とはずがたり第9弾。
善光寺から戻り、いよいよ都へ戻るべく、二条は旅立つ。その際に、飯沼左衞門尉という人から旅衣を贈られる。どうも、この人の家には度々遊びに行って、連歌などを行っていたため、噂が立ったらしい。
で、そのときの歌なのだが、
着てだにも身をば放つな旅衣
さこそよそなる契りなりとも
である。これ、曙が二条が院と契ることになったときに贈ってきた鶴の毛衣の歌に似ている。
また、この飯沼左衞門尉は、新将軍を都から迎えるときに、前の将軍が通ったところは縁起が悪いので、「足柄山とかやいふ所へ越え行くと」聞いたと書いている(増鏡では、理由は同じだが、「足柄山をよけて」となっている)。なんだか曙っぽい行動だ。この人についての記述はあちこちに何気にちりばめてある。
なお、この日記を書いた頃にはこの人は亡くなっている。
そして、いよいよ都に戻るが、すぐに奈良、つまり春日大社へ向かう。その際に、自分は藤原氏ではないから、そちらの方はそんなに行ったことがなかったが、近いから行くことにしたと書いている。言い訳っぽい書き方だ。照れているようにも見える。しかも、あえて春日と書かずに「奈良」である。で、誰がゆかりかというと、曙である。
そういえば、最後の方に遊義門院と石清水で会ったときも、奈良から来たと言っていた。
とはずがたり番外編。
よく、恋が終わった後、長いこと自暴自棄になる人がいる。たとえば、中森明菜などはその典型ではないだろうか。とはいいつつ、この人もようやく復活の兆しがあるようでなによりである。
二条の場合、1つは御所追放という形でいきなりピリオドを打たれた。自分は裏切っていても、院だけは、東二条院から何を言われても自分をかばってくれると、そのときまで信じていた。結局、追放を後見人である四条隆親に直接指示したのは東二条院であり、院はそれを追認したということを隆親から聞くのだが、でも、院からも直接とても冷たい、もし自分の身だったらゾッとするような冷たい言葉を浴びせられたのだから、これは院の意思でもあることは疑いなく、北山准后九十賀のときの後ろ向きの態度を生み出す結果となった。
が、もう1つの曙とのことは、恋人としての関係は昔話になっていたが、そういうつらいときはには心配してくれる人だった。その後、彼との関係はどうなったのか、確実なのは、表向きもう彼とは会えないということだろう。それくらいの何かまずい事態になったことは、旅の中で始終述べている嘆きから推測できる。また、鎌倉から戻ったときも、京にいづらく、すぐに別のところへ旅に出ることになる。それほどのいづらさというのは、いったい何があったのか。まあ、いづらさ自体については本筋からはずれるので、これについては掘り下げない。でも、次の旅については少し興味深いことがあるので、このことは次回書く。
とにかく二条は出家した。そして、旅をつづける間に自分のこれから行くべき道を見つける。ここにいたるまでにはかなり危ない事態にも遭遇する。でも、なんとか持ちこたえたのは父雅忠の遺言があったからだろう。これはその後の彼女の生きる指針となった。
自分を心から愛してくれた人がいたという気持ちというのは、人間を窮地から救う。自分は一人なんだと思う瞬間があったとしても、自分を心から愛してくれた人がいたことに気付ければ、その人は助かるのではないだろうか。
気付けるか、気付けないか、それはその人次第である。
とはずがたり第8弾。
北山准后九十賀から何年かたって、二条はついに出家の本意を遂げる。そして、子供の頃に読んだ西行の修行のやり方にあこがれ、自らも旅を修行とすべく、その最初の行き先として関東を選んだ。
慣れない旅に心細さを感じながら、それでも順調に旅は進んでいく。そんな中、美濃国赤坂の宿で遊女の姉妹に出会う。その姉が墨染めの二条に、なぜこの旅を思い立ったのですかと、
思ひ立つ心は何の色ぞとも
富士の煙の末ぞゆかしき
と歌をよこす。それに対して二条は、
富士の嶺は恋を駿河の山なれば
思ひありとぞ煙立つらん
と返歌している。つまり、恋のために旅を思い立ったのだと言っている。
誰に恋してだろう。その前にも遊女が一夜の契りを求めて歩くさまを見ながら
立ち寄りて見るとも知らじ鏡山
心の中に残る面影
と詠んでいる。
誰の面影が心の中に残っているのだろう。
その後のなりゆきを読むと、後深草院ととるのが順当なのだろうが、私にはそうは思えない。
御所を追い出される時に院に投げつけられた冷たい言葉、それはその後の二条の心にずっと残っていたに違いない。そういう相手に対する気持ちを恋と言うだろうか。二条の院に対する気持ちと恋という言葉はどうしても結びつかない。では誰か。曙しかいないだろう。この場合。と、私は思う。だけど、表立ってそんなことは書けない。この日記は表面上、院とのかかわりを主体に書いている。
で、この旅だが、その後のいくつかの旅に比べて、随分羽振りがいいのである。供の者もいて、京の土産なども持ってきている。当初から鎌倉を目指して、その後善光寺へ行く目的があったようだ。
鎌倉到着後、将軍に仕えている親戚筋の人から、こちらへこないかと声をかけられたが、面倒なので、近くに宿をとっていたところ、善光寺への案内のために連れてきた人が病に倒れる。続いて、二条も倒れ、結局この人(小町殿という)にいろいろ世話になる。が、父雅忠が生きているときは風邪とか、少しの病気でも雅忠が陰陽・医道の洩れることなく、家に伝わる宝、世に聞えある名馬まで、霊社・霊仏に奉納したりしていたが、今回は神にも仏にも頼ることなく、ただひたすら寝ていた。こんなことは今までになく、二条は非常に心細い思いをしたらしい。
そんなこんなしているうちに、将軍の交替劇に出会う。今までの将軍は後深草院の甥だったが、この将軍が罪を着せられ京に送還された。二条はこの様子をとてもいたわしいこととして、細かく描写している。そしてその後、新将軍として来たのが後深草院の皇子だ。後深草院側と接近したい鎌倉側と、鎌倉との関係を強化したい後深草院側(というよりも西園寺実兼)の思惑が一致した結果である。おそらく関東申次である西園寺実兼の運動が実を結んだのだろう。
この皇子を迎えるにあたって、小町殿を通じて執権などからいろいろ相談を受ける。二条は嫌だ嫌だとさんざん言うが、小町殿は、ただ京の人ということで誰だとは言わないからと、何だか訳のわからない理由を付けて二条を説得する。結局二条は五つ衣の重ね方や御所のしつらいについて指導する。
これ、偶然だろうか。曙から何か言われて来たのだろうか。それとも曙の知る東国を見たくて旅をしてきた二条を、これ幸いと鎌倉側が引き入れようとしたのだろうか。
そうそう。二条は人間関係のわずらわしさが嫌になって、旅に出たとも書いている。
将軍交替劇のため小町殿から何だかんだと頼まれているうちに善光寺に参詣できなかったのをくやしく思っていたところ、小町殿(と書いたところで刀で切られている。つまり抜けている)とは別の人に川口に行く用事があり、年が明けたら善光寺に一緒に行きましょうと誘われて、喜んで同行した。どうやら小町殿は善光寺には無関心だったらしい。
ついに善光寺参詣が実現するが、大勢ついてきたのがわずらわしくて、善光寺についたら、人々の心配を振り払い、一人でしばらく残った。
はまったねぇ、このお話。いつもながらキムタクは素敵だった。
でも、キムタク&サンマのキャラクター合戦の結果、周りに素敵な俳優陣がいたにもかかわらず、そのキャラクター設定が曖昧なまま終わってしまったような気がする。そんな状態でも、何とか内面の演技を深めていたのが深津絵里だったと思う。第一話でのホワッとした感じの役が、だんだんしっかりしたキャラクターになっていったのだが、とても演じづらかっただろうと思う。
他の役者さんたちも、何だかとても不完全なキャラクター設定で、その点がすごく残念だった。この作品は一にも二にもキムタク&サンマの作品だった。
キムタクは助演のつもりでやっていたそうだが、そうせざるを得なかったのではないだろうか。何だか力が入りすぎたサンマさんのアクが前面に出ていた。妙なギラギラ感が作品に映り込んでいる気がする。
とはずがたり第7弾。香港のお話はこの位にして、再びとはずがたりの話に入りたい。
二条が御所を追放されてから、手元で育てている有明の月の遺児を見捨てるわけにいかず、出家できずにいたところ、大宮院から北山准后九十賀に、北山准后方の女房として出仕せよとの話があった。
北山准后というのは、二条の母方の祖父の妹であり、曙の祖母である。二条の母と二条自身の宮仕えに際しての親代わりでもある。二条母子はこの北山准后にとても可愛がられた。
大宮院というのは、後深草・亀山両上皇の母で、北山准后の娘である。東二条院の姉でもある。とはずがたりの中では常に二条に対してやさしい言葉をかけているが、それに対して二条はいつも後ろ向きである。どうも後深草院が譲位するときのいきさつから後深草院が母である大宮院を恨んだことと関係しているのか、二条自身はこの人を信用できないのかもしれない。
二条は、御所を追放された身で、何がうれしくてこんなところに出て行けるかと、断る。が、大宮院は諦めず、何度も言ってくるので、あまり断るのも意趣があるようでということで出仕することにした。初めは北山准后の女房としてということだったが、それもどうかということで、大宮院の女房としての出仕となった。
大宮院方の女房はみな同じ色の衣装で揃えていたが、二条には西園寺家の当主が飾りまでついた特別な衣装を用意してくれた。北山准后というのは西園寺家当主の祖母なのだ。西園寺家当主とは、曙のことである。もともと二条は特別扱いが大好きな人なのだが、このときはこんなの嬉しくないと言っている。確かに、追放された身であまり目立ちたいとは思わないだろう。
このめでたい行事の中で、胃の痛くなるようなやりとりが少なくとも二つあった。
まず1つは、賀宴二日目。大宮院方の女房の一人、権中納言局が歌を差し出したところ、亀山院が「雅忠卿の女の歌は、など見え候はぬぞ」と尋ねた。それに対して大宮院が体の具合が悪いようですと答えている。そのとき、西園寺(曙)が「なぞ歌をだに参らせぬぞ」と二条に言ったところ、二条は「東二条院より、歌ばし召されるなと、准后へ申されける由、承りし」と答え、前々からこの会の参加人数には入っていなかったと聞いているから、歌を差し出すことなど思いもよらなかったと心の中でつぶやいている。曙に甘えてこんなことを言っているのだろう。
もう1つは、賀宴三日目の夜、舟遊びの中で連歌が行われた。
亀山院、二条、春宮太夫(曙)、具顕、春宮御方、亀山院、と続いて、その次につけた二条の歌が、
「憂きことを心一つに忍ぶれば」である。これには後深草院が即座に反応して、
「絶えず涙に有明の月」と割り込んだ。そういう彼女の心の中は知っているぞとわざわざ前置きして。
これに対して、亀山院が「この有明の子細、おぼつかなく」と言った。
つまり、後深草院は、二条が追放のことを恨んで言っていることを知っていて、それを亡き有明の月への思慕にすりかえたのだ。得意のあてこすりである。でも、本当はこんな風にあてこするつもりなど、後深草院にはなかっただろう。この舟遊びにも気がすすまない二条を、とてもやさしく誘い出したのは後深草院なのだ。二条が都合の悪いことを言い出しそうなので、ついこんなことを言ってしまったのではないだろうか。亀山院の前だし…。
この会は、北山准后のことにかこつけて、気の毒なことをした二条との和解を大宮院がもくろんでのことではないかと思われる。第一日目に、あらかじめ両院に加えてまだ姫宮である遊義門院も来ていた。一説には、気の毒な二条にそれとなく会わせようという大宮院のはからいだといわれているが、そのあたりはどうなのか、私にはわからない。でも、特に目立つ衣装を二条に着せたことは、何か意味があるように思われる。それよりも、大宮院としては、自分の息子二人と二条の間のもやもやとか、曙からの口添えなどもあり、和解の機会をつくろうとしたのではないだろうか。
この宴のあと、後深草院が西園寺へ御幸するというので、二条にも来るようにと熱心に誘われたが、二条はかたくなに断った。この割り込みがなければまだなんとかなっていたかもしれないが、この歌のために、すべてはぶち壊しになった。
結局、後には一応の和解は成ったのだろう。西園寺実兼(曙)の女子が伏見天皇の女御として入内したときに二条はその女房として宮中に上がることになる。が、これはどうもあまりうまくいかなかったようだ。とはずがたりにはこの件については何の記述もないが、後に二条が後深草院が亡くなりそうだということで院に会いたいあまりに西園寺実兼を頼っていったときに、はじめは彼は歳のせいか忘れたと言って会わなかった。でも、後には二条に会って昔のことなどを親しく話している。微妙な揺れだ。
二条は御所追放があまりにもくやしかったため、この宴のときは周囲の優しさも何もかも信じられなかったのかもしれない。