このごろテレビで飯島愛をよく見かける。
なんだかとてもやさしいお姉さまになったような気がする。
先月読んだ『プラトニックセックス』、その後私のなかでふくらんできたことは、この本は1冊まるごと、彼女が芸能界に入ってから別れてしまった彼へのラブレターなのではないかということである。それは、彼と暮らしている間に書いた交換日記に多くのページを割いていることからも良くわかる。
彼がこの本を読むことによって、当時の行き違いとか、自分の生い立ちなどからくる考え方とか、自分のすべてを理解してくれたらという期待をもって、書かれたのではないかと思うのだ。また、もし読まれることがなくても、書いたことによってそのことに決着をつけたかったのだと思う。
2人の仲が復活するしないはまた別のことである。
今、彼女に特定の相手がいるのかいないのかは知らないが、自分に対するこういった決着のつけ方もありかなと思う。投げかけられた相手がどう受け取るかはわからないが。
春琴抄。谷崎潤一郎の中期の作品。
『春琴抄』は、百恵・友和の映画などでも上映されているので、知っている方も多いのではないだろうか。この作品、文庫本の厚さを見ると、かなり薄い。でもそれは点や改行が極端に少ないためで、その内容はギュッと詰まっている。
内容は、驕慢な女性をあがめ仕える男性の話だ。
表面的に見ると異常なような気がするが、谷崎潤一郎と松子さんの話などをいろいろ調べたりすると、一般的な男女にも理解できることもある。
谷崎潤一郎は、「やくざな素人」を好んだ。『痴人の愛』のナオミのような。だけどそれはまだ若いころのことで、やはり本当にじゃじゃ馬なのはだめだと感じたらしい。松子さんとの出会いによって、そこに解決策を見つけた。「芝居気」である。本当に驕慢では困るが、必要に応じてそういうふうに演じることができる女性がいいと。
春琴抄を書く頃、松子さんとその美しい姉妹に仕える使用人の役を自ら演じていたらしい。だから、彼女たちもそのイメージを壊さないように、一所懸命演じなくてはならない。仕えているようで、実は主人は谷崎潤一郎自身である。
この「芝居気」というのは、女性の気持ちからも興味のあることである。女性は基本的に女優なので、限度を超えなければ大歓迎。でも、谷崎潤一郎のように、それが仕事にかかわり、しかも事実上はその芝居を強制しているようなのはしんどいと思う。
松子夫人はこのしんどいことを谷崎潤一郎が生きている間、ずっと続けて妻の座を守ったといえる。お腹にできた谷崎潤一郎の子供を中絶してまで。
(松子夫人は本当に産みたくて、出版社の社長やいろいろな人を動員して夫の説得にあたったが、谷崎潤一郎はとうとう首を縦に振らなかった。彼の死後、本当は産んでもいいと心が揺れていたというメモを発見し、目の前が真っ暗になったと松子夫人本人が書いている)
そういうことを踏まえて読むと、また違った解釈が見えてくる小説だと思う。
源氏物語その2。
今日は源氏に対するもう1人の主役、紫の上について書きたいと思う。
この人については、やはり一番注目されるキャラクターなので、本などでもいろいろ書かれているが、
私は、やっぱりかわいそうな人だったなぁと思う。 そして、男女のすれ違いについても興味深いことを教えてくれる。
子供だからわからないだろうと、源氏は紫のゆかりなどと手習いの紙に書いた。それを後の紫の上が「あぁ、そうだったのか」と気づかないと思ったのだろうか。
女性は愛する男性の一挙手一投足をそのつど覚えていて、あとでつなげる。だから、男性が「なぜ気づかれるのだ」と驚くようなことを見抜く。長年の間に「私は身代わり」という意識が根付いていったことは十分想像つく。でも、紫の上は六条院の女主人として内からも外からも一目置かれて、その自負によって、なんとか耐えることができたのだと思う。
それに対して源氏は、朱雀院からのたっての願いによりということはあるが、やはり「紫のゆかり」の女三宮を正室として迎える。
これは紫の上にとっては大変な衝撃だったろう。そのことは、それまで気にしないことにしていたであろう、正室でないという事実を決定的に突きつける。だから、当時の女性側からの離婚ともいえる「出家」を強く望んだのだと思う。
それに対して源氏の方は、事態がかなり深刻になっても気づかず、「あなたほど幸せな人はいない」などといって、紫の上の気持ちを逆なでする。結局、最後の最後になって、もしかしたら紫の上の死後、ようやく紫の上自身を愛していたことに気づく。
時すでに遅しである。
こういうパターンは、現在でも結構あるのではないだろうか。
源氏物語。初めて自分の意志で読んだとき、なんて面白い物語だろうと思った。そして、紫式部のすごさに感嘆した。
「雨夜の品定め」や、源典侍のシーンを読んだ時は、紫式部は男ではないかと思った。
ところで表題の件、わたしは源氏物語の女性登場人物で、このふたりにとても興味がある。奇しくも2人とも「尚侍」という、女性として最高の官職についた人である。
玉鬘は頭中将と夕顔の娘であり、成長して源氏に引き取られ、成人式で初めて実の父に対面し、腰結いの役をしてもらう。結婚については、帝にあこがれていたが、心ならずも一番気の進まない、髭黒と結婚するはめになる。でも、結婚は不本意だったが、その後はまじめな夫に愛され、帝との関係抜きで女性として最高の官職に付き、結婚後は夫もどんどん昇進し、押しも推されぬ北の方として幸せな人生を送る。そこに至るまではいろいろあったが、夕霧の妻、雲居の雁と並んで登場人物のなかで最も幸せな女性だと思う。この幸せは源氏に言い寄られた時のやり過ごし方等、彼女の頭のよさ、人の扱いのうまさによるものと思われる。なかなかできることではない。尊敬する。
それに対して、朧月夜の尚侍。この人は右大臣の六の君で、本当は朱雀帝に嫁ぐはずだったのが、源氏との恋のため、尚侍として出仕する。それでも帝の寵愛を一身に受けることになる。
その時点で彼女の話は終わりかと思えばそうではない。その後朱雀院が出家してからも源氏との恋人関係は続く。そのような中、源氏からはだんだん軽くみられるようにもなっていった。でも最後は自分の源氏にとっての位置を思い、きっぱりと源氏を振り切る。
私はこの朧月夜尚侍に一番魅力を覚える。色気があって、情熱的で…。最後には、当時の女性が自分の誇りを守る唯一の方法を行使するところまで含めて。
他の人は、どのような登場人物に興味をひかれるのだろうか。
中居君主演の「白い影」が、終了した。
これは、28年前に田宮二郎が主演したドラマのリメイクだ。中居君があの直江医師を演じると知った時の驚き、違和感といったら(^^; 中居君はなかなか好演していたと思う。が、このドラマを見て、28年前に受け入れられた男性像と、今の男性像ではかなり違うという事実を認識した。
私は28年前の作品の記憶はおぼろげだが、田宮二郎の渋さ・鋭さといったら、大変なものだったと記憶している。また、原作「無影燈」も読んでいるが、この原作をそのままドラマにすることは、いかにも無理である。第一、とても受け入れがたい犯罪も出てくる。
で、思ったのが、28年前はあのようにわかりにくい男性像が、女性からも受け入れられたということである。今は、もう少しやさしい男性像が受ける。今回の中居君のように。やはり、気持ちは説明しないと、今の女性には受け入れられない。田宮二郎の渋さに対するあこがれはあるが。
歴史的にみて、戦争がない時代が続くと男性はやさしくなるそうだ。化粧もし、人前で涙も流す。そうでないと、一緒に仕事・生活をする女性とコミュニケーションが取れないからだ。代表的な時代が平安時代である。この事実は源氏物語などを読むと即わかる(^o^)。ただ、平安時代の場合は、その後の治安の悪化によって武士が台頭し、この戦前まで続く男性像が定着することになる。江戸時代は戦争はなかったが、道徳律がはっきりしていたのでこのとおりにはならなかったようだ。でも、町人の世界ではどのようになっていたのだろうか。このあたりも興味のあるところである。
「話を聞かない男、地図が読めない女」では、今のように男女が一緒に仕事をするのは私たちが初めての世代と書いているが、日本では、平安時代を経験している。といっても、源氏物語に出てくる女性で、幸せな女性は少ない。このことは、また別に書いてみたいと思う。
今、源氏物語をやさしく読む本が本屋さんで平積みになっている。どのように書いてあるのか、読んでみたいと思う。