心美ちゃんが生まれたということで、キムタク。
なんとも2人らしい命名だと思う。きっと2人に似て、目元の魅力的な女の子になることだろう。
ところで、このキムタク、ドラマやバラエティで見ているだけで引き込まれる。
よく役者のタイプに、素は真っ白なキャンバスというタイプがあるが、この人はどの役をやっても、キムタクというキャラクターになる。決してどの役も同じというわけではなく、確かにその役柄になっているのだが、やはりキムタクなのである。だから、たとえ本来あまり面白くなりそうにないドラマでも、彼のキャラクターで大ヒットドラマになる。
彼の持ち味は、力まないことである。力まず、自然に、心で演じている。だから見ている方も、彼の目の中をジッと覗き込んでしまう。若い役者だと、どうしても力みたくなるのが人情だと思うのだが、どうしてこんなに静かに演じることができるのだろう。
彼と同じように自然なタイプに役所広司がいる。でも、役所広司のキャラクターと、キムタクのキャラクターでは、やはり違うのである。それぞれの持ち味は、表現すること自体が難しいが、やはり歴然と違う。
私は年代別にキムタク→役所広司→田村正和がとても好きである。いずれもボソボソタイプ。個性型、キャンバス型、私生活謎型、型はそれぞれだが、力まずしっかりその役柄を演じている人たちである。
源氏物語その4。 源氏のあこがれの人、藤壺について書いてみたい。
この人は、源氏の母、桐壺更衣が亡くなった後、その桐壺更衣にとてもよく似ているということで入内し、桐壺帝に愛された人である。身分も重く、後見もしっかりしていたので、桐壺更衣のようにいじめられることはなかった。
源氏が小さい頃は、帝につれられて藤壺の御簾の中にも入ることが許されていた。でも、大きくなったら突然入ることを禁じられるようになる。まあ、それは当然といえば当然だが、子供の頃から母と生き写しと言われ、日ごろ慣れ親しんできた人に、突然会えなくなるのだから、源氏少年の心に火がつくのも無理がないように思う。
結局、藤壺は不義の子供(後の冷泉帝)を産むことになる。
藤壺の精神的負担は大変なものだった。避けられなかったこととはいえ、大変な不義を働いてしまったのだから。
だが、その後の藤壺の身の処し方は見事だった。源氏を避けられない状況になったら、突如出家したのである。ひたすら子供が不義の子供であることを隠し、立派な帝にすることが、この人の義務であり、生きがいだったのかもしれない。もっともそれは源氏にとっても同じことなのだが。
桐壺帝はわざと2人を近づけたのではないかと思える。
本当は源氏を東宮にしたかったが、諸事情により無理だった。だから、最愛の桐壺更衣に生き写しの藤壺を暗黙のうちに譲り、この人との間に東宮を産ませることによって、実質的に帝位につかせようと。うがちすぎだろうか。
最初からそのつもりではなく、成り行きをみながら、そうすることを決心したのかもしれない。少なくとも子供が自分ではなく、源氏の子供であることは当然知っていたと思われるのだ。
当然いろいろ複雑な気持ちもあっただろう。ある本で桐壺帝のことを「愛の人」と書いてあったが、本当にそう思う。でも、藤壺からしたら、「たまったものではない」「情けない」という気持ちもあったのではないだろうか。考えてみたら、紫の上が藤壺の身代わりであったように、藤壺も桐壺更衣の身代わりだったのだ。でも、後に藤壺は自分で自分の人生を選択し、それを実行することができた。たとえそれが運命づけられたものであったにせよ。紫の上と決定的に違うところである。
源氏物語その3。 玉鬘の母、夕顔について書いてみたい。
この人は、雨夜の品定めで頭中将の話に出てきた女性で、後に源氏と出会い、連日愛されたために六条御息所の生霊に取り殺されてしまった人である。
この人は、源氏が家のそばを通りかかったとき、歌を読みかけた。いってみればこちらからアタックしたも同然である。これは、夕顔という女性の性質からいって、不思議である。
もしかしたら撫子(玉鬘)の父親である頭中将に、少しでもつながりのある人物が通りかかったので、周りに仕えている人たちがチャンスとばかりに読みかけたのかもしれない。何しろ、後に筑紫からこの撫子のために危険を冒してまで船出した人たちである。
それに対して、夕顔と源氏はお互いに素性をあかさず、仮面をつけたまま二条の館で愛の日々を過ごした。お互いに頭中将のことを考えたためかもしれないが、果たしてそれだけだろうか。
夕顔という女性は、何でも男性の希望どおりに振る舞い、強い女性からの嫌がらせに対しては、全く対応できず、ただひたすらおびえて、ついに生霊に取り殺されてしまった。この人の考え方とか、主体性というのはなかなか掴みにくい。でも、もしかしたら、とても「芝居気」のある女性なのかもしれないと思うのである。いい意味で。源氏が顔を見せたときの受け答えなどもしゃれている。
でも、取り殺されたのでは何にもならないけど。
きのうのラブレボリューション。
キスするときは、「キスしていいですか?そろそろいいかなと思って」などとは聞かないでほしいと思う。おずおずと「キスしていいですか?」と聞いて、答えを聞かずにというのはOKだけど。
でも、風間トオルとの相性、他にドキドキする相手がいないときだったら、まあまあ良かったのではないかなと思う。話も合うし、お互いに背伸びする必要がないし。最後のシーンで本人もつぶやいていた。
でも、ドキドキはしない。
江角マキコの役柄としては、結婚よりも恋愛がしたいのだから、ドキドキできないのはやっぱりねぇ。
それを的確に見抜いて身を引くという風間トオルの役柄にはビックリした。ちょっとかっこよかった。
「蜻蛉日記」についての風間トオルの解説に対して、思わず「違う!」と実感のある否定をした江角マキコに対する風間トオルの表情がよかった。ああいう表情、『白い影』で中居君もしていた。男性が恋におちる瞬間の表情。いいなぁ。
連城三紀彦の小説『飾り火』。もう何年前になるだろう。テレビドラマで林隆三と篠ひろ子の共演で、『誘惑』というタイトルでやっていた。
このドラマ、主題歌が山下達郎、助演に紺野美沙子、TMNの宇都宮隆がいた。豪華なドラマだった。
このドラマでの林隆三の心理が女性からするとハテナマークだ。長年夫婦でいて、女としての妻を見失ってしまったので、確かめたくなったとかなんとか。
まあ、そこまではわからなくもないが、だからといってどうしてあそこまで妻を無理に傷つける必要があるのだろうか。
女性としてどうしても許せないのは、愛する男性が、わざわざやきもちを焼かせるために別の女性と協力することだ。女性同士はお互い心理がわかるから、ときにはとても残酷なことをする。これを男性に訴えてもだいたいが「気のせい」といわれるようなことを。
ただでさえそうなのに、その女性と一緒になって妻をいわばいじめ続けたのだから、あとで元に戻りたいと言われても、戻れる女性はとても少ないと思う。
ただ、男性にとって相手に対するやきもちは、愛情のバロメーターだという話を聞いたことがある。本当なのだろうか。