ラブレターズ

その95(2002.8.6)暑い!

しかし、毎日毎日暑いこと!ちょっと外出すると汗が吹き出してくる。幸い私の体温調整機能は順調なようで、見る人を暑苦しい気持ちにさせながら盛大に汗を吹き出すことで、あとはさわやかにしていられる(^^;;;
27日に鎌倉のミカドコーヒーに行った話は前回書いたが、このときの体調は絶不調。暑さのために前日に食べたものが消化しきれず、小町通の薬局で胃薬を買い、その場で飲んだ位だ。でも、せっかくのミカドコーヒー。そこはやっぱり押さえておかねばということで、入ることにした。
午前中だったせいか、店内に人は少なく、近藤マッチ似の男の人と、その彼女の1組がいただけだった。で、まずお約束のモカソフトだが、これはフロートで注文した。ソフトクリームが冷たいアイスコーヒーに触れている部分がシャリシャリとして、そのコーヒーを少しずつソフトクリームにかけながら、味わった。でも、何分にも体調が悪いので、モカの強さは少しきつかった。
あと、2人で1つ、グラス入りのライチソフトを頼んだが、これがもう、疲れた胃には最高だった。その一口を口に入れたとたん、重い胃がスッキリするような気がした。
モカソフトは本当に美味しいのだが、あのように暑い鎌倉の気候のなか、まして体調がよくないときにはライチソフトがいいと思った。

そうそう。8月の壁紙を何にするかと考えていたが、鎌倉の緑を思い浮かべ、また、ユーミンのある曲にちなんで蔦にすることにした。でも、蔦もビッシリと繁っていると結構暑苦しいので、カンバスに薄く書いてみた。

え?蔦に見えない?失礼しました~(^^;


その94(2002.8.1)化粧坂 

とはずがたり第12弾。
27、28日と逗子のコンサートに行ったが、その際に鎌倉観光もしっかりしてきた。
まず27日の朝、車を鎌倉駅のそばの駐車場に置き、寿福寺、海蔵寺、浄光明寺をまわったのだが、その際に、化粧坂という文字を見つけた。これは、二条が都から鎌倉へ入るときに通った坂ということになっている。
が、実はこれが大嘘である。二条は極楽寺坂という坂を通って鎌倉に入っているのだ。『とはずがたり』の中で出てくる地名は結構いいかげんである。 要は歌になるような綺麗な地名があればその方がいいわけで、しかも読むのは都の人なのだから二条にとってはおかまいなしなのである。そのことをマサノリに言ったところ、大受けした。
その後銭洗い弁天に行くつもりだったが、このところの運動不足がたたって体がきつかったので、小町通りのミカドコーヒーでモカフロートとグラスに入ったライチソフトをいただいてから、ホテルで休むことにした。ミカドコーヒーのことはまた後で書く。
で、ホテルで休むにしても、何か読むものが欲しいということで、本屋さんに寄った。私は漫画の『吾妻鏡』が上中下巻で出ていたのでそれを買い、マサノリは司馬遼太郎の『街道をゆく』を買った。2人とも本は好きなので、こういうときは意見が合う。

実は、マサノリが買った『街道をゆく』には、二条が大嘘を書いたということが書いてある。マサノリはこれを早速見つけ、翌日は極楽寺坂へ行くことに決まった。

そして28日、朝食後すぐに極楽寺坂を登って極楽寺へ向かう。静かなところである。でも、他の切り通しに比較して、舗装の際になだらかにしてあったので全然きつくはなかった。
坂の頂上から5~6歩のところに極楽寺はあった。実にひっそりしていて、境内の花が美しかった。
二条は、この寺での僧侶の振る舞いが都と同じだということにとても感動している。なにしろ、都と関東では価値観から何から全く違うのだ。この、僧侶の振る舞いが同じということによほどほっとしたのだろう。下の写真は、極楽寺から由比ヶ浜に向かう方に向いて撮影したが、電信柱の向こうの角から先にいくと景色が開けてくる。とても開放的な気分になった。

極楽寺極楽寺坂

極楽寺を出てすぐ、ちょうど坂の頂上くらいのところに一軒の喫茶店があったので、そこでアイスコーヒーをいただいた。陶器の器に入れられたアイスコーヒーはとても美味しく、店の雰囲気もまた、周りの静かな景色になじみ、とても落ち着いていた。ここで一息いれて、また歩いて坂を降り、長谷寺に向かった。
長谷寺の境内にある茶店「潮音亭」からは逗子マリーナが見えて、風にのってリハーサルの音も聞こえてくる。逗子のときには必ず寄るスポットである。

逗子マリーナ遠景


その93(2002.7.26)院との再会 

とはずがたり第11弾。
関東から帰り、奈良へ行った後都へ帰る途中、源氏である二条にとってはゆかりのある石清水八幡宮に参詣する。このとき、二条は小人と行き会い、その人に、なぜそのようになったか、宿縁について思い当たることはないのかと聞いている。おそらくこの小人は、前世が悪いとこのようになってしまうなどという見世物にされていたのだろう。ここで、後深草院に呼び止められる。
このとき、後深草院も出家していた。同じ墨染めの衣を着ながら、2人は語り明かす。このときの話の内容はそれほどのことはないが、院はその場で小袖を3枚脱ぎ、「人知れぬ形見ぞ、身をば放つな」といって二条に与えている。
この、石清水という場所と、小人、院という取り合わせが、後に出てくる父の夢にかかってくる。二条は父に夢の中で院の体の不具合についていかなる宿縁でと尋ねているが、父は、「あの御片端は、いませおはしましたる下に、御腫物あり。この腫物といふは、われらがやうなる無知の衆生を、多く後へ持たせ給ひて、これを憐みはぐくみ思し召す故なり。全くわが御誤りなし」と答えている。この言葉は、二条が旅をして得たものの1つだろう。体が不具合=前世の悪業によるものというのは誤りであるという。この場所で、この小人と一緒のときに院と再会したということでそれを印象づけようとしているようだ。
その後、熱田の炎上に遭遇し、その足で伊勢に参ったあと京に帰ると、院から何度か召しがあったが、気が重く思っていたところ、院が伏見に行くとき、ぜひと言われてついに院に会いに出かける。
院からは、なぜ自分に恨み言を言って来ないと言われるが、こうして世に漂っていることのほかは恨んでいないと答えている。つまり、御所追放が返す返すも悔しいのである。そして、ついに年来の思いを告げるときがくる。
院が、女の身でこのように旅をするのは大変だろう。誰かに世話になっているのだろうと言ったところから戦いは始まる。二条は今までの旅で出会った人々、詠んだ歌について、あちこちの神仏に誓って潔白を訴える。院は納得せず、都の中については誓ってないが、都の中に誰かいるのであろうと言う。それに対しても二条は神仏に誓ってきっぱりと否定する。さらに院は、では、昔の人と復活しているのであろうと言うと、二条は、これからのことはわからないが、今までについては神仏に誓ってそういうことはないと言った。これに対して、院はしばし沈黙の後、ついに「何にも、人の思ひしむる心はよしなきものなり。まことに母に後れ父に別れにし後は、われのみはぐくむべき心地せしに、事の違ひもて行きしことも、げに浅かりける契りにこそと思ふに、かくまで深く思ひそめけるを知らず顔にて過ぐしけるを、大菩薩知らせそめ給ひにけるにこそ、御山にてしも見出でけめ」という詫びの言葉を口にする。そして、院が都に帰ったあと、二条へ生活の足しにと物資を送る。
この作品には他にもクライマックスと言われるところはあるが、この場面が一番緊迫して好きである。二条の苦しみ、恨みが晴れる瞬間である。

この後、二条は下のように感想を書いている。
「いはんや、まことしくおぼしめし寄りける御心の色、人知るべきことならぬさへ、置き所なくぞおぼえ侍りし。昔より何事も、うち絶えて、人目にもこはいかになどおぼゆる御もてなしもなく、これこそなど言ふべき思ひ出では侍らざりしかども、御心1つには、何とやらん、あはれはかかる御気のせさせおはしましたりしぞかし、など、過ぎにし方も今さらにて、何となく忘れがたくぞ侍る。」

一見、しみじみとした述懐なのだが、しばらくすると妙に憎らしさを感じるのは私の偏見?
何だか二条が「ふんっ」と言いながら得意に鼻をうごめかせている様子が見えてくるのだ。


その92(2002.7.24)熱田神宮 

とはずがたり第10弾。
熱田神宮、二条の父がかつて知行した国にある。二条の誕生以来、父は毎年神馬を奉納していた。そういう由来があってか、二条はとはずがたりの中で4度熱田神宮に参っている。そして、熱田神宮の炎上という歴史的事件に出会い、草薙の剣発見に立ち会う。この事件を契機に、二条は宗教者として目覚める。
二条は度々熱田神宮で写経をしようとするが、それに対して熱田神宮は極めて冷たい。まあ、二条は墨染め。熱田神宮は神様なので、当然といえば当然かもしれない。が、伊勢でも墨染めということで制約のもとに参詣しているが、それに際しては随分配慮がなされている。そのことと対比すると、熱田の冷たさが際立ってくる。なぜだろう。熱田神宮といえば後深草院が後嵯峨院から相続した社だというのに…
修行編では熱田神宮については避けることができないが、私にはまだ消化できない。


その91(20027.20)『いとしの儚』 

渋谷パルコ劇場で上演された、『儚』を、9日の初日に見た。
井川遥の演技力についてはいろいろ言われていたが、よく演じていたと思う。
初めに赤ん坊の泣き声をするのだが、うまく泣けていた。これだけのためにも随分練習したことだろう。声もしっかり出ていた。それにしてもしょっちゅう激しく転ぶ役なので、体のあちこちに傷が絶えなかっただろう。

さて、この舞台劇、高尚なのか下世話なのか、物語の中には『源氏物語』、『方丈記』の出だしや、さらには音楽の時間に習った『平城山』が出てくるかと思えばとてもお下品な言葉がたくさん出てくる。でも、いやらしくない。
素材は平安時代の『長谷雄草紙』。鬼と双六をして美女を得たが、百日の辛抱ができずに抱いてしまったところ、水になってしまったという物語だ。これを恋の物語にアレンジしたのが『儚』だ。
舞台では、賽の河原で青鬼が語るという設定なのだが、この青鬼の正体が、うっかりしているとわからないかもしれないが、なんとなく悟らせてくれるようになっている。日本のインタビュー・ウィズ・ヴァンパイアといったところだろうか。そういえば、初めの方で、赤鬼が青鬼に「なんだ、また昔話しているのか」と言っていた。後から思い出すと、ふぅ~んと思う。

で、重要な登場人物に、人形がいる。ツキの神様だ。可愛くて残酷な神様。人形はとてもよくできていた。でも、人形の演技力が…
私は見ていて、この神様がどういう感情でこういう行動をしているのかというのがよくわからなかった。たぶんこういうことだろうというのはわかるのだが。だから、舞台の間中、モヤモヤしていた。後で上演台本を読んで、「やっぱり」ということになったのだが、もう少しなんとかならなかったかなぁ。
マサノリにそう言ったら、彼はツキの神様の感情については何も考えず、ただひたすらツキの神様ってのはいるんだということを言っていた。彼は職場でこの神様に翻弄されているたくさんの人を見ているのだ。これに限らず、男性と女性では、見るところが微妙に異なる。ラブレターズでもそういう傾向があるようだ。この差というのが、また面白いところかもしれない。

私たちが見たのは初日だったので、ハプニングもあった。赤鬼が、とても軽快な動きで舞台上を飛び回るのだが、最後の方で水にぬれた舞台のせいで転んでしまった。みごとにスッテーンと。これには場内大爆笑。で、そのまま通せばいいのに、律儀にやり直してた。マサノリは、あんな、演技とは関係のないところで笑われて、悔しかっただろうなと言っていた。

赤鬼、河原雅彦は、カーテンコールのときに、とてもさわやかに、かっこよく手を振っていた。「いいな」と思った。