ラブレターズ

その330(2007.03.07)ひな祭り

3月3日は桃の節句。この日は同い年の女性たちと女性だけのひな祭り会に行ってきた。
場所は恵比寿。「はいばな(南風花)」という沖縄料理のお店だ。

お料理は黒豚アグーのコラーゲン鍋のコース。
お年頃の女性ばかりなので、コラーゲンと聞くとそれだけで期待大(^^)
コラーゲンのかなり濃厚なスープを弱火で温め、その中に、大量の沖縄の島野菜を、スープが溢れないように注意深く入れていく。弱火にしているのは、スープがかなりドロッとしているので火を強めるとこげてしまうからだ(これは最初にお店の人から説明があった)。そしてアグーとやんばる若鶏を入れて、待つ。ひたすら待つ。
でも、そこは同い年の女性たち。話すことは尽きない。コラーゲンを効果的にするという飲み物を飲みながら、これまた夢中で時間を忘れてじゃべりまくった。
私もこの日は花粉が飛びまくっていて、外にいるときは目がショボショボ、鼻がムズムズだったのはすっかり忘れてよくしゃべった。

さて、このお鍋。スープはコラーゲンでドロッとしているのだが、意外に脂っこさは感じない。というよりあっさりしている。でも味はうまみが凝縮していて、口に含んだ瞬間にほのかなニンニクの味を感じ、今どきのラーメンを思い浮かばせる。非常に後を引く、クセになる味だ。そこに島ニンジンや見たことのないきのこやなどの沖縄の野菜と、アグー、やんばる若鶏などのお肉が大量に入るのだが、食べだすとそのおいしさにあっという間になくなる。お鍋の具がなくなると、そこに緑色の沖縄長命草そばが入る。これまたスープと良く合ってとってもおいしい(^^) 最後はデザートまでついて大満足。その後もおしゃべりは尽きず、再び飲み物をオーダー。ここに至って料理を写真に撮っていなかったことに気づき一同ショック。今ある飲み物だけでも撮りましょうと、遅まきながら一同携帯を取り出しそれぞれの方向から飲み物を撮影した。
さらにその後も話は尽きず、6時半集合でそのまますぐお店に入ったというのにいつの間にか時間は10時を過ぎ、あわててお開きとなった。

そして翌日。夜遅かったにも関わらずお肌は心なしかしっとり。
アグーって、うまみ成分であるアミノ酸は多いけど、コレステロールは普通の豚の4分の3なんだって。珍しい沖縄の野菜も四季で色々変わるそうだし、これは季節ごとに食べるっきゃないでしょう! ということで、これからも定期的にアグーを食べに集まることになった。うーん、楽しみ(^^)

飲み物


その329(2007.02.19)徹子の部屋 in 苗場

17日もネットパーティーでライブ鑑賞。当然夜中のインターネットラジオも見た。

実は前の週、8日にエディカラーのオフ会で夜飲んで(って、私はほとんどウーロン茶だったけど(^^;)、9日、11日はネットパーティーだった。いずれもとても楽しくすごしたのだが、12日はさすがに爆睡。その後は規則正しい生活を心がけてはいたのだが、年齢のせいか、はたまた日ごろの運動不足のせいか、体力の回復に時間がかかってしまった。

そんなわけで、今回は体力を温存するべく、チャットの方は、友人のサイトの方は今回はお休みして、インターネットラジオの公式のチャットは、ほとんど発言せず、ひたすら見ていた。

17日のリクエストコーナーでは、関係者からのリクエストがあった。1組目が堀健とビビル大木のいつものコンビ。ステージに上がるなり、堀健が「ポップコーンパーティー」と言い、いつものとおり楽しい会話。リクエストは「瞳を閉じて」だった。
次に登場したのが黒柳徹子。事前に派手な格好でというユーミン側からのリクエストがあったらしく(一応抽選であたったことになっていたのだが、徹子さん、ばらしちゃった(^^;)その注文に応えて派手な色の衣装の上に裾を長く引きずる白い毛皮様のコートを着て、頭はいつものたまねぎではなくカーリーのような華やかな髪型で登場。ブリザーディウムのあの暑い中、あの格好でいたなんて、すごいわぁ。
ご本人も、「寒いだろうと思ってこれを着てきたら、この中あたたかいのねぇ」とおっしゃっていたが、それでもお顔には汗はない。ご本人によると、暑さには大層強いそうで、砂漠の中で「少し暑いですね」と言ったとき、「60℃あります」言われたというような話を披露されていた。リクエストは旧正月ということで「A HAPPY NEW YEAR」だった。
そうそう。徹子さんはステージ上で青森に疎開していた頃のお話を機関銃のようなスピードでお話しになり、3日で覚えたという見事な青森弁も披露された。もう笑いが止まらないくらい楽しかったのだが、徹子さんがあまんりお話しになったのでコンサートも少し延びて、夜中のインターネットラジオの開始時間も延びた(^O^)

夜中のインターネットラジオは、その日、公式の打ち上げということで、大勢のご招待客が歓談されるその会場から生中継。でも、公式なので結構気を遣うらしく、開会の挨拶のときは司会者が画面にクイズを出したまましばらく席を外すという前代未聞の事態に。チャットに参加している人たちは「放送事故?」などと冗談を飛ばしながらも戸惑っていた。

でも、最後の方でユーミンが徹子さんとともに登場。「生徹子の部屋」となった。徹子さんはチャットにいたく感動。「あら、すぐ画面に反応が出てくるのねぇ」などと興味津々の様子だった。お話の方はユーミンがほとんど聞き役(^^;。

そんな中で、ユーミンがザ・ベストテンに出演したときのお話が印象に残った。徹子さんに「今までテレビにお出にならなかったのになぜ突然お出になられたのですか?」と聞かれて「夫に言われて」とユーミンが答えたら、「まぁ、あなたはご主人が出ろとおっしゃれば出るの?」と言われたそうで、そのときにユーミンは「怖い人だなぁ」と思ったそうだ。でも、徹子さんはそういうことではなく、ただ単に、「夫に言われて」というのが珍しく、思わずそういう発言になったそうだ。

そういえば、ウソラジオでも、それまでユーミンがともすれば喧嘩を売っているように聞こえる発言をしていたと思ったら、2回目のときは徹子さんも結構キツイことを言ってたなぁ。「ご自分で生誕とおっしゃる方は初めてだ」とか(^^;;;;;;
あのオールナイトニッポンTVをきっかけに、見る側にヒヤヒヤ感を抱かせる、不思議な面白さを醸し出すコンビが誕生したようだ。

さて、いよいよ今夜は最終日。17日より長丁場になるだろうが、目一杯楽しみたいと思う。


その328(2007.02.06)苗場1日目ネット参加(ネタバレ)

いよいよ苗場が始まった。今年は残念ながら現地まで行けないので、ネットで参加。ユーミンファンの友人たちとチャットをしながらネットパーティーでライブ映像を見た。

スタート曲は、なんと1月の壁紙! 夜中のインターネットラジオでも意外という声が多く聞こえたが、本当にビックリ。でも、好きな曲なのでとても嬉しかった。
実は、これ以外にも12月の壁紙の曲など、私の好きな曲が結構入っていて、これもとても嬉しかった。だけど、肝心のユーミンの声がどうも調子が悪かったようで、1曲目はオールファルセット(^^; 特に

恋は突然 終演のアナウンスで
電波の届かない エリアにいるというの

という歌い出しが本当に恐る恐るという感じで…
 他の曲でも、少しキーの高い曲はファルセットになってしまう。それがまた私の好きな曲だったりして(^^;
恒例の「BLIZZARD」は、逆にキーを下げすぎて、これまた歌いにくそうだったのが何とも(^^; 情報によるとユーミンはお風邪を召しているそうで、これから尻上がりに調子が出てくるのかなと期待している。

次のネットパーティーは、金曜日。夜更かしに備えて体調を整えておこう(^^)


その327(2007.01.29)谷崎と千代元夫人―離婚後の付き合い

書簡集を読んでいるうちに、興味深い手紙が見つかった。
昭和11年9月3日、佐藤春夫様方谷崎あゆ子宛の手紙なのだが、一部を抜粋する。

○アトリエ社より出版のことにつき、お母さんから手紙を貰つたが、詳細は菊池寛氏へ直接返事を出しておいたと云つて下さい。小生の一存では簡単に諾否を云へず、その理由は長くなるから書くのは止める。三笠書房の方はすでにキツパリ断りました。

千代元夫人から仕事がらみの手紙が来ている。その返事をあゆ子さんにしているのだが、この手紙にはその他にも佐藤春夫宛の伝言も書かれている。
その前には佐藤春夫一家へご一同様という宛名の手紙があったのだが、昭和10年以降の佐藤家方面の手紙は、鮎子さんと佐藤春夫の父である佐藤豊太郎氏宛ばかりだ。鮎子さんへの手紙には千代夫人への伝言が多く、佐藤豊太郎氏宛の手紙には佐藤春夫宛の伝言が多い。
実は、瀬戸内寂聴著『つれなかりせばなかなかに―文豪谷崎の「妻譲渡事件」の真相』の後ろに、松子夫人との対談と痴人の愛のモデルであるせい子さんとの対談があるのだが、その松子夫人との対談の中で千代夫人のことを松子夫人がこう言っている。

さっぱりしているんです、ほんとに。その話(瀬戸内寂聴が、佐藤春夫と千代夫人のエピソードを話した)を伺っていて思い出したんですけれど、最初、つきあうという約束になっていたんです、佐藤さんにも、千代子さんにも。そうしましたら、結婚して式を挙げてからのことだと思いますけれども、時期は忘れましたが、都合でひょっこりそういうことになったんだと思いますけれども、「お千代に御飯をしてもらおうよ」と言い出したんです、佐藤さんへ行って。

このときついていった松子夫人はとても居心地が悪かったそうだ(そりゃそうだ)。結局その後谷崎が「やっぱりああいうことはしないほうがいいね」と言い、それから何かのことから、あんまりおつきあいしなくなって、だんだんと娘(鮎子さん)だけになったと言っている。
『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』で繰り返されるパターンはここで始まっていたのか(^^;
なので、手紙についても松子夫人の手前佐藤夫婦宛へは極力出さないようにしていたのかもしれない。
ひょっとすると、千代夫人と離婚後結婚した丁未子夫人とのあまりに冷たく映る離婚劇も、松子夫人の「み気色」に配慮した結果だったかのもしれない。おそらく松子夫人にとって谷崎が丁未子夫人と結婚したことは、谷崎の歴史から抹消したいくらいだったと思うから。

それにしてもこの対談、取り繕うところのある松子夫人の話の矛盾点を瀬戸内寂聴がうまく浮き出させるんだなぁ(^^; 次のせい子さんとのシャッキリした対談と併せて読むと、その性格の違いがハッキリ出ていてとても面白い。

千代夫人に御飯してもらう件については、その前に終平さんと末子さん(谷崎の兄弟の下ふたり。千代夫人がいたときは谷崎が預かっていたが、離婚後一時次男の精二さんが預かっていた)が佐藤家に千代夫人の手料理を食べに行ったそうだ。そのことについて谷崎が精二さんあての手紙(絶交の手紙になった)に

打ちあけて云ふが、お前は弟妹思ひのつもりでも、弟妹たちはさう感じてゐないらしいのだ。終平など、お前の家に於ける待遇の悪さには始終不平を云ひ、何一つ構つてハくれず、唯おいてもらつてゐるばかりだと、お千代に始終さう云ひ、お千代もあれでハ可哀さうだ、ひどすぎると云つていたものだつた。終平ハ、ソレで時〃佐藤の所へうまいものを食ひに行つたらしい。鮎子が世話になつてゐる上に終平まで食ひ倒しに行つては義理が悪いと思つたが、厳格にやるなら監督もきびしくしてもらひたかつた。

などと書いている。そりゃ千代夫人のように見事に世話するなんて、なかなか出来ることではないのだから、これについては精二さん方に気の毒だと思う。それに、終平さんが千代夫人のところに行きたがる理由はそれだけではないと思うし(^O^)。でも、その後谷崎自身が「お千代に御飯してもらおう」などと考えたのだから、千代夫人も喜んで御飯していたのだろうなと思う。

ということで、谷崎は、離婚後も千代夫人とは付き合いたかったのだと思う。
だって千代夫人については、ある一点を除いては文句なかったのだから。


その326(2007.01.26)谷崎の手紙発見される

今週、にわかに谷崎関係のアクセスが増えた。なぜだろうと検索してみたら、こんな記事が…

佐藤春夫への手紙の末尾に「千代殿へ」という記述があるというものだが、離婚後の千代夫人への手紙の発見は初めてだということが書いてある。さらに、千代夫人にまで借金していたというのは初耳という記事もある。

あら、そうだったかしらと思って全集の第25巻(1983年発行 中央公論社)の書簡集を引っ張り出してみたところ、その時期は佐藤春夫方の鮎子さんあての手紙が頻繁に出されている。この中に千代夫人への伝言も含まれているわけで、千代殿へとは書いてないまでも、それで用は足りているのだ。
さらに、千代夫人への借金についてだが、昭和12年8月31日付の佐藤春夫様方谷崎あゆ子宛の手紙に

先日此方でお母さんに遇ひ、お金のこと聞いてゐたので、今日五十円送る用意をしてゐたら急に入用のことができ金が足らなくなりました、然し留守中困るだらうと思ひ三十円だけ先へ送ります。あとは一週間ぐらゐのうちに送る。

という記述がある。なので、特別目新しいことでもないように思う。
千代夫人にまで借金していたのは初耳という記事については、鮎子さんの養育費という見方もあるし、これが妥当かとも思われる。さらに佐藤春夫にも借金をしている。それは昭和5年2月4日の谷崎精二(谷崎潤一郎の弟)宛の書簡に書かれていた。谷崎窮乏の理由もわかるので全文引用する。

再度の御手紙拝見
萬平氏の件まことに気の毒と思つてゐるが、当方も今困つてゐて余裕かない、何しろあんまり大きな家を建てすぎて借金は出来、そのうへ諸設備ぜいたくなため月〃の経費がかさみこれでハとてもやりきれぬから売つて小さな家と買ひかへる積り、もうもう御殿みたいな家はコリコリだ、そんな訳で近く整理がつけバ又何とでも都合もつくが今のところは駄目だ、尤も二百円ぐらゐなら月末頃にハ何とか出来ると思ふが又この前のやうに手ちがひになると困るからハッキリした約束はいたしかねる
右事情くはしく萬平氏へ話してもらひたい、僕自身がすでに佐藤から千円も金を借りた始末だ

昭和初年、谷崎は円本景気で大変豊かな生活を送り、2度の中国旅行をし、豪邸まで建てたが、この豪邸が電気風呂など電気を大量に使うものだった。
しかも、円本の印税収入に対する莫大な税金や、弟妹への援助、そこへ持ってきて、妹の養親である萬平氏の借金問題(この件で後に精二氏と谷崎は長期間絶交する)などがあり、大変な窮乏していたのだ。

上記の手紙は千代夫人との離婚挨拶状を出す半年前のものだが、その前年、谷崎家で華やかに舞の会など開いている頃も既にやりくりは大変だったようで、その様子は高木治江著『谷崎家の思い出』に詳しい。お金の工面などは谷崎が自分でやっていたが、千代夫人のやりくりで何とかやっていたものの、離婚する頃にはどうにもならなくなっていったのだろう。

ところで、今回の件で三たび『谷崎家の思い出』を読み直した。
この本、著者が乳がんで亡くなったことによって途中で終わっているのだが、何気に書かれていることに大きな意味があったりする。はっきりとは書けないけど、自分が生きているうちにそのヒントだけは残しておきたいという意思が働いたのだろうか。そのうちの1つが和田青年の件だが、その他にもいくつか重大な秘密が含まれているようだ。

2007-01-29
昭和11年10月17日の森田松子(松子夫人。10年1月に結婚式を挙げているが、入籍はまだ。)宛の手紙に
このような一文がある。

○終平へ、今月中旬までとして諸雑費旅費とも四百三十円あれば十分のところ四百五十円送ってやりました。あい(ゆの間違い)の百円もすみました。しかしこれは先月分故、今月は又別にやって頂かねばなりません。又非常にやせて来まして注射をしているさうでございます。

9月25日付佐藤春夫方谷崎あゆ子宛の手紙に

アトの百円はその時に上げる。

と書かれているので、その分のことだろう。
ということで、やはり養育費が妥当だろう。毎月の額の他にも、北海道行旅費だとか、医療費とか、そういう費目で別に払っているので、そういう類の借りかもしれない。