その16(2022.09.21)レクチャーガーデン「谷崎文学を歩く」――寄り道2_『細雪』に埋め込まれる「貴種流離譚」と貞之助、奥畑の動きについて(板倉編)
前回予告の通り、今回は『細雪』を題材に、そこに埋め込まれる貴種流離譚について、板倉と三好を中心に、貞之助、奥畑の動きを書いてみたいと思います。
まずは板倉について、気になる記述をリストアップしてみます。
- 阪神国道の田中の停留所を少し北へ這入った所に「板倉写場」と云う看板を掲げて、芸術写真を標榜した小さなスタディオを経営している写真館の主人
- 奥畑商店の丁稚をしていたことがあり、中学も出ていないが、その後亜米利加へ渡ってロスアンジェルスで五六年間写真を学んで来たと云うのだけれども、実はハリウドで映画の撮影技師になろうとして機会を摑み得なかったのだと云う噂もある
- 奥畑商店の主人(啓坊の兄)が多少の資金を出したり、得意先の世話をしたり、いろいろ庇護を加えたりした縁故があるので、啓坊も贔屓にしていたところ、妙子が自分の製作品を宣伝するために然るべき写真師を探していたので、啓坊の紹介で頼むようになった
- 啓坊曰く「板倉と云う人物には全然信用が置けません。何しろ三界を渡り歩いていろいろなことをして来た人間です。」
※三界には、一切の衆生が生死流転する迷いの世界、即ち、欲界(=淫欲・食欲の二欲の強いものが住む所)・色界(=二欲を離れたが、まだ物質的存在にとらわれているものの住む所)・無色界(=物質を超えた世界)の三つの世界という意味がある - 岡山在の小作農の倅
- 板倉曰く「奥畑家は僕の主筋に違いないが、僕が実際にお世話になったのは先代の大旦那と今の旦那(啓三郎の兄)と、お家さん(啓三郎の母)だけだ、啓坊はただ旧主の家の坊々であると云うだけで、直接恩を受けてはいない」
- 水害時、妙子を助けるために天から降ってきた
- 中耳炎からなぜか脱疽に。水害の時、貞之助は片方の靴を濁流に取られている。板倉は脱疽で左足切断後亡くなる
- 妙子は板倉のことを奥畑商店の丁稚時代の呼び方「米吉」から米やんと呼んでいた
- 啓ぼんは、あれこれ言いながらも板倉への輸血のために従業員と共に献血したり、亡くなった時には棺を担いでいる
板倉は典型的な貴種ではないかと考えています。谷崎がよく随筆で取り上げる「義経千本桜」の鮓屋の段。弥助(実は平重盛の子息三位中将維盛)の釣瓶鮓屋での扱いを思い浮かべますね。
板倉という姓を持つ写真師として、私はかねてから淡海槐堂をチェックしています。経歴を見てみると、
近江国坂田郡中村(現在の滋賀県長浜市)の下坂篁斎の子として生まれる。3歳のときに京都の薬種商武田家の養子となる。安政2年(1855年)に、醍醐家に仕えて功績が認められ、板倉姓を賜り、筑前守に任ぜられる。あわせて従六位を叙されている。
勤王の志に篤く、七卿落ちや天誅組・長州藩などを資金援助。坂本龍馬・中岡慎太郎にも惜しみなく支援[1]を行っている。
禁門の変(1864年)ののち幕府に捕らえられ3年間獄中の身となる。のちに赦免され、慶応4年(1868年)3月に大津裁判所参謀や宮内中録に任ぜられと、淡海(おうみ)と改姓した。しかし、新政府と意見が合わずすぐに辞任。
明治3年(1870年)には位記を返上、槐堂を号し[2]、多くの文人と交遊して文雅三昧に暮らした。享年58。
槐堂は、梁川星巌に就いて漢詩を学び、書画・篆刻も能くした。実弟江馬天江の編集した『高古印譜』に槐堂の自刻した印影が多く掲載されている。『円山勝会図録』[3]にも名がみえ煎茶を嗜んだ。
坂本龍馬の誕生祝いに槐堂が自作して贈ったといわれる「梅椿図」[1]は「坂本龍馬関係資料」のうちの1点として、日本の重要文化財に指定されている(京都国立博物館所蔵)。この掛け軸には近江屋で龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたときの血痕が数カ所残されている。
槐堂は進取の気性に富み、長崎からカメラを取り寄せ自ら撮影に取り組んだ。安政6年(1859年)、槐堂が撮影した鳩居堂7代目当主熊谷直孝の肖像は京都市最古の写真とされる(京都市指定文化財)[2]。
明治36年(1903年)、正五位を追贈された[4]。
これは只者ではないでしょう。長浜市のサイト内のページ、下坂氏館跡によると、室町時代初めから戦国時代まで続く「土豪」「地侍」と呼ばれる「村落領主」の屋敷跡ですということですが、このページからダウンロードできるパンフレットには、下坂氏についてもう少し詳しく、戦国時代には京極氏や浅井氏に仕えたことが知られとも書かれています。京極氏・浅井氏については谷崎作品周辺人脈に見られ、作品にも多く埋め込まれています。
「京都の薬種商武田家」もポイントですね。そうです。『春琴抄』の佐助ですね。佐助もただの奉公人ではないですよね。
板倉という姓を一時賜ったというの点も注目しています。『細雪』の板倉は岡山出身です。岡山の板倉といえば、備中松山藩の藩主。谷崎作品に何かと関わってくる川田順の父、川田甕江が藩儒として仕えた家です。Wikipediaの板倉勝弼のページには、次のように書かれています。
旧幕府軍に最後まで忠義により与して箱館まで転戦したため、松山藩は新政府の追討を受けることとなった。そこで、藩の執政山田方谷は、勝静とともに函館転戦した嫡男の勝全ではなく、勝弼を連れ出して新藩主に迎えることとし、川田剛を使者として迎えに行かせた。
当時の松山藩は朝敵の立場であり、藩関係者への新政府の監視の目は厳しかった。川田は勝弼に丁稚の格好をさせて備中玉島行きの船が出る横浜へと向かったが、途中で新政府軍の兵士に発見された。その時、川田は『勧進帳』の話を思い出してとっさに勝弼を殴り飛ばしたところ、兵士たちも驚いて通行を許可したため、備中松山に無事到着したと言われている。
「岡山、板倉、丁稚」です。この件は、川田順もその著書で自慢にしています。ただ、書かれていた記憶はあるのですが、『葵の女』だったか『住友回想記』だったか、見つかりません。見つかり次第追記します。