その2(2016年7月28日)萬平氏が相続した屋敷について
その1の年表で、「明治17年12月2日 谷崎萬平、南葛飾郡猿江村六十八番地谷崎テツ死跡相続人ニ遣ス。」という部分が気になり、南葛飾郡猿江村六十八番地を探してみました。
まずはスマホアプリ「こちずぶらり」等を使って東京市内の地図ばかり見ていました。当然南葛飾郡は省かれています。したがって、深川区の猿江町、猿江村が混じっているところを見ていました(「こちずぶらり」に掲載されている1900年の地図に相当するものを、国際日本文化研究センター 所蔵地図データベースで見つけたものを貼ります。)。
そんな時、小名木川~塩の道を歩く~東京観光 歴史と文学の旅というサイトに行き当たり、ちょうど五本松という月の名所が68番地だということをgooの古地図(古地図をクリックして、明治を選択してください。)で確認しました。猿江時代の慈眼寺の場所も確認できます。
そういえば、谷崎の作品には『月と狂言師』等、月に関する作品が結構あります。これは決まりかなと思った時、東京府南葛飾郡だったということに気づき、振り出しに戻りました。
となれば、これは『幼少時代』で谷崎の祖父が番頭をしていたという釜六が俄然クローズアップされてきます(参考:渡し碑コレクション/釜屋の渡し跡)。
改めて、いろいろな地図を見ました。たとえば大正1年発行 東京市区調査会『東京市及接続郡部地籍地図. 下卷』を見ると、もともとの猿江村あたりが大字大島字釜屋裏になっています(「小名木川べり」では釜七が現役営業中です)。
その後、猿江村68番地が確認できる資料も見つけました。次の2つの地図を合わせて見れば、ほぼ確定できるのではないでしょうか。
初代谷崎久右衛門は、店を主人に返したということですが、明治17年に末子を跡取りとして派遣した件と併せると、いろいろ想像が湧いてきますね。「深く徳とされた」から三男(谷崎終平著『懐しき人々』では三男、石川悌二著『近代作家の基礎的研究』に掲載された、改写された戸籍では次男)を養子にということになったのか等。
ここでまた疑問が沸いてきます。谷崎の手紙等から、萬平氏は「小松川の叔父」と呼ばれていましたが、「字釜屋裏」を小松川とするにはやはり無理があるように思います。そこで、大正14年の地図を確認したところ、「字釜屋裏」にある東京人造肥料会社の小松川工場ができています。
「蘆荻の生い茂る」低湿地帯には、ガスや肥料の原料が豊富だったのでしょうね。
そういえば、深川が舞台の『刺青』の主人公が、理想の女性に刺青を施す前に、彼女に見せた絵のタイトルが『肥料』でしたね。
猿江商會刊『あやかしの深川』には、『刺青』も入っています。
公益財団法人渋沢栄一記念財団のサイトに、大日本人造肥料株式会社小松川工場 - ゆかりの写真というページがあります。
一 沿革
東京深川釜屋堀なる当会社は、本邦に於ける人造肥料製造の鼻祖にして、夙に人口に膾炙し、隠然全国人造肥料業の覇者たるの観あり、当社は明治二十年青淵先生及高峰博士の首唱により、侯爵蜂須賀茂韶、大倉喜八郎、安田善次郎、益田孝、馬越恭平、浅野総一郎、三井武之助、渋沢喜作等諸氏の賛同を得、資本金弐拾五万円を以て創立したりしが、
谷崎作品を調べていると出てくる名前がズラリと並びました。前後のページを読むとさらにその感を深くします。第20回 谷崎潤一郎研究会での笹沼東一氏のお話(偕楽園経営の経緯やお母さまの旧姓等)も思い浮かべます。蜂須賀氏との関連は、谷崎作品関連人物関係図をご覧ください。
なお、調べてみると、渋沢氏が作る会社と蜂須賀氏との関連は大変強く、蜂須賀家の家令が社長を務めた会社もいくつか認められます。
石川悌二著『近代作家の基礎的研究』には、清三郎氏の事件絡みで活版所の支店等も出てくるので、それらの住所も探求してみたいと思います。
2017-6-14 追加情報
谷崎叔父萬平氏が明治17年に相続したのはこの赤丸のところと思われます。
— 木龍美代子 (@miyokosroom) 2017年6月14日
(この地図は、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」((C)谷 謙二)により作成したものです。) pic.twitter.com/vlvUOX2TSj