ラブレターズ

その340(2007.05.04)奇縁まんだら―佐藤春夫の回(その1)

今日の日経新聞の「奇縁まんだら」で佐藤春夫が採り上げられている。
今朝、ふるだぬきさんから連絡をいただいて、早速購入した。

記事を手にしてまず目に飛び込んできたのが例の横尾忠則の画。笑っちゃうくらいそっくり(^^) まあ、写真をもとにしているのだから当たり前といえば当たり前かもしれないが、この顔は谷崎以上に難しいと思う。非常に特徴があるのだが、かといってその印象がどこからくるのかつかみにくい。非常に表現しにくい顔なのだ。

谷崎は男嫌いで女性好きと一般に思われているが、そうでもない。実は美男も好きだ。女性については意外に必ずしも美しさが第一というわけではなく、特に『痴人の愛』以降はその容姿よりも小説の素材になるかならないかが中心だったが、男性についてはこれは本当に美男が好きだったようだ。それは末弟の終平さんも同じで、岡本時代など、終平さんが美しい若者と知り合いそれを谷崎夫妻に紹介。するといつのまにか谷崎夫妻と昵懇になるパターンがあった。和田青年はその典型だ。

実は佐藤春夫も美しい青年だった。佐藤春夫については自然主義全盛の時代に文学的血族を見つけたということで、谷崎は特に佐藤春夫をかわいがった。その関係は師弟というより親友といっていい。小田原事件で絶交になったときも、修復に動いたのは佐藤春夫だが、谷崎もその手紙にすぐ飛びついた。実は千代夫人のことよりも、この二人の友情の方が強かったのかもしれない。

今回の奇縁まんだらは、筆者瀬戸内寂聴が『女子大生・曲愛玲』(瀬戸内寂聴全集〈1〉短篇(1)に収録。この本には『夏の終り』も収録されている)で新潮同人雑誌賞を受賞したときに、佐藤春夫が強く推してくれたということを聞いて、佐藤春夫のところにお礼に出向くことになったところから始まる。そして例の小田原事件に触れて、対面のシーンへ。
で、小田原事件のことなのだが、ちょっと端折って書いてるためか、それとも何も知らない読者に読みやすくするためか、次のように書かれている。

「千代と春夫の恋に気づいた谷崎は春夫と絶交し、一時、春夫は谷崎の家を追われていた。」

これはちょっと違うだろう。小田原事件の後なんやかんや手紙のやり取りの末、佐藤が絶交の手紙を書いたのではなかったか。

さて、いよいよ佐藤家でのシーンだが、このとき応対に出た千代夫人があまりに肝っ玉母さんに変化していたため、ロマンスをイメージしていた筆者は驚く。次に、佐藤春夫に対面し、賞品の目覚まし時計を佐藤春夫に見せたら、時計を手にとり開いたり閉じたり、鳴らしたり子どのようにいじり回し、千代夫人にも見せてさも欲しそうな表情をするというところで「つづく」になっている。
佐藤春夫がこういうものが好きなのは、以前書いた瀬戸内寂聴の『つれなかりせばなかなかに』にちらと書かれていることからも伺える。来週の記事が今から楽しみだ。

ちなみに、今週のタイトルは「佐藤春夫、燃え上がった恋」。寂聴語録は「ロマンスのヒロインも歳月は肥ったおばさんにする」だ。
ウッ 最後の方、耳が痛い(^^;

現佐藤邸 ところで、その佐藤春夫旧居跡、ついに行ってきた。谷崎が一時住んでいた目白台ハウスからはほとんど直線。目白通りを渡って路地に入ると目の前に見えてくる。本当に目と鼻の先だ。道路を渡るために待っていたら、やはり同じように待っている文学少女が一人。こんなところを渡るということは、ひょっとして目的地は同じか? しかも目白台ハウスからの直線コースだ。と思ったら、案の定そうだった。何か話しかけたくなったが、私が案内板の写真を撮っている間に彼女は行ってしまった。

写真は、案内板と、奇縁まんだらで話の中に出てくる勝手口(当時の家とは違うわけだが)方面から写した現佐藤家。さすがに大きく、3棟くらいがつながって一つになっているような作りだったが、表札は「佐藤」のみだった(案内表示の部分をクリックすると、案内表示が拡大できます)。

ところで、このページの右側に見慣れないうさぎちゃんがいるので何だろうと思っている方もいらっしゃるかもしれない。
実は、ラブレターズでペットを飼うことにしたのだ。名前は「ピラピョン」。BlogPetというサービスに加入したのだが、BlogPetって何? という人は、ピラピョンの下の「?」マークをクリックしてね。


その339(2007.05.03)観世榮夫さん交通事故

今日、標題のニュースを目にした。ご本人が運転していたそうだが、79歳だそうだ。この事故で、本人は怪我で済んだようだが、助手席に乗っていたマネージャーさんは残念ながら亡くなられたそうだ。なんとそのマネージャーさんも70代だったそうだ。
それにしてもこんな高齢の、しかも有名な能楽師が自分で車を運転していたなんて…しかも助手席のマネージャーさんも高齢とは…

観世さんといえば、谷崎の娘婿(松子夫人の連れ子の夫)で、以前ドラマで舅である谷崎の役を演じたことがあった。そのドラマは、終戦直前、疎開中の谷崎のところへ永井荷風が原稿を預けに来たときの話を再現したものだったが、本人に直に接していた人物の演技は谷崎の律儀な話し方を再現しているようで、一般的なイメージとは離れていたが、自分を文壇に引上げてくれた恩人に対する谷崎の姿が表現されていた。

それにしても、谷崎生誕120余年、娘婿も当然それなりの年齢であるわけだが、「違いのわかる能楽師」(って何年前だ(^^;)がいつのまにかこんな年齢になっていたのね。って、よく考えたら私の父親と同年代なのね。そりゃ年取るわけだわ。


その338(2007.04.24)目白坂

関口台22日、前回の『奇縁まんだら』に出てきた目白台アパートと、「翳りゆく部屋」のパイプオルガンのある関口カテドラル(東京カテドラル、現在外装大改修中)、サイトで調べた佐藤春夫旧居跡を訪ねるべく、出かけてきた。

この日はいいとも増刊号に森大衛先生が出演されるということで、午前中いいともを見て、お昼を食べた後出かけるつもりで支度をしていた。が、うっかりしてテレビの前に行くのが遅れてしまい、あわててテレビの前に行ったときはすでに先生出演後。マサノリに「バッカじゃない」と言われてしまった(;_;)。その後は予定どおりお昼を食べた後、買い物ついでにひとりで出かけた。

目白台ハウスまず、地下鉄有楽町線江戸川橋駅を降り、目白坂を上る。静かないい通りだ。ほどなくして目白台ハウス(『奇縁まんだら』では目白台アパート)が左手に。いやー、これは目立つ。さすがに直ぐわかった。写真の左側にはソテツ(椰子? 棕櫚? わからない(^^;)の木が1本あるのだが、それも入れて撮ったつもりだったが残念ながら入らず(^^; 駐車場には高級そうな車がズラリと並び、入り口からはセキュリティのしっかりしたマンションらしい設備が見えたが、写真で俯瞰すると学校のように見える。1962年築8階建。今でこそマンションで8階建はそんなに大きくは感じないけど、当時は遠くからでもさぞかし目立ったことだろう。そこからさらに真っ直ぐ上っていくと左手に椿山荘、目の前は東京カテドラルだ。

東京カテドラルと、ここまでは順調そのもの。が、そこからが大変だった。
「さて、次は佐藤春夫旧居跡はどこかしら。前回調べたサイトには椿山荘の斜め前と書いてあるけど」って思いながら探すのだが、いくら探してもそれらしい家は見つからない。
「もう無くなっちゃったのかしら」
などと思いながら、疲れてきたので講談社野間記念館で一休みすることにした。

野間記念館の庭この日は「村上豊の芸術世界~夢幻、おんな、郷愁~」展という企画展をやっていた。
昔話の挿絵など、ぼんやりした輪郭のやさしい絵は、とっても好み。庭を眺めてゆっくりできる休憩コーナーでは村上 豊氏が「徹子の部屋」に出演されたときのビデオが流されていた。その絵と同じように優しそうな表情の人だ。

ドルフィン野間記念館を出ると、引き続き佐藤春夫旧居跡を探すべく目白通りを行ったり来たりしたが一向に見つからず、そのまま新目白坂を降りて江戸川橋駅方面へ。途中でドルフィンというレストランを見つけたので写真に収めた(^^)。

でも、このまま帰るのは何となく惜しい。ついでに江戸川公園を散策してみようと、神田川沿いの道を椿山荘方面へ再び上って行った。このあたりは桜並木で、季節には散策客も多いのだろうが、桜の木はすっかり緑色。入り口あたりは臭いが気になるのと、夕方近くなってきたので羽虫が出てきたのとで、あまり和めず。でも、途中で関口台町小学校の児童が植えたという色とりどりの花が見られたのにはホッとした。これで川がもう少しきれいだったらいいのに…。

さらに歩いていくと椿山荘冠木門から椿山荘庭園を散策。七福神や三重塔を眺めたり滝のトンネルをくぐったりして、再び江戸川公園に出てそのまま早稲田方面へ。このあたりは印刷会社が多く、神田三崎町から神保町界隈に似ている。新目白通りを再び江戸川橋駅へ。疲労もピークに達し、時間もリミットになったので佐藤春夫は次の機会にと階段を降りようと思ったが、ふと見たら江戸川公園の入り口に案内板が…。ムムッと思って良く見たら、なんと、佐藤春夫旧居跡に赤丸が…。最初に江戸川橋で降りて、目白坂に行く途中でこの案内板に気づけばこんなに苦労しないで済んだのだ。
目白坂はそんなに長くないし、せっかくだからまた戻ろうかと思ったが、時間的にも体力的にもやはりリミットになっていたので、残念だけど、そのまま帰途についた。

案内板帰宅後いろいろ調べてみたところ、ワーカーズフォーラムMOCというサイトの中の大人の遠足 小日向・音羽・関口編というページに詳しい記述があった。これによると表札が佐藤方哉氏になっているとのこと。佐藤春夫と千代夫人との間に生れた子だ。これはぜひ近いうちに行かなくては(^^)
谷崎がこの地に越してきてから佐藤春夫が亡くなるまで半年余り。二人の文豪の最晩年にあたるが、どの程度付き合いがあったのだろうか。もっとも、谷崎がここに越してきたのは松子夫人の連れ子で細雪の次女幸子の娘悦子のモデルになった観世恵美子さんが夫の観世榮夫氏とここに住んでいたからという理由らしいが。
なお、佐藤春夫が住んでいた家は和歌山県新宮市に移築され、新宮市立佐藤春夫記念館になっている。

そうそう。『奇縁まんだら』の2回目の挿絵の元になった写真だが、新潮日本文学アルバム谷崎潤一郎の中に大きく掲載されている。3回目の絵の肖像の方は、昭和39年春、安田靫彦が書いたもの、棟方志功の版画については1962年発行の『瘋癲老人日記』を見ても見当たらなかった。それで再び『新潮日本文学アルバム谷崎潤一郎』を見たら、見つかった。同じ棟方志功の版画でも、『鍵』の方だった。千萬子さんにとらわれて勘違いしてしまった。
さらに、この本の一番後ろには瀬戸内晴美によるエッセイが寄せられている。『三つの場所』というタイトルなのだが、今回の『奇縁まんだら』で書かれている内容も多く含まれている。
残るは1回目の別の文字にみえるHOのイニシャルの入った絵だが、これも記憶があるのよねぇ。なのであれからいろいろ探しているんだけど、これはなかな見つからないわ(^^;


その337(2007.04.17)奇縁まんだら―谷崎潤一郎の回

日経新聞連載の瀬戸内寂聴のエッセイ『奇縁まんだら』で、先月3回にわたって谷崎が採り上げられたということで、ふるだぬきさんがスクラップを送ってくださった。

挿絵は横尾忠則。写真から起こしているらしく、それが実に見事だ。2回目の絵は新潮文庫の著者紹介で見慣れている顔で、3回目の絵には肖像画とともに『瘋癲老人日記』(たぶん)の棟方志功の挿絵に出てくる女性の絵がこれまたそっくりに描かれている。3回目の肖像画に瘋癲老人日記の女性が出てくるのは、この回でそのモデルとなった渡辺千萬子さんが登場するからと思われる。

2回目の冒頭で、その横尾忠則氏が
「谷崎は難しいね。たいした美男子だなあ。ハンサムって描き難いのよ、特徴がないから」
と瀬戸内寂聴に電話で言っているが、2回目の絵などその最たるものだろう。それをここまで描くのだから、画家ってすごいねぇ。
あ、谷崎が美男? と思うムキもあるだろう。谷崎というと太ったイメージがあるから美男とは一瞬思えないのだが、若い頃の写真などを見るとやはり美男だ。
太るとどうしても印象が拡散するからねぇ(^^;

さて、記事の内容だが、1回目は、瀬戸内寂聴が夫と娘を置いていきなり駆け落ちして(といっても相手は来なかった)京都で暮らし始めたときの話だ(この恋愛事件の顛末については氏の作品『夏の終り』に詳しい)。京都の出版社に就職し、当時南禅寺にあった谷崎の家「前の潺湲亭」で松子夫人に会ったときの話、2回目は、谷崎の弟子を自認する今東光と谷崎のエピソードなどや、瀬戸内寂聴が東京の目白台アパートに住んでいたとき、谷崎もそこに部屋を借りていたという話が出てくる。このときやはり谷崎の弟子を自認する舟橋聖一に、谷崎と会えるようお願いするところまで。3回目はようやく会えた谷崎の印象が書かれている。

ようやく会えた谷崎は右手の冷感のために指先のない手袋をしていたのだが、これは千萬子さんが作ったものだ。普段の谷崎が地味な格好をしていたとことは『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』にも詳しいが、そこへもってきてあの江戸商人言葉なものだから、そりゃイメージとは随分違ったであろうことは想像に難くない。

この目白台アパート。当時その近くに住まれていたふるだぬきさんによると、当時としては大きなマンションだったそうだ。こういう人たちが部屋を借りるくらいだからそれは想像に難くない。
さらにふるだぬきさんの情報によると、目白台アパートのそばには関口カテドラル。ここには「翳り行く部屋」の音を収録したパイプオルガンがあるそうだ。
で、私もこの機会に目白台アパートについて調べてみたら、佐藤春夫もその近くに住んでいたのねぇ。椿山荘のななめ向かいに佐藤春夫旧居跡があるそうだ。これはぜひ行ってみなければ(^^)


その336(2007.04.01)素材ハンティング

二ツ宮28日、4月の壁紙のために素材ハンティングに行ってきた。
場所は地元大宮の郊外にある二ツ宮という所。ここは以前自動車試験場があったところで、埼玉出身で、ある程度の年齢になっている人にとっては思い出深い場所だ。
本当はユーミンがどこのことを歌ったのかとか、そういうところから写真を撮ってくるのがいいのかもしれないが、あえて私の頭に浮かぶ風景を題材にした(遠出ができないだけともいう(^^;)。

それにしてもこの二ツ宮、私にとっては免許証を交付された場所であるだけでなく、新卒で入った会社を退職した後、午前中はここにある自動車教習所に行き、午後は大宮駅近くのワープロ教室にワープロを習いに行くか、でなければやはり大宮駅近くのホテルでお皿を洗っていた。家と教習所とバイト先の移動はもっぱら自転車。私が今まで生きてきた中で、最も活発に活動していた時期でもある。また、まだ会社に勤めていた頃から週末は大宮駅にあるテニス教室でテニスを習い、たまに日曜はやはりこの二ツ宮にある健康保険組合のテニスコートでテニスをしていたという、実に思い出深い場所だ。今思えば少し遅めの青春だったかなぁ。

当時、4月になるとここでテニスをしていた。
春といってもまだ寒くてねぇ。しかもさえぎるものがないからボールが風に流されて、風上から打つと剛速球、風下から打つとネットを越すのがやっと(^^;
休む番がまわってくれば即メンバーの車の中へ(だって寒いんだもの)。
あんまり風が強いときはゲームにならないのでボレーの練習に切り替えたりしたっけ(^^;
でも、この日は上着を着なくても暖かく、風もそんなに強くなかった。いかに今年が暖かいかを実感した。

教習所で、素材ハンティングだが、二ツ宮のバス停でバスを降り、そこから歩いて行った。
私が盛んに通っていた頃はここに自動車試験場があったが、それが鴻巣に移ったとき、近くにあった代書屋さんも一緒に移動した。それ以来、なんとなくこの場所に来る気にならず、すっかりご無沙汰していたのだが、代書屋さんのあったところには今は別のお店が入っていた。
自動車試験場の向かいには自動車教習所。印のついている教習所は私が通ったところだが、今は別の名前の教習所が入っていた。
でも、規模が小さくなっているのか、国道沿いの部分はレストランになっていた。この教習所は路上に出るときは必ず坂道発進なので、ここの卒業生は坂道発進には困らないと、当時教官がよく言っていたが、そんなことを思い出しながら東京健康保険組合運動場と錦ケ原ゴルフ場を突っ切り一路荒川へ。

素材ハンティングの一番の目当ては川縁から見る夕陽だった。それに合わせて家を出たのは夕方4時少し前。行程は夕陽との競争になった。
やっとの思いで荒川縁に着いたら大量の羽虫が渦を巻いていた。子供の頃はこんなのあまり気にしなかっただろうと思うのだけど、これはたまらない。自分の腕で口と鼻をガードして大急ぎで場所探しをしていたら、川に背を向け茂みに頭を突っ込むようにして本を読んでいる人が目に入った。小路を挟んだ川側には鍋がかけてあった。突然目に入ってきて驚いたが、ここで暮らし始めてまだ日が浅いのだろうなぁ。

そうそう。壁紙の元になった写真で、もう1枚捨てがたいのがあった。明るさがこれでよければこちらにしたのだけど…。でも、やはり惜しいのでこちらに掲載。

壁紙候補

川の写真を撮った後は、せっかくなのでよく使った出版健保のコートを撮影して帰った。夕陽はすっかり落ち、今度は迫ってくる夜との競争だ。シーズンオフの平日で、ところどころにロープが張ってある、そんな広大な運動場で、真っ暗な中一人で歩いているなんて嫌だ。行きと同様大急ぎで運動場を突っ切ったが、教習所から路上に出るところで信号を渡った。その際に、その坂道も撮影。もうすっかり夜になっていた。久しぶりにいい運動になった。

出版健保コート 坂道から教習コースを臨む

2007-04-03
1日の夕方に壁紙を修正しました。これで壁紙候補になった写真を使うより、自分的にはいい出来になりました(^^)