とはずがたり第5弾。
今日は作者二条本人ついて書きたい。
きのう、近衛大殿と亀山院について書いたが、ここではいかにも仕方なしにという書き方をした。実際に、二条は仕方なしにこの2人と契ることになった。が、本当のところはどうだったのだろうか。
この人は、本当に嫌だったら嫌という意思表示のできる人である。実は、この2人についてはひそかに好意をもっていたフシがあるのだ。
二条は、父方が村上源氏の流れをくむ久我氏、母方が四条家であり、女御として入内してもおかしくない家柄の出身である。したがって、常日頃自分の出自に引き比べて、なんと屈辱的な扱いを受けているのかと嘆いている。二条という名前さえ気にいらないのだ。そんな中、上記の2人は後深草院に対して二条の目の前で二条の家柄の良さについて説いている。つまり、二条の気持ちの代弁者なのだ。
六条院の女楽の席次のことで、二条はこともあろうに祖父に屈辱的な思いをさせられた。そのとき、彼女は枇杷の弦を切り、和歌を残して御所を出奔した。これに対して、後深草院は最初怒り出そうとした。が、ここで亀山院は彼女のやり方を素晴らしいといい、その場の雰囲気が二条に対する同情に変わるということがあった。また、彼女が御所を追放された後、北山准后九十の賀に出席できることになったときも、亀山院はなぜ彼女が歌を差し出さないかと気遣った。とはずがたりの中で、亀山院は常に彼女の味方だ。近衛大殿も、あのようなことがある前に後深草院に久我氏と四条家について語っている。
後深草院にも、そのあたりの二条の気持ちが伝わっていたのだろう。だから、自分はかまわないみたいな対応をしたのだと思う。でも、決してそうではない。亀山院のときには、正直言って、二条がはっきりと断ってくれることを後深草院は期待していたのではないだろうか。つまり、二条は二条で院にかばってもらいたく、院は院で二条にかばってもらいたかったように思う。
だいたい後深草院は、自分でとりはからっておきながら、後であてこすりを言ったりすることがある。二条がいかにも不承不承という感じで、院の合意のもとに別の人と契るのは自分がかかわっただけに仕方ないと思うが、自分の知らないところで、二条が積極的に別の男性と関わるのは気にいらないのだ(当たり前だが)。これは有明の月の場合にも当てはまる。そして、二条は二条で、このことについて「犯せる罪もそれとなければ」などと嘯いている。つまり、あまり罪悪感は持ってないし、後悔もしていない。が、読者の手前、一応言い訳がましく書いているだけだ。
院が、なぜ二条を公の妻にしなかったか。それは既に東二条院という後ろ盾のしっかりした中宮がいたからである。院は何かとそちらの意向を気にせざるを得ない。でも、二条からすれば、東二条院と自分とどこが違うのかということになる。そういう態度は常に出ていたに違いないと思える。だから、東二条院はことあるごとに「我をないがしろにする」と言って二条を非難する。
東二条院は、何人か子供を産んだが、いずれも育たなかった。結局姫宮1人だけが残った。皇子は産めなかったのだ。それに対して、二条と比較的気の合ったらしい東の御方という人が皇子を産んでいる。でも、東の御方の親は東二条院の気持ちをおもんぱかって、あまり大喜びできない。それくらい東二条院はそのことを気に病んでいたのだろう。
なぜ東二条院の産んだ子が育たなかったか。実は彼女は後深草院の叔母である。母の妹なのだ。つまり近親結婚だ。私は結局このことが原因だったように思う。だから、自分より10歳どころではない20歳以上も若い、自分に仕えている二条に院の手がついたときから、東二条院は猛烈に嫉妬したのだろう。
でも、二条も院との皇子を1人産んだが、結局育たなかった。これはなぜだろう。実は、二条の母は院の性教育係だったが、役目を終えたあと、別の男性の愛人になった。でも、院は二条の母を忘れられず、隙をみては「人わろく盗み云々」と院が述懐するようなことがあった。院は常々二条のことを「あが子」といっているが、もしかしたら、冗談ではなく本当に「あが子」だった可能性もある。
とはずがたり第4弾。
今日は作者二条の運命が暗転するきっかけになった2人の男性について書きたい。
まず最初に近衛大殿。この人物、亀山院側の重臣である。亀山院というのは後深草院の弟で、後深草天皇の後に天皇になった人である。この2人は同じ母をもつ兄弟だが、後深草院がまだ若いうちから強引に帝位を譲らされたり、その時東宮に亀山帝の皇子を立てたことから2人の間がこじれた。鎌倉側でもこの2人の間が悪くなることを好まず、結局東宮は後深草院の皇子が立つことになったという経緯がある。2人も鎌倉側の意向をくみ、2人が仲が良いということを鎌倉側にアピールするためにいろいろ遊びを企画した。
そのなかの1つでのこと。二条の後見をしていた祖父とひょんなことから仲違いをし、二条はこのときに着る衣装を調達しあぐねていた。すかさず雪の曙がひそかに衣装を彼女に渡し、彼女はその衣装を身に付けてその場に出た。
第一夜、最初の酒宴が終わったあと、たぶん彼女は雪の曙のところへ行った帰りに、夜だし、誰も見てないだろうと、なんと掛湯巻という、まあ、下着のような格好で自分の局に帰ろうとした。そこを近衛大殿につかまり、あわやというところで解放されたが、また大殿の部屋へ来るように誓わされる。そして…
その後再び酒宴が始まったが、それが終わって後深草院の腰を叩いていたところ、大胆にもそこに大殿がやってきて、用を頼みたいと言ってきた。何の用かはすぐわかる。それに対して、院は小声で早く行けという。私はかまわないからと。この院、決定的に気が弱い。直接対決するなどということはできない性質なのだ。結局障子一枚隔てて大殿と契るはめになる。もちろん院は寝入ったふりをして耳をそばだてている。このことについて二条は「死ぬばかり悲しき」と言っている。当然だろう。翌朝、院は彼女に気を遣いながらうらうらと、つまり朗らかな様子でいた。
次の日も、今度は大殿が幹事となって酒宴が催された。もうこの時点でまた何が起こるかと二条はおびえている。その酒宴のときに、院はこともあろうに雪の曙が二条に与えた衣装の1つをその酒宴に呼ばれた鵜匠に与えてしまう。前夜のことはもちろん雪の曙も知っているはずだ。それに続いてこれはもう曙の不快感は想像を絶する。そして、その夜も再び二条は大殿と契ることになる。
実はこの大殿、雪の曙にとっては最大の政敵である。雪の曙は亀山方とはあまり合わず、ただひたすら後深草院との結びつきと鎌倉との結びつきを頼みにしている。後深草院は、このあたりの心理を利用して二条と雪の曙の間を引き裂きにかかったのだろう。
そして翌日、それぞれの御所に帰るとき、雪の曙と二条は同じ車に乗った。亀山方の車と別れるとき、二条はなぜか大殿の車を名残惜しそうに目で追ってしまった。以来、雪の曙は二条に冷たくなる。当然だろう。
それでも2人の仲が復活しそうになったときがあった。でも、これは明らかに後深草院の横車によって果たすことができず、以来2人の間は消滅していった。この時になってなぜ院が2人を引き裂きにかかったかというのも興味のあるところである。
次に亀山院。
この人は言うまでもなく後深草院の弟である。実は二条はこの人とも契るはめになる。上の件とは別の機会だが、兄弟2人が1つところで寝ることになり、そこで後深草院の足を揉んでいたときである。亀山院が二条を貸せと言う。後深草院はウンとはいわない。そういいながら、結局後深草院は大量に酒を飲み、早々と寝てしまう。とことん気が弱いのだ。ということでその後はなるようになり、翌朝、その場に彼女がいないことを亀山院が後深草院にいいわけをし、後深草院も納得したふりをした。でも、当然寝たふりをして一部始終を聞いていたに違いないのだ。
このときはこれで終わるが、後で二条が里にばかりいて、なかなか出仕しなかったとき、二条は後深草院とはこのまま離れて、亀山院の世話になろうとしているという中傷(しかし、その手引きをしたといわれる者の名前が妙に具体的だ)が播かれ、それを信じた後深草院に、ついに御所を追放されることになる。
有明の月の場合とは明らかに異なる、結局、いちばん触れてはいけない人間と契るはめになり、その挙句に御所を追放されるはめになった。
2002.6.20
近衛大殿、私は好かないなぁ。二条の家柄の良さを強調しながら、四条家のゴタゴタ(祖父と叔父の太政大臣職をめぐるトラブル)について、その時院政を行っていた亀山院の政治を非難している。明らかに後深草院への追従だ。二条の出奔についても、あの歌は素晴らしいと亀山院が誉めていたことを強調し、二条を持ち上げる。その後に起こったことを考えると、下心ありありだ。そういう相手でも二条は目で追ってしまうんだなぁ。
とはずがたり第3弾。
今日は作者二条におぼれて追い掛け回した阿闍梨、「有明の月」について書きたい。
この人物、後白河院御八講のときにはじめて二条を口説いたようにかかれている。
が、違うのではないかという説がある。実は、その前に契っているかもしれないのだ。私もよくよく読んでみて、そうかもしれないと思うようになった。
というのは、御八講から後には、この人物が「有明の月」という名前をつけられる由来が見えないのだが、その前にはあるからだ。
父雅忠の四十九日に乳母の家にいるところを、雪の曙の従者が築地のくずれに植えてある茨をみて、「さてはゆゆしき御通ひ路になりぬべし」と言って刈り取っている。二条はその報告を受けて、「何事ぞ」とはいうものの、別に心配はしていない。この様子から、作者は曙がその晩に来るかもしれないと思っただろうと、私は思う。
案の定男性が来た。だけど、このとき、妻戸をあけた童が大騒ぎしている。曙ならばそんなことはないのではないだろうか。何しろ曙は十日くらい前に泊まっているのだ。何もしなかったが。もし曙だったら童だってそんなに驚きはしないだろう。
で、その後の記述をみていくと、どうもこの男性、皇族らしいのだ。さらに、このときの後朝に、
「帰るさは涙にくれて有明の月さへつらき東雲の空」
と男性は詠んでいる。どうも、本文中にはこれくらいしか「有明の月」の由来になるような歌がないのだ。作中に、有明の月という言葉を使った歌はいくつもある。ありすぎるくらいだ。だけど、これが名前の由来となると、これくらいしかないのだ。
結局曙を案内役に有明の月が忍んできたと思われる。
この有明の月、曙だけでなく、二条の叔父の善勝寺大納言や、果ては院にまで甘えている。二条に会うためならどんなツテでも使うという執念を感じる。さらに、会えば会ったで、人目を気にするということがない。人の噂になろうがなんだろうが、毎日のように通ってきたりする。あまりのことに、二条が縁を切ろうとすると、大量の起請文をそのとき頼りにしていた善勝寺大納言に送りつけてきたりする。
しばらくは遠ざかっていたが、何しろ相手は阿闍梨。何かの祈祷のときには会わざるを得ない。そうこうするうちに院にも知られる結果になる。で、何と院も有明の月のためにいろいろ取り計らうことになるのだ。なんたって相手は阿闍梨。呪いをかけられたらたまらないのだ。また、相手は僧侶なので政治的力はない。だから、結局取り計らうことになるのだろう。宗教的には大いに問題なのだが。
とはずがたり第2弾。
今日は作者二条の初恋の男性「雪の曙」について書きたい。
前回、この人と結ばれたらどんなに幸せだっただろうと書いたが、実は関係は当初からあった。とはずがたりで作者も「新枕と言ひぬべく」、つまり初めての人と言ってもいいくらいと書いている。初めての人と言ってもいいくらいということは、そうではなく、実際は後深草院が最初の男性だがということなのだが、私は疑っている。わざわざそのように書くということは、実際は曙が最初の男性であると告白しているようなものに思えるのである。事実、巻一を注意深く読んでいるとそのように取れる。
だが、二条が幼少の頃から彼女を紫の上にするべく、後深草院が思っていたことは、父の雅忠は知っていたし、曙も知っていただろう。ということで、それまでは院をはばかって秘密の関係でいたと考えられる。
でも、院がいよいよ年来の計画を実行しようとする気配を知ると、曙は突然大胆になる。初めはこの行動が理解できなかった。だが、院が二条の里で二条と結ばれたあと御所へ連れ去るという事件が起こったとき、院は二条の叔父に「しばし人に知らせじと思ふ。後見せよ」と言っている。つまり、二条のことは公の妻とはせず、あくまで非公式の関係にしたいと言っている。院がそういう気持ちであることは父雅忠は知っていたはずであり、後を追ってきた雅忠は中途半端な状態ではかえって浮名が漏れて困るから、今まで通り女房としてそばに置いてやってほしいと院に食い下がっている。この部分も最初はどうして?と思ったが、突然大胆になった曙とこの記述、あと曙の言葉に父雅忠にあなたのことを頼まれたという言葉があるところを併せると、この突然大胆になるきっかけが父と曙との約束だったのではないかと思う。つまり、院との関係はそれとして、二条が里へ下がっているときなどには何かと面倒を見てやっとほしいと。
雅忠がもっと長く生きていれば、それももう少しスマートにできただろう。だが、二条が院との最初の子供を身ごもっているときに亡くなってしまう。これが二条の不幸の始まりだった。
ところで、『増鏡』を読むと、後に曙と思われる人物は後深草院の妹である前斎宮と契っている。この人、院の妹でありながら、二条の手引きで院と契ることになってしまった気の毒な人なのだが、その手引きをさせられた二条が、妙に意地悪く前斎宮のことを書いている。なぜこんな風に意地悪い書き方をするかなと思ってたが、『増鏡』の記事で納得した。
院とのことがあったあと、曙が熱心に前斎宮の母代わりの人を口説き落として、面倒を見ていたが、ある日、前斎宮は人違いで別の人と契ってしまった。それを知った曙は一時ひいてしまうのだが、それでも最終的には前斎宮を大切に扱い、子供を認知し、さらに別の女性にできた子供を前斎宮の子供として財産分与をしている。二条としては何か嫌味の1つも書きたくなるというものだろう。
曙がなぜ院と同じ女性とばかり契るのか、最初は不思議だった。が、最近やっと納得のいく答えを見つけた。院のあとをフォローして、陰に日向に心身ともに面倒をみることによって、政治的に有利に働くということもあったのだろうと。
曙の人を思いやる優しい性格がさせたこととも考えられるが。
香港シリーズはひとまずお休みして、今日から少し『とはずがたり』という古典作品について書いていきたい。
この作品は、鎌倉時代、後深草院の女房二条が書いた日記なのだが、存在が知られてからそれほどの歴史がたっていない。
この日記が発見されるまで、増鏡の中の人物が本当は誰なのか、長いこと誤解をされていた院(亀山院)もいたが、この日記によって、それが後深草院のことだったことがわかったというものもある。歴史の時間に出てきた『増鏡』には、この日記からそのままとられたと思われる記事が多く載っているのだ。
はじめてこの作品を読んだとき、後深草院という人はなんて変わった性癖をもった人なのだろうと、いやな印象を持った。初めは純情な少年の心をもって二条の母親を慕ったであろうに、その忘れ形見の二条にさせたさまざまな屈辱的なことを思うと、怒りが湧いたものである。だけど、つい最近また読み返してみたら、この後深草院の哀しみが伝わってきた。
自分が天皇になったのを実の母親に恩着せがましく言われ(実は弟の方がより可愛がられていた)、鎌倉にも気を遣い、臣下にもどうもあまり尊ばれていなかったらしい体に若干の不自由がある小柄な上皇の哀しみ。
この院の立場が不安定なために、また院自身が内向的であったために、二条もつらい思いをしなくてはならなくなったのだ。つまり、肝心なときに守ってもらえない。
『とはずがたり』には雪の曙という二条の初恋の人が出てくるが、この人、とても素敵。瀬戸内寂聴の『中世炎上』でも素敵に描かれているが、政治的にも経済的にも絶大な力のあった、しかも心遣いのこまやかなこの初恋の人と結ばれていたら、二条はどんなに幸せだったかと思うのだ。それだけに、側近中の側近でありながら、後深草院はこの人に複雑な気持ちを抱いていただろうということを、またひしひしと感じる。実際、院はこの雪の曙と二条の仲を知っていたと思われるのだ。
この日記、そういう面からもいろいろ読み応えがあるのだが、また別の意味、謎解きとしても興味の尽きない作品である。そして最後の方に、この作品を書く動機となった重要なことが書いてある。事実とされていることからはどうしても立証できないが、でも、もしかしたら…と思える記述があるのだ。その謎を解くために増鏡上中下まで買ってしまった。これについてはまた追々に書いていきたい。