谷崎潤一郎研究のつぶやきWeb

その3(2016年8月1日)東雅夫編『あやかしの深川』と林伊勢著『兄潤一郎と谷崎家の人々』

東雅夫編『あやかしの深川』と林伊勢著『兄潤一郎と谷崎家の人々』本2冊到着。

谷崎潤一郎文庫第7巻付録の月報5には、松子夫人による文章で、どこに越しても椿を植えていたことや、別の文章で、伊勢さんが幼い時、伊勢さんが何をしても怒らない谷崎のことが書かれていましたが、林伊勢著『兄潤一郎と谷崎家の人々』で、そういう谷崎に再会しました。

 そんな中で長兄は平気で寝ていて、毎朝、いつまでたっても起きて来ない。そんな長兄を起しに行くのが私の役目になっていた。私は、
「兄さん! 起きりょう!」
 といって、長兄の鼻をつまんだり、足を引っ張ったりして、長兄を起した。また夜おそく原稿を書いている長兄の背中にぶら下がったり、揺すったり、後年の長兄なら、とてもそんなことをさせるはずもなく、またするものなどもいなかったであろうが、その頃の長兄は、私には少しも怒ったり叱ったりなどしない、やさしいいい兄であった。今、思いかえしてみると、机の上に「正宗」の四号瓶と茶呑茶碗が置いてあったから、原稿を書きながらチビリチビリと茶碗酒をのんでいたのだと思うが、幼い私に酒といっては悪いとでも思ったのか、私がうしろからまといついて、ぶら下ったりすると、
「ほら、そんなことをすると、水がこぼれる」
 などと長兄はいった。その酒は、母が料理につかうために買ってあったものらしく、

有名な酒塩事件は、作品を書く際に幻想を助けるために使っていたのかもしれませんね。後年の『猫と庄造と二人のをんな』のシーンが思い浮かびます。

それからこれも以前誰かが指摘しているのを読んだ記憶があるのですが、伊勢さんは本の中で、養女に遣られていた先を、常に「葛飾」と書いています。

叔父の仕事は

地の底の水脈や鉱脈を掘りあてる仕事

と書かれています。

ちなみに、谷崎の祖父は、小名木川べりの釜屋堀の釜を製造する釜六という店の総番頭でしたが、維新の際に主人が田舎に避難している間、店を立派に跡を預かって立派に営業を続けて行き、やがて世間が静まった後に主人に店を返したので、深く主人から徳とされたと、『幼少時代』に書かれています。
とすると、その1の年表にあるように、末子である萬平さん(明治4年12月25日生まれなので、当時はまだ10代半ば)を南葛飾郡猿江村(その2で触れたように、まさに釜屋堀にあたります)に跡取りとして派遣したことの意味を色々考えるわけです(余談:晩年の久右衛門はロシア正教系のキリスト教徒に)。

参考情報:
コトバンク 東京人造肥料会社とは
江戸鉄瓶の魅力

もう一方の『あやかしの深川』には、谷崎の『刺青』が入っていることはもちろん、他の作品も、軒並み谷崎作品読解に大いに役立ちます。

たとえば、宮部みゆき著『時雨鬼』には次のような台詞があります。

「二十年近くも昔、そうこの深川のあたりがまだ朱引きの内に入らずに、下総しもうさの代官差配地だったころのことさ。あんた、十万坪とか六万坪とか呼ばれている、猿江や大島の新田の方へ行ったことはあるかい? あっちはずいぶんひなびているけれど、それでも今は武家屋敷がずいぶんあるだろ。あのころはもっともっと何もなくてさ、大きなお屋敷と言ったら一橋ひとつばし様があるっきりで、〈中略〉そのかわり梅林は見事でね。春には目も洗われるようだった。朝に晩に、青い掘割に沿って、満開の梅の上を、都鳥が群れをなして飛んで行く。極楽の眺めってのは、こういうのを言うのかなって思ったくらいだったよ」

この記述によって、いろいろなことがつながってきました。これについてはその4で書くつもりです(フェイスブックページ『谷崎潤一郎研究のつぶやき』の該当記事)。

また、泉鏡花著『深川浅景』には、『葛飾砂子』撮影時と思われる谷崎とのお話が挿入されています。他にも永井荷風や三遊亭圓朝等、それを読むことによってきっと何かが得られるに違いない作品が詰まっています。これについてもまた書きたいと思っています。




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作ってしまいました(^^)