谷崎潤一郎研究のつぶやきWeb

その8(2016年11月14日)最近になって「いいね」のあった昨年の投稿1 『羹』について

先月末、フェイスブックページ「谷崎潤一郎研究のつぶやき」の昨年6月の投稿2つに「いいね」が付きました。最近のTwitterでのつぶやきにもつながっている内容ですので、ここに保存したいと思います。まずは『羹』についての投稿です。

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前回予告した、『羹』から続く「お静」について書く前に、『羹』を読み返しています。
前から思っていましたが、まー、同じことをダラダラと、本当に谷崎の作品とは思えない筋の運びの遅さです。

まあ、それはそれとして、登場人物の名前の付け方に、それぞれの登場人物に埋め込まれたモデルの一部を代表して当てはめている形跡があります。
美代子については、鷗外の長男の実妹が浮かぶのですが、それ以外にも埋め込まれています。
その一人が川田順の母ですが、それがわかるのが次の一節です。

美代子の父、清助と云ふのは、商売にかけてはなか〳〵抜け目のない代り、若い時分から放蕩の限りを尽して、二三人の妾もある上に大勢の子を孕ませ、其れがみんな一軒の家に同居していた。さうして、正妻のお綱が、老い先の楽しみとするのは、正腹の娘の美代子一人であつた。

これに該当するのが、川田順著『葵の女』に登場する、川田甕江が依田学海に書かせた川田順の母の墓碣銘「川田少房本多氏墓碣銘」の一部です。

姫父曰清助。母大野氏。世以商出入柳川侯邸。購辨市場。家頗富。然性好靜不喜豪華。初帰一富商。其人極俗。姫怏怏不樂。遂求離別。時父資産落。利其容色。欲更嫁大腹。姫不肯曰。寧爲名士妾。不願爲俗人妻。乃帰甕江。姫清痩而白皙。素粧澹泊」「素拙於治生。偶有所得。父母兄弟隨而持去。不毫吝惜」「明治廿六年三月一日歿。享年三十七。越三日。葬東京吉祥寺側。乃川田氏之塋域也。姫以可瞑矣」

これは『春琴抄』を解くうえでも貴重な一文なのですが、ここでは上に挙げた『羹』の一節と比べていただければと思います。

『葵の女』では、これについて川田順とその伯母の会話もあります。

「言はばあなたのお祖母さんが苦勞させたやうなものなんです。かう言つてはすみませんが、娘の器量のいいのが自慢で、嫁入先へ行つてはずゐぶん無理を並べたと聞いてゐます。はじめは藏前の有名な太物問屋、さんさくと云ふ家へかたづけたんですが、いくらも經たないうちに取戻して、今度は芝の大きなお風呂屋さんへ嫁にやつたんです」「風呂やといふと錢湯のことですか? ひどいですな」「さうぢやないのよ。順さんも江戸のことがわからなくりましたね。風呂屋といつたつて同業の元締めで、それはたいした身代のものなんでしたよ。それを又もお祖母さんが不縁にして、あなたのお父さまのお世話になるやうな筋道になつたんです」「それぢやボクの母は人形みたいなものですね」「さやうさ。本當におとなしい人で、右といへば右、左といへば左、半日でも一日でも、いはれた方を向いて坐ってる人でしたよ。可哀さうなものさ。さんさくの奥さんで収まつてゐたら、どんなに仕合せだつたらうと思ひますね」

これらが、最初に挙げた『羹』の一説に符合するのです。

ただし、美代子に埋め込まれているのは川田順の母だけでないことは前にも書いたとおりで、『羹』にはそれらの要素が次々と貼り込まれていくわけです。これは、その後の古典回帰と言われる作品群でも受け継がれていくのですが、晩年になるほど、それが見事になっていくのは、これは谷崎のすごいところだと思っています。

そこでまた繰り返すのですが、そういう頭脳を持っている谷崎が、読んでいくうちに矛盾点(後年の谷崎はそれを武器にしましたが)がドカドカ出てくる作品を自分の頭で書いたとは、やはり到底思えないのです(^^;




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作ってしまいました(^^)