片方をかわいがり、片方をいじめるという挙にも出ていたらしいが、これは、もしかしたら人間相手では問題が多いので猫に肩代わりさせたのかもしれない。


その419(2009.07.19)『恋を知る頃』

久しぶりに谷崎のことを書きたい。

この作品は、大正2年に発表された戯曲で、大店のだんながお妾に生ませた子が、まずは奉公人として本家に入り、異母弟を自らの欲望のために奉公人である恋人と共謀してあやめるという話である。異母弟はどうしようもなくわがままな子供なのだが、この異母姉に一目ぼれをしてしまい、彼女の魂胆をうすうす知りながら、進んで彼女の罠にかかることになる。

この作品を書いているときに谷崎が頭に浮かべていたのは、偕楽園の女中さんだったそうだが、もしかしたらお寿美さん(幼少時の叔父の彼女)のことが影響していたのかもしれないということが『幼少時代』に書かれている。

だが、それよりもこの作品を読んで印象に残ったのは、幼少時の谷崎そのものの少年伸太郎に対する乳母と母との位置関係である。これは本家で暮らしていた時の乳母と母を映しているように思う。
伸太郎がどんなにわがままを言っても動じず、それに対して更に興奮した伸太郎が、乳母に火熨斗を当てようとしたときには「これで火傷をしたら、ばあやは死んでしまいます」と言っていさめ、これを聞いた伸太郎は大声で泣いてしまう。
このように密接に接しながら伸太郎の暴力から他の奉公人を守り、一方で他の奉公人含むいろいろな人間から伸太郎を守っている乳母と、普段は奥にいて、あまり伸太郎のわがままが過ぎてうるさかったりすると出てくる母、そんな図が見えてくるのだ。

そこで思い浮かべるのが千代夫人のことである。
よく、谷崎は千代夫人に母を重ねてしまったために夫婦としてうまくいかなくなってしまったと言われるのだが、それは母ではなく乳母だろうと思うのだ。
時に女を感じてしまうほど美しく、それを意識するくらい普段あまりそばにいなかった母をイメージしたのならば、かえってインセストタブーは働かなかっただろう。朝から晩まで常に一緒にいて、どんなにわがままを言っても彼のことを誰よりも大切にしていた乳母と重ねてしまったからこそインセストタブーが働いたのだろうと私は思う。

だからこそ、小田原事件では千代夫人を手放せなかった。
翻意の理由を、千代夫人の妹であるせい子さんとの結婚が叶わず、そのまま千代夫人と別れてしまったらせい子さんとも会えなくなってしまうからだろうとする説もあるのだが、私からすれば、それは逆だろうと思うのである。
女性として愛して欲しいという千代夫人の希望に添えない自分に負い目があるため、千代夫人には幸せになってもらいたい。それなら千代夫人の義弟になって、そんな負い目を持たずに千代夫人と交際していければと思ったのがではないかと思うのだ。それができないのならば、とても千代夫人と別れることなどできないということだ。

同じことが和田青年との時にも起こった。
和田青年と不倫に堕ちてしまった千代夫人とはもう夫婦ではいられない。でも、千代夫人とは今後も交際していきたいので、和田青年との結婚を自ら取りまとめた。だが、たとえ自らが取りまとめたとしても和田青年と結婚するのでは、いずれ谷崎は千代夫人を完全に失うことになる。だから土壇場で壊しにかかった。
一方、その少し前、谷崎と佐藤春夫が和解した時には、千代夫人と佐藤春夫の間には友情が成立していた。谷崎はこの友情に嫉妬したのではないだろうか。自分が千代夫人と友人になりたいと。だから今度こそは千代夫人を佐藤春夫にもらってもらおうと頑張ったのではないかと思うのだ。
結局、その後の松子夫人との結婚により、佐藤家と直接交際を続けることはできなくなったが、千代夫人を慕う谷崎の末弟終平さんがその後も千代夫人が亡くなるまで千代夫人を追い続け、千代夫人に迷惑がられながらも時には兄に対する要望の取次ぎを頼んだ行動には、谷崎の意志も含まれていたのではないかと、私は勝手に思っている。


その418(2009.07.18)TRANSIT 2009ツアー 東京国際フォーラム(ネタバレ)

きのうは人見記念講堂ライブだったというのに今頃なのだが、6月21日のコンサートについて書いておきたいと思う(といってももううろ覚えだなぁ(^^;)。きのうのコンサートは抽選に当たらなかったので残念ながら行けなかった(T_T)

この日はコンサートの前に東京駅のドンピエール エクスプレスカレーでお食事。マサノリは特製ビーフカレー、私は安心野菜カレーにした。
でも、ここはホワイトカレーが有名なのね。どういうものかいまいち不安で頼まなかったけど、後で説明を読んだら、ホワイトソースに青唐辛子ということで、それにすればよかったと思ったわ(^^; 今度また機会があったらぜひホワイトカレーを食したいと思う。

この日のコンサートは早めの時間に始まったので、時計が何時を示すのか確認。どうやらスタート時の時間はリアルタイムではなく、夜始まりを想定しての時間設定のようだ。でも、ラストはリアルタイムだったような気がする。

例のコッパズカシイやつでは、「神田川」が出てきた。そういえば横浜のときも、「神田川」を歌うつもりが「岬めぐり」になってしまったような感じだったな。
ご当地ワードは何だっただろうか。ううっ、忘れている(^^;

田中さんへの、「奥さんと一緒で嫌じゃない?」という質問には、「そんなことありませんよ。もう慣れました」になった。

この日のMCで特に印象に残ったのは、「私のいないところでピンクレディーと言われているらしい」から始まるダイエットネタ。体力を落とさないダイエットの本、本当に出たらいいな。
その衣装についてもいろいろ工夫をしたことが語られていたけど、そういえばこの日の衣装は、裾の房というか、すだれというかが長くなっていた。スカートは超ミニのまま少し露出を調節という感じだろうか。

コンサートの後、ロビーで何人かの方と遭遇。時間が早いので、めずらしくマサノリもちょっと余韻に浸ってもよいという雰囲気だったが、残念ながら私の方が都合が悪く、またしても真っ直ぐの帰宅となった(T_T)


その417(2009.06.11)茹で鶏

中華街で食べた蒸し鶏がおいしかったので、そのソースを真似て作ってみた。

 真似たとはいっても蒸し鶏ではなく、茹で鶏。しかも、ソースにはクセのない油が使われていたのだが、とりあえずは家にあるオリーブオイルで代用という、なんちゃってもいいところなのだが、これが結構おいしくできて、結婚以来たぶん初めてマサノリから「うまい!」とお褒めの言葉をいただいた。
いやね、マサノリはおいしいときは箸が猛然とすすむだけで、そんな風にいきなり「うまい!」なんて言葉、私に対して発したことなかったのよ。だから驚いちゃった。でも、ちょっと嬉しかった(^^)

手順は次のとおり。

1. お鍋に水とネギの青いところの切れ端と生姜の薄切りを何切れかと、塩を入れて沸かし、煮立ったところで鶏のムネ肉を大きいまま入れて10分茹でる
(蒸し鶏にはモモ肉よりムネ肉の方がやはり向いているようだ。最初、モモ肉とムネ肉両方で作ったのだが、モモ肉だと切ったときに見た目も小さいし、何よりしつこさを感じた。)

2. 茹で上がったら、茹で汁と一緒に冷蔵庫で冷やし、食べる時に切って上にネギソースをかける。

3. ネギソースは、ネギをみじん切りにして、塩を混ぜオリーブオイルでのばす
(最初に作った時は、ネギのみじん切りにオリーブオイルを混ぜて、それに塩味をつけたが、どうもオリーブの香りがジャマになるので、オリーブオイルで作る場合はネギにまとまりをつけるためくらいの量にした方が良いようだ)

残った茹で汁は、炒め物のダシに使ったり、塩と醤油、胡椒を足してスープにしてもおいしい。


ただし、この時期、茹で汁はすぐに冷蔵庫にしまうか、使ってしまわないと、大変なことになる。というのは、最初に作ったとき、その茹で汁を使いたいと思い、鍋に残したまま置いてしまったら小バエが大発生してしまったからだ。

あわてて茹で汁を捨てたのだが、その後の排水溝の処理が不十分で、翌日にはさらに大量に発生。チョウバエという、茶色の羽のついた虫がグルグルと飛んでいる様は、かなり落ち込む。こうなると殺虫剤に頼るしかない。おすだけベープしかなかったのでそれでとりあえず対応。
でも、それでいったんは目の前から消えてもまた次々と羽化してくる。
ネットで調べたところ、排水溝に漂白剤や熱湯を流すことで、チョウバエの卵を処理できるということで、それをやったら、翌日にはチョウバエの大群からは解放された。

が、発生した小バエはチョウバエだけではなかった。
ショウジョウバエも大量にいたのだが、これがなかなかしぶとい。漂白剤や熱湯だけでは駆除できないのだ。
そこで、小バエホイホイを置いたり、小バエがたかりそうなところを重曹で拭いたり、台所の窓にたかっているショウジョウバエに泡状の漂白剤を吹き付けたりしたら、ようやく落ち着いてきた。


2回目の茹で鶏は、それからすぐだった。マサノリがムネ肉を2パック、つまり4枚買ってきたのだ。また作ってという無言の要求だ。
しばらくは茹で鶏はやりたくないと思っていたんだけど、これでは作らないわけにはいかない。この時は、前回の失敗の教訓から残った茹で汁はすぐに使った。


その416(2009.06.09)TRANSIT 2009ツアー 横浜(大いにネタバレ)

5月27日、横浜の最終日に行ってきた。

今回は、会場に行く前にまずは中華街で腹ごしらえ(^^)
菜香新館の飲茶フロアで、蒸し鶏やえび入り蒸しクレープ、あんかけチャーハン、酢豚等をいただき、デザートにはマンゴープリンをいただいた。特に蒸し鶏と酢豚は美味しかったな。蒸し鶏はマサノリが気に入って、家でも作らされることになった(これについてはいろいろネタがあるので、次の日記で書くとしよう(^^;)。

会場についたのは、開演ギリギリだった。おなかがいっぱいの状態で走る、走る。何とか間に合った。
あせりながらも、一応マスクを用意してあったので入場する前につけてみたが、つけている人なんていないので、すぐに外した(^O^)

席についてふと前を見たら、またしても顔なじみの方が2名(^^) コンサート中も、2名で体の傾きまでそっくり同じ動きで踊られているのが楽しく、後ろからしっかり楽しませていただいた(^O^)

時計のアクトでは、何かアクシデントがあった模様。マサノリは気付いたようなのだが、私は何かあったらしいということは気付いたのだが、残念ながら決定的場面は見られず。後でマサノリが何か言っていたが、その場面を見ていないので何とも(T_T)

時計が表示している時間は、だいたい前橋のときに書いたとおりだったが、「まずはどこへ行こう」は午前の時間だったようだ(^^;

例のコッパズカシイ思いをする演出では、今までやったことのない演出ということで、ユーミンがあれは? これは? と挙げるのだが、その都度、今井君がそれはいついつの何ツアーでやったとか、答えていくという問答が入っていた。
で、結局例の演出に入ってくのだが、その際にユーミン、「若者たち」の他に「岬めぐり」を例に出した。しかし、残念ながら今井君には通じず(^^; 「でも、ここに来ている人は知っていると思うよ」とユーミンの弁。確かに(^^;
ご当地ワードは「横浜たそがれ ホテルの小部屋」等だった。

アンプラグドの田中さんは、「慣れました。もう慣れました。」と2度。もうこの話はいいよという感じだろうか(^^;。

その他には、会場の神奈川県民ホールについてはユーミンが一番好きな会場ということで、初めてこの会場でコンサートをした時に、3階の方から見た山下公園の思い出などを話されていたのが印象に残った。

コンサート終了後、ロビーに出たら、楽屋に挨拶に行くらしい安室ちゃんに遭遇(といってもマサノリだけ。私は気付かず(T_T)。前橋ではどうもというお話しなどがあったのかしらね。
その後は猛ダッシュで帰宅。前橋の時もそうだったけど、マサノリは何でそんなに急ぐんだろう。もう少し余韻を楽しみたいのに(;_;) まあ、横浜駅で購入した崎陽軒のシュウマイを食べながら、家でおさらいをしたわけだけど。