その1(2015年11月5日)二代目谷崎久右衛門襲名関連年表
- 明治15年7月12日
- 熊右衛門、蛎殻町壱丁目三番地より蛎殻町弐丁目拾四番屋敷内借地に転居。(熊右衛門妻フサは、箱崎町二丁目商加藤三次郎姉。)
- 明治16年8月21日
- 熊右衛門改名し、初代久右衛門に。
- 明治16年12月17日
- 神田相生町二番地江澤秀五郎三男倉五郎、谷崎家に入籍(久右衛門三女セキは、長谷川長兵衛方へ寓居。明治18年、夫共々別戸分籍。)。
- 明治17年1月
- 庄七、戸主に。父久右衛門、隠居。
- 明治17年12月2日
- 谷崎萬平、南葛飾郡猿江村六十八番地谷崎テツ死跡相続人ニ遣ス。
- 同日
- 初代久右衛門改印。
- 明治18年3月2日
- 倉五郎長男、熊吉生まれる。同4日死亡。
- 明治18年12月22日
- 倉五郎、久右衛門三女セキと共に蛎殻町壱丁目二番地へ別戸分籍。
- 明治19年2月24日
- 倉五郎、米穀仲買人認許料支払い。3月、認許取得。
- 明治19年7月24日
- 谷崎潤一郎誕生。
- 明治21年6月10日
- 初代久右衛門死去。21日、庄七、二代目久右衛門ト改名許可。
- 明治21年6月13日
- 小中村清矩転居。(『小中村清矩日記』)
(この頃、小中村清矩三男三作、頻繁に外泊。清矩心労。)
- 明治21年9月11日
- 谷崎久右衛門(和助事)入来。三作面会。依って手紙遣し書類返ス。(『小中村清矩日記』。谷崎の『幼少時代』によると、和助は谷崎の父倉五郎の幼名。)
- 明治26年8月29、30日
- 二代目久右衛門末弟長谷川清三郎、戸籍の初代久右衛門の実印のあたりを破りとる。
- 明治26年9月11日
- 始末書
- 12日
- 戸籍毀損ニ付改写ノ伺、同日東京府知事聞届ク。
- 明治26年10月21日
- 深川警察署巡査から署長に復命書。30日、深川署から東京府宛に報告。(改写された戸籍の、庄七の出生日は、国民兵入籍と朱書されたものとあわせて2つある。)。
以上、石川悌二著『近代作家の基礎的研究』に掲載されている、改写された戸籍に『小中村清矩日記』の記述を合わせて木龍美代子が作成
参考(『小中村清矩日記』より引用)
- (明治15年7月)十九日 薄曇。
- 川田〔佐々木ノ事〕へ郵書。○早朝井上頼国。次で鎌倉宮々司松岡利紀来。面会。○本居内入来〔くわし賜〕。△奥田払本、大学にて浅くら屋招キミせる。○田沢耕来〔茶賜〕。
- (明治16年7月)廿七 半晴。
- 午前九時大学へ出〔佐々木へよる〕、十時より令試業、十二時三十分迄カゝル。図書課へ廻り大和田ニ面会。過日拝命之由。夫より文部省へ廻り三時過帰宅。○宮内省福羽より再度使来ル。依て橘へ郵書。○夕刻より夜へカケ生徒答弁書取調点ス。○江沢来る。近々和三郎殿婚儀之由。
- (明治21年6月)十日 晴。午後曇。日曜
- 塙来る。逢はず。○午後一時芝紅葉館行。華族亀井茲監ぬし三週追遠哥会也。題者ハ福羽・高崎、読師ハ石河正養・伊東祐命、講師ハ加部厳夫・安部真貞也。条公・東久世・近衛老公・伊達宗城侯・千家尊福其他華族の男女七八名、以下ハ木村・三田・黒川・大谷・小出・松波・八十子・久子其他当日掌事・接待掛十五六名也。暮て帰る。中ばし日のやへ寄、十三日之事頼。○右馬へ郵書出ス。十三日之事頼ミ。〈頭書〉朝三作帰る。又出。
木龍注1:この日の天気の記述が、他と比べて詳しい。曜日まで入っているのはさらに珍しい。初代久右衛門死去当日。亀井茲監三週追遠哥会。この日、小中村清矩、急遽三日後の転居決めたか。この日の出来事は、『春琴抄』の天下茶屋の梅見と亀井家、鷗外との接点か。御霊神社の船場鎮座は津和野藩主亀井氏が邸地を割いて寄進された。
木龍注2:
川田:川田甕江(川田順の父)
佐々木:佐々木弘綱(佐佐木信綱の父)
江沢:江沢藤右衛門(谷崎の父の長兄、小中村清矩三女の夫)
明治15年は、佐々木父子が上京、川田順が誕生、谷崎の祖父が、後に谷崎潤一郎生誕の地とされる住所に転居、小中村清矩三男三作がその後長く続く体調不良になるという、大変重要な年です。